「飴は引けば同じ」と言われ木型を返しました。夏、歯にくっつきます
熱い。
柚葉は指先で耳たぶをつまみ、まだ白い飴を片手から片手へ渡した。火傷に一文でも付くなら、釜場勤め十一年のいまごろは長者である。残念ながら、赤くなった指は一文にもならない。
引き終えた飴を角の減った木型へ押し、するりと抜く。朝の陽へ透かすと、細い縁まで艶が通っていた。よし。今日のぶんは、歯にも店の名にも余計なものを残さない。
「飴なんぞ、煮て引けば同じだ——」
背中から廉太の声が来た。燕路へ話しているらしい。聞かせるつもりがないにしては、釜の煮立つ音に負けない、たいそう親切な声量だった。
「釜の温度を揃えて、引く回数を決めておけばいい。柚葉にしかできないように見えるのは、あれが何も人に教えないからだ」
ほう。柚葉はもう一枚を抜き、陽へ透かした。誰にでもできる仕事を十一年も独り占めしていたとは、我ながら大罪人である。お縄になる前に、せめて今日の卸ぶんは仕上げておこう。
燕路は何も答えなかった。三十年この店にいる番頭は、愛想笑いにも銭がかかると思っているのか、必要のないところでは口を開かない。
「冬場に七度引いたら、ちゃんと艶が出た。若い衆にもやらせたが、出来は変わらなかったぞ」
乾いた朝だった。戸口の縄暖簾さえ、ぱりぱりしている。
柚葉は木型へ飴を押し込みながら、八度目を数えた。空は晴れ、風は北から。手控えにはそう書いてある。昨日より湿りがわずかに残るので、七度では角のところが甘い。
八度目にかかる手間は、薪一本にも満たない。薪一本を細く割れば三文ぶん。三文か。三文で十一年が買えるなら、若旦那はずいぶんよい買い物をなさった。
「柚葉」
呼ばれたので、彼女はようやく振り返った。
「はい、若旦那。今日の卸ぶん、揃っております」
「……聞こえていたのか」
「釜がよく鳴っておりましたので」
廉太は釜を見た。釜は何も申し開きをしない。実に頼れる共犯者である。
柚葉は飴を籠へ並べた。艶の揃ったものだけが、春の陽を細く返した。
* * *
手控えの天気欄を、若い衆の指がぺらりと弾いた。
「姐さん、ここ、もう要りませんよね。日付の横に晴れだの雨だの。温度と引いた数があれば足りますよ」
要らない欄は、ずいぶんよく指に引っかかるらしい。若い衆は二度、三度と紙を弾いた。破れれば新しい紙代がかかるので、柚葉は手控えをそっと引き取った。
「そうでございますか」
「若旦那が、柱へまとめてくださるそうで」
廉太は糊を塗った紙を柱へ貼った。釜の温度と、飴の量ごとの引き数。太い字で、遠目にもよく読める。晴れても雨でも同じ柱である。柱は湿らないのだろう。たぶん。
「これなら間違えない。温度を守って、決めた回数だけ引く。それで同じものができる」
「まあ、これで誰でも引けますねえ」
「姐さんも楽になりますよ」
女中たちが声を揃え、若い衆も笑った。一度でよく揃う。飴より先に、こちらを卸したほうが売れそうである。
柚葉は柱の紙を下から上まで読んだ。読めない字はない。足りない字なら、いくつかある。
「若旦那。卸三軒への今月の納めは、わたくしが済ませてよろしゅうございますか」
「構わない。来月からは皆で回す」
「承知いたしました」
卸へ運ぶ籠の底に、短い紙を三枚入れた。梅雨前後だけは、いつもの数に引きを足してくださいませ。たったそれだけである。頼まれていない講釈は、売り物にもならない。
戻ると、廉太は柱の前で腕を組んでいた。
「これまで柚葉一人に任せきりだったのが、そもそもよくなかった。仕事は誰か一人しかできない形にしてはいけないんだ」
「左様でございますね」
「お前が休めば、皆が困る。それでは店とは言えない」
「ごもっともでございます」
反論の一つもすれば、役目へ縋っているように見える。それは高い。見栄は腹の足しにならないくせに、手放すとなると妙に値が張る。
柚葉は釜場の棚を見渡した。木杓子、布巾、手控え、鍵。それから、十一年使って角の減った一枚の木型。
「飴は、煮て引けば同じでございます」
廉太は満足そうに頷いた。
「分かればいい」
分かった。実によく。
柚葉は手控えを閉じた。明日の天気欄は白いままだった。
* * *
翌朝、柚葉は一番よい外出着で釜場へ入った。紺の裾へ灰が付かぬよう、膝を少し浮かせてしゃがむ。これで灰を付けたら洗い賃。最後まで釜場は油断ならない。
布を水で固く絞り、角の減った木型を拭いた。溝に残った飴を竹串で取り、裏も縁も撫でる。次に木杓子を拭いた。柄の手垢は十一年ぶんあったが、こちらは一朝では落ちず、落とす必要もなかった。
「姐さん、今日は火を入れないんですか」
若い衆が戸口から覗いた。
「ええ。皆さんがお引きになりますでしょう」
「でも、朝一番は」
「柱に書いてございます」
これは便利。何を尋ねられても柱が答える。いずれ茶も淹れてくれれば、女中の手も空くだろう。
柚葉は木型と木杓子を両腕に載せ、勘定場へ運んだ。廉太は売上帳を開いていたが、彼女の外出着を見て眉を寄せた。
「何だ、その格好は」
「お返しに参りました」
木型を廉太の手へ載せる。彼は受け取るつもりで出した片手を、重さに遅れて両手にした。
「何をだ」
「お役目を」
「誰も辞めろとは言っていない」
「はい。どなたでも代われるようにしてくださったので、わたくしも代わっていただきます」
廉太は木型を見た。角の減った一枚は、彼の両手の中で急に古びて見えた。昨日まで釜場にあったときは、まだ働く顔をしていたのに。
「勝手にされては困る。引き手を増やす話と、お前がいなくなる話は別だ」
「まあ。わたくし一人に任せきりでは、お店とは言えないのでございましょう?」
「それは——」
柚葉は釜場の鍵を売上帳の脇へ置いた。金具がこつりと鳴り、その音だけは廉太にも聞こえたらしい。
二度、講女衆から手伝いだけでなく、飴を作る場所を持たないかと誘われたことがある。そのたび柚葉は、店の飴がございますので、と断った。昨日までの話だ。昨日までは。
燕路が勘定場の隅から出てきた。引き止めるでもなく、戸を開ける。
「番頭さん。長らくお世話になりました」
「ああ」
「それだけでございますか」
「荷は、もう講の方へ運ばせた」
余計な慰めはないくせに、仕事は一手早い。柚葉は頭を下げた。これでは礼を言うしかない。礼はただなので、深めにしておく。
「柚葉。話は終わっていないぞ」
廉太は木型を抱えたまま言った。
「わたくしの話は、終わりました」
外出着の裾を整え、敷居を越える。背中に声は追ってこなかった。
春の陽は明るかった。十一年分の荷を下ろしたはずなのに、肩が軽いとは限らない。軽くないものまで、もう運ばなくてよいだけだった。
* * *
冬の飴は、変わらなかった。
柚葉が講女衆の手伝いで茶碗を数えているころ、若い衆は貼り紙どおりに釜を見て、貼り紙どおりに引いた。乾いた風の日には角が立ち、艶も出る。初霜の日、女中が一つ割って皆へ配ったという。
「ほら、変わらない」
その一度の笑い声は、講の用事で店先を通った柚葉にも届いた。景気のよいことである。飴一つで五人が勝てるなら、たいへん効率がよろしい。
柚葉は足を止めず、借りた籠を抱え直した。中には干菓子が入っていた。飴だけならまだしも、他家の干菓子まで一つ摘まんで陽へ透かしてしまう。十一年というものは、なかなか抜けない。
「柚葉さん、また見てる」
講女衆の一人に見つかり、彼女は干菓子を籠へ戻した。
「欠けがないか、確かめただけでございます」
「食べたいなら食べればいいのに」
「食べたいものを全部食べていたら、わたくしの腹が講より大きくなります」
「そのときは大きな帯を買いましょう」
「帯代まで出るのでしたら、考えます」
笑いながら座敷へ入る。茶を注ぎ、菓子を並べ、注文の紙を束ねる。釜場で立ち通しだったころより、番茶を口へ運ぶ回数は増えた。ただし、ぬるい。人の世はままならない。
春も、店の飴は変わらなかった。廉太は引く回数を一度減らし、薪を節したらしい。それでも乾いた日は艶が出た。
引きを三度足すのに、かかるのは薪一本ぶん。三文でございます。三文を惜しんで、二十日ぶんの卸を落とすのがこのお店の算用ですのね——と、言う相手はもういない。
柚葉は講で受け取る手間賃を小箱へ入れた。一日何文、ひと月でいくら。釜を買うには遠く、番茶を買うには足りる。悪くない。少なくとも、誰でもできる茶碗数えを、彼女がいなければ困る顔で頼まれる。
店では、若い衆が冬と同じように笑っていた。
梅雨が来るまでは。
* * *
「あら、取れない」
講の座敷で、女衆の一人が口元を押さえた。
包み紙を開いたときから、飴は少し丸かった。四角く作られたはずの角が、紙の中で眠ったように潰れている。陽へ透かすまでもない。それでも柚葉は一つ摘まみ、縁へ光を当てた。
艶が鈍い。
「歯にくっついたわ。夏の飴って、こんなだったかしら」
「去年は、講の帰りに皆で噛んだでしょう。こんなに残らなかったわよ」
怒る声ではなかった。女は指先で口元を隠し、水を含んだ。残った飴は包み直され、菓子鉢の端へ寄せられた。
それだけだった。
翌月、卸三軒から店へ届く注文札が消えた。講女衆も飴を別の菓子へ替えた。誰も怒鳴り込まず、誰も作り直せとは言わない。買わない客は静かである。実に静かで、そのうえ控え帳の数字だけはよく喋る。
柚葉は講の使いで店の前を通った。梅雨の昼だというのに、荷車を寄せる場所が空いていた。店先の軒から雨粒が落ち、卸籠は裏返したまま乾く機会を失っている。
開け放した奥に、廉太がいた。
柱の貼り紙を見上げている。釜の温度。飴の量。引く回数。視線を下ろし、また見上げる。三度目には、紙の端を爪で剥がしかけ、やめた。
「温度は合っている」
廉太の声が戸口まで届いた。
「回数もだ。冬と同じに作った。なぜ夏だけ崩れる」
若い衆は釜を見た。女中は包み紙の中で丸くなった飴を、指で押し戻そうとしている。戻した角は、指を離すとまた鈍く寝た。
燕路が、柱ではなく店先を見ていた。雨の向こうに柚葉を認めても、呼ばない。ただ廉太へ向き直った。
「姐さん。あんたが引いた飴だけ、夏でも角が立ってた」
それ以上は言わなかった。
廉太は柱を見上げた。貼り紙には天気欄がない。
柚葉は手にした飴を、まだ陽のない空へ掲げた。湿った光さえ通らず、白く濁っている。これ一つでいくら損か。卸二十日ぶんでいくらか。薪なら何本か。
数えるはずのものが、指の間で止まった。
飴の角だけが、ゆっくり丸くなっていった。
* * *
「ひと月に、まず三十籠」
卸の者は、挨拶より先に注文量を置いた。
「うちは二十五。梅雨どきは五つ減らしてもいい。その代わり、納め日はずらさないでほしい」
「こちらは祭り前に四十。欲しいのは店の飴ではなく、柚葉さんの引いた飴だ」
講女衆はその横で、空いている小屋の寸法を書きつけていた。釜を置く場所、薪を積む場所、飴を冷ます台。話が早い。早すぎて、柚葉の銭勘定が裾をからげて追いかけても、もう三町ほど先へ行っている。
「お待ちくださいませ。釜だけで、これほど。台と木型で、さらに。薪はひと月に——」
「三軒で釜を出す」
「講で場所と台を出すわ」
「前金も払う。最初の三十籠ぶんだ」
「それでは、皆さまの取りぶんが」
「注文した飴が来る。それが取りぶんだ」
何という恐ろしい人々だろう。欲しいものへ金を払う気でいる。商いとして真っ当すぎて、若旦那の柱より難しい。
「柚葉さん。前にも二度、ここで作らないかって言ったでしょう」
「その折は、店の飴がございましたので」
「いま頼んでいるのは、店じゃないわ」
講女衆は紙の一番上へ大きく書いた。
柚葉の名の釜。
薪何本。工賃何日。木型を何枚。番茶は——これは仕事道具ではないと削られそうなので、心の控え帳へ付けておく。休憩の茶は必要経費。異論は認めない。
卸の一人が、見本にと古い包みを卓へ置いた。旧店から最後に納められた飴だった。
柚葉は包みを開いた。角はなく、表面は曇り、二つがくっついている。指先で一つを持ち上げると、もう一つまで連なって上がった。
いつもの癖で、窓の明かりへ透かした。
手が止まった。
釜代も、薪代も、落ちた注文も、何一つ銭にならなかった。十一年引いた飴が、彼女の知らない顔でぶら下がっている。
「柚葉さん?」
誰も急かさなかった。慰めも足さず、注文書だけが卓に置かれている。
「わたくしは、惜しまれたことがございません」
自分の声なのに、どこから出たのか分からなかった。
飴を包みへ戻す。紙は指へ少しくっつき、すぐ離れた。
「けれど、三十籠、二十五籠、祭り前に四十籠。こちらは、惜しんでいただけるのでございますね」
「納め日を守ってくれればね」
「番茶を熱くしてくれれば、もっと励めます」
「自分で淹れなさい」
軽口が戻るまで待っていたらしい。講女衆が笑い、卸の者は注文書を柚葉の前へ押した。
彼女は名を書いた。
釜代は三軒。場所と台は講。報酬は柚葉の手へ入り、旧店の穴にも、若い衆の給金にも、一文たりとも回らない。新しい木型、新しい薪、そして座って飲める番茶へ回る。
これからの勘定だけでよい。
* * *
新しい釜へ火を入れて十日目の朝、戸口に影が差した。
廉太だった。
両腕で、角の減った一枚の木型を抱えている。返した朝と同じ型だ。飴の粉は拭われていたが、溝の隅へ古い白さが残っていた。
「柚葉」
「いらっしゃいませ、若旦那。ご注文でございますか」
「違う」
背後では、柚葉の釜が低く鳴っていた。薪は惜しまず、必要なぶんだけ燃えている。冷まし台には朝一番の飴が並び、どれも小さな角を立てていた。
廉太は木型を持ち直した。
「戻ってくれ」
「どちらへでございますか」
「店だ。引き場は前のまま空けてある。木型も、お前が使っていたものを残した。給金は上げる」
「おいくらに?」
廉太が告げた額を、柚葉は頭の中で三度弾いた。新しい釜の稼ぎより安い。何より熱い番茶が付いていない。惜しい。いや、惜しくない。
「卸が戻らないんだ。飴を前のようにしてくれればいい。若い者にも、お前のやり方を覚えさせる」
「天気欄もお付けになりますか」
「必要なら付ける。引き数も、お前が決めていい」
「まあ」
「木型も返す。だから、戻ってくれ」
廉太は木型を差し出した。十一年で角の減った一枚が、二人の間へ出る。
柚葉は受け取らなかった。
彼女の背後には、自分の名で据えられた釜がある。今日の三十籠、明日の二十五籠、祭り前の四十籠。欲しいと先に数えてくれた仕事が、火の向こうで待っている。
「飴は、煮て引けば同じでございます」
以前と同じ声で言った。
廉太の指が、木型の縁へ食い込んだ。
「同じではなかった。だから頼んでいる」
「若旦那がお決めになったことですもの。わたくしは、よく分かっております」
「柚葉」
「本日のぶんがございますので」
裁く言葉は要らない。説教なら一文にもならず、しかも長い。十一年分は、もう値切らせない。
廉太はしばらく立っていた。謝らず、言い訳もせず、ただ木型を抱え直した。それから戸口を出ていった。
角の減った木型は、彼の腕の中に残った。
柚葉は釜へ戻った。引き上げた飴を畳み、伸ばし、もう一度畳む。窓から差した夏の朝日へ掲げると、澄んだ艶が縁まで走った。
「柚葉さん、茶が冷めるわよ」
「いま参ります。冷めましたら損害として講へ付けますので」
「自分で置きっぱなしにしたんでしょう」
「働く者の茶を見張るのも、立派なお仕事でございます」
台の脇には、湯気の立つ番茶があった。柚葉は腰を下ろし、湯呑みを両手で包む。
熱い番茶を、座って飲める。新しい仕事場というのは、それだけでも相当に景気がよろしい。
ひと口飲んでから、柚葉は自分の釜へ向き直った。
夏の飴は、今日もきちんと角を立てていた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




