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次の季節に、お宅の品が崩れます

「飴は引けば同じ」と言われ木型を返しました。夏、歯にくっつきます

作者: 真神 慧
掲載日:2026/08/15

熱い。


 柚葉は指先で耳たぶをつまみ、まだ白い飴を片手から片手へ渡した。火傷に一文でも付くなら、釜場勤め十一年のいまごろは長者である。残念ながら、赤くなった指は一文にもならない。


 引き終えた飴を角の減った木型へ押し、するりと抜く。朝の陽へ透かすと、細い縁まで艶が通っていた。よし。今日のぶんは、歯にも店の名にも余計なものを残さない。


「飴なんぞ、煮て引けば同じだ——」


 背中から廉太の声が来た。燕路へ話しているらしい。聞かせるつもりがないにしては、釜の煮立つ音に負けない、たいそう親切な声量だった。


「釜の温度を揃えて、引く回数を決めておけばいい。柚葉にしかできないように見えるのは、あれが何も人に教えないからだ」


 ほう。柚葉はもう一枚を抜き、陽へ透かした。誰にでもできる仕事を十一年も独り占めしていたとは、我ながら大罪人である。お縄になる前に、せめて今日の卸ぶんは仕上げておこう。


 燕路は何も答えなかった。三十年この店にいる番頭は、愛想笑いにも銭がかかると思っているのか、必要のないところでは口を開かない。


「冬場に七度引いたら、ちゃんと艶が出た。若い衆にもやらせたが、出来は変わらなかったぞ」


 乾いた朝だった。戸口の縄暖簾さえ、ぱりぱりしている。


 柚葉は木型へ飴を押し込みながら、八度目を数えた。空は晴れ、風は北から。手控えにはそう書いてある。昨日より湿りがわずかに残るので、七度では角のところが甘い。


 八度目にかかる手間は、薪一本にも満たない。薪一本を細く割れば三文ぶん。三文か。三文で十一年が買えるなら、若旦那はずいぶんよい買い物をなさった。


「柚葉」


 呼ばれたので、彼女はようやく振り返った。


「はい、若旦那。今日の卸ぶん、揃っております」


「……聞こえていたのか」


「釜がよく鳴っておりましたので」


 廉太は釜を見た。釜は何も申し開きをしない。実に頼れる共犯者である。


 柚葉は飴を籠へ並べた。艶の揃ったものだけが、春の陽を細く返した。


    *    *    *


 手控えの天気欄を、若い衆の指がぺらりと弾いた。


「姐さん、ここ、もう要りませんよね。日付の横に晴れだの雨だの。温度と引いた数があれば足りますよ」


 要らない欄は、ずいぶんよく指に引っかかるらしい。若い衆は二度、三度と紙を弾いた。破れれば新しい紙代がかかるので、柚葉は手控えをそっと引き取った。


「そうでございますか」


「若旦那が、柱へまとめてくださるそうで」


 廉太は糊を塗った紙を柱へ貼った。釜の温度と、飴の量ごとの引き数。太い字で、遠目にもよく読める。晴れても雨でも同じ柱である。柱は湿らないのだろう。たぶん。


「これなら間違えない。温度を守って、決めた回数だけ引く。それで同じものができる」


「まあ、これで誰でも引けますねえ」


「姐さんも楽になりますよ」


 女中たちが声を揃え、若い衆も笑った。一度でよく揃う。飴より先に、こちらを卸したほうが売れそうである。


 柚葉は柱の紙を下から上まで読んだ。読めない字はない。足りない字なら、いくつかある。


「若旦那。卸三軒への今月の納めは、わたくしが済ませてよろしゅうございますか」


「構わない。来月からは皆で回す」


「承知いたしました」


 卸へ運ぶ籠の底に、短い紙を三枚入れた。梅雨前後だけは、いつもの数に引きを足してくださいませ。たったそれだけである。頼まれていない講釈は、売り物にもならない。


 戻ると、廉太は柱の前で腕を組んでいた。


「これまで柚葉一人に任せきりだったのが、そもそもよくなかった。仕事は誰か一人しかできない形にしてはいけないんだ」


「左様でございますね」


「お前が休めば、皆が困る。それでは店とは言えない」


「ごもっともでございます」


 反論の一つもすれば、役目へ縋っているように見える。それは高い。見栄は腹の足しにならないくせに、手放すとなると妙に値が張る。


 柚葉は釜場の棚を見渡した。木杓子、布巾、手控え、鍵。それから、十一年使って角の減った一枚の木型。


「飴は、煮て引けば同じでございます」


 廉太は満足そうに頷いた。


「分かればいい」


 分かった。実によく。


 柚葉は手控えを閉じた。明日の天気欄は白いままだった。


    *    *    *


 翌朝、柚葉は一番よい外出着で釜場へ入った。紺の裾へ灰が付かぬよう、膝を少し浮かせてしゃがむ。これで灰を付けたら洗い賃。最後まで釜場は油断ならない。


 布を水で固く絞り、角の減った木型を拭いた。溝に残った飴を竹串で取り、裏も縁も撫でる。次に木杓子を拭いた。柄の手垢は十一年ぶんあったが、こちらは一朝では落ちず、落とす必要もなかった。


「姐さん、今日は火を入れないんですか」


 若い衆が戸口から覗いた。


「ええ。皆さんがお引きになりますでしょう」


「でも、朝一番は」


「柱に書いてございます」


 これは便利。何を尋ねられても柱が答える。いずれ茶も淹れてくれれば、女中の手も空くだろう。


 柚葉は木型と木杓子を両腕に載せ、勘定場へ運んだ。廉太は売上帳を開いていたが、彼女の外出着を見て眉を寄せた。


「何だ、その格好は」


「お返しに参りました」


 木型を廉太の手へ載せる。彼は受け取るつもりで出した片手を、重さに遅れて両手にした。


「何をだ」


「お役目を」


「誰も辞めろとは言っていない」


「はい。どなたでも代われるようにしてくださったので、わたくしも代わっていただきます」


 廉太は木型を見た。角の減った一枚は、彼の両手の中で急に古びて見えた。昨日まで釜場にあったときは、まだ働く顔をしていたのに。


「勝手にされては困る。引き手を増やす話と、お前がいなくなる話は別だ」


「まあ。わたくし一人に任せきりでは、お店とは言えないのでございましょう?」


「それは——」


 柚葉は釜場の鍵を売上帳の脇へ置いた。金具がこつりと鳴り、その音だけは廉太にも聞こえたらしい。


 二度、講女衆から手伝いだけでなく、飴を作る場所を持たないかと誘われたことがある。そのたび柚葉は、店の飴がございますので、と断った。昨日までの話だ。昨日までは。


 燕路が勘定場の隅から出てきた。引き止めるでもなく、戸を開ける。


「番頭さん。長らくお世話になりました」


「ああ」


「それだけでございますか」


「荷は、もう講の方へ運ばせた」


 余計な慰めはないくせに、仕事は一手早い。柚葉は頭を下げた。これでは礼を言うしかない。礼はただなので、深めにしておく。


「柚葉。話は終わっていないぞ」


 廉太は木型を抱えたまま言った。


「わたくしの話は、終わりました」


 外出着の裾を整え、敷居を越える。背中に声は追ってこなかった。


 春の陽は明るかった。十一年分の荷を下ろしたはずなのに、肩が軽いとは限らない。軽くないものまで、もう運ばなくてよいだけだった。


    *    *    *


 冬の飴は、変わらなかった。


 柚葉が講女衆の手伝いで茶碗を数えているころ、若い衆は貼り紙どおりに釜を見て、貼り紙どおりに引いた。乾いた風の日には角が立ち、艶も出る。初霜の日、女中が一つ割って皆へ配ったという。


「ほら、変わらない」


 その一度の笑い声は、講の用事で店先を通った柚葉にも届いた。景気のよいことである。飴一つで五人が勝てるなら、たいへん効率がよろしい。


 柚葉は足を止めず、借りた籠を抱え直した。中には干菓子が入っていた。飴だけならまだしも、他家の干菓子まで一つ摘まんで陽へ透かしてしまう。十一年というものは、なかなか抜けない。


「柚葉さん、また見てる」


 講女衆の一人に見つかり、彼女は干菓子を籠へ戻した。


「欠けがないか、確かめただけでございます」


「食べたいなら食べればいいのに」


「食べたいものを全部食べていたら、わたくしの腹が講より大きくなります」


「そのときは大きな帯を買いましょう」


「帯代まで出るのでしたら、考えます」


 笑いながら座敷へ入る。茶を注ぎ、菓子を並べ、注文の紙を束ねる。釜場で立ち通しだったころより、番茶を口へ運ぶ回数は増えた。ただし、ぬるい。人の世はままならない。


 春も、店の飴は変わらなかった。廉太は引く回数を一度減らし、薪を節したらしい。それでも乾いた日は艶が出た。


 引きを三度足すのに、かかるのは薪一本ぶん。三文でございます。三文を惜しんで、二十日ぶんの卸を落とすのがこのお店の算用ですのね——と、言う相手はもういない。


 柚葉は講で受け取る手間賃を小箱へ入れた。一日何文、ひと月でいくら。釜を買うには遠く、番茶を買うには足りる。悪くない。少なくとも、誰でもできる茶碗数えを、彼女がいなければ困る顔で頼まれる。


 店では、若い衆が冬と同じように笑っていた。


 梅雨が来るまでは。


    *    *    *


「あら、取れない」


 講の座敷で、女衆の一人が口元を押さえた。


 包み紙を開いたときから、飴は少し丸かった。四角く作られたはずの角が、紙の中で眠ったように潰れている。陽へ透かすまでもない。それでも柚葉は一つ摘まみ、縁へ光を当てた。


 艶が鈍い。


「歯にくっついたわ。夏の飴って、こんなだったかしら」


「去年は、講の帰りに皆で噛んだでしょう。こんなに残らなかったわよ」


 怒る声ではなかった。女は指先で口元を隠し、水を含んだ。残った飴は包み直され、菓子鉢の端へ寄せられた。


 それだけだった。


 翌月、卸三軒から店へ届く注文札が消えた。講女衆も飴を別の菓子へ替えた。誰も怒鳴り込まず、誰も作り直せとは言わない。買わない客は静かである。実に静かで、そのうえ控え帳の数字だけはよく喋る。


 柚葉は講の使いで店の前を通った。梅雨の昼だというのに、荷車を寄せる場所が空いていた。店先の軒から雨粒が落ち、卸籠は裏返したまま乾く機会を失っている。


 開け放した奥に、廉太がいた。


 柱の貼り紙を見上げている。釜の温度。飴の量。引く回数。視線を下ろし、また見上げる。三度目には、紙の端を爪で剥がしかけ、やめた。


「温度は合っている」


 廉太の声が戸口まで届いた。


「回数もだ。冬と同じに作った。なぜ夏だけ崩れる」


 若い衆は釜を見た。女中は包み紙の中で丸くなった飴を、指で押し戻そうとしている。戻した角は、指を離すとまた鈍く寝た。


 燕路が、柱ではなく店先を見ていた。雨の向こうに柚葉を認めても、呼ばない。ただ廉太へ向き直った。


「姐さん。あんたが引いた飴だけ、夏でも角が立ってた」


 それ以上は言わなかった。


 廉太は柱を見上げた。貼り紙には天気欄がない。


 柚葉は手にした飴を、まだ陽のない空へ掲げた。湿った光さえ通らず、白く濁っている。これ一つでいくら損か。卸二十日ぶんでいくらか。薪なら何本か。


 数えるはずのものが、指の間で止まった。


 飴の角だけが、ゆっくり丸くなっていった。


    *    *    *


「ひと月に、まず三十籠」


 卸の者は、挨拶より先に注文量を置いた。


「うちは二十五。梅雨どきは五つ減らしてもいい。その代わり、納め日はずらさないでほしい」


「こちらは祭り前に四十。欲しいのは店の飴ではなく、柚葉さんの引いた飴だ」


 講女衆はその横で、空いている小屋の寸法を書きつけていた。釜を置く場所、薪を積む場所、飴を冷ます台。話が早い。早すぎて、柚葉の銭勘定が裾をからげて追いかけても、もう三町ほど先へ行っている。


「お待ちくださいませ。釜だけで、これほど。台と木型で、さらに。薪はひと月に——」


「三軒で釜を出す」


「講で場所と台を出すわ」


「前金も払う。最初の三十籠ぶんだ」


「それでは、皆さまの取りぶんが」


「注文した飴が来る。それが取りぶんだ」


 何という恐ろしい人々だろう。欲しいものへ金を払う気でいる。商いとして真っ当すぎて、若旦那の柱より難しい。


「柚葉さん。前にも二度、ここで作らないかって言ったでしょう」


「その折は、店の飴がございましたので」


「いま頼んでいるのは、店じゃないわ」


 講女衆は紙の一番上へ大きく書いた。


 柚葉の名の釜。


 薪何本。工賃何日。木型を何枚。番茶は——これは仕事道具ではないと削られそうなので、心の控え帳へ付けておく。休憩の茶は必要経費。異論は認めない。


 卸の一人が、見本にと古い包みを卓へ置いた。旧店から最後に納められた飴だった。


 柚葉は包みを開いた。角はなく、表面は曇り、二つがくっついている。指先で一つを持ち上げると、もう一つまで連なって上がった。


 いつもの癖で、窓の明かりへ透かした。


 手が止まった。


 釜代も、薪代も、落ちた注文も、何一つ銭にならなかった。十一年引いた飴が、彼女の知らない顔でぶら下がっている。


「柚葉さん?」


 誰も急かさなかった。慰めも足さず、注文書だけが卓に置かれている。


「わたくしは、惜しまれたことがございません」


 自分の声なのに、どこから出たのか分からなかった。


 飴を包みへ戻す。紙は指へ少しくっつき、すぐ離れた。


「けれど、三十籠、二十五籠、祭り前に四十籠。こちらは、惜しんでいただけるのでございますね」


「納め日を守ってくれればね」


「番茶を熱くしてくれれば、もっと励めます」


「自分で淹れなさい」


 軽口が戻るまで待っていたらしい。講女衆が笑い、卸の者は注文書を柚葉の前へ押した。


 彼女は名を書いた。


 釜代は三軒。場所と台は講。報酬は柚葉の手へ入り、旧店の穴にも、若い衆の給金にも、一文たりとも回らない。新しい木型、新しい薪、そして座って飲める番茶へ回る。


 これからの勘定だけでよい。


    *    *    *


 新しい釜へ火を入れて十日目の朝、戸口に影が差した。


 廉太だった。


 両腕で、角の減った一枚の木型を抱えている。返した朝と同じ型だ。飴の粉は拭われていたが、溝の隅へ古い白さが残っていた。


「柚葉」


「いらっしゃいませ、若旦那。ご注文でございますか」


「違う」


 背後では、柚葉の釜が低く鳴っていた。薪は惜しまず、必要なぶんだけ燃えている。冷まし台には朝一番の飴が並び、どれも小さな角を立てていた。


 廉太は木型を持ち直した。


「戻ってくれ」


「どちらへでございますか」


「店だ。引き場は前のまま空けてある。木型も、お前が使っていたものを残した。給金は上げる」


「おいくらに?」


 廉太が告げた額を、柚葉は頭の中で三度弾いた。新しい釜の稼ぎより安い。何より熱い番茶が付いていない。惜しい。いや、惜しくない。


「卸が戻らないんだ。飴を前のようにしてくれればいい。若い者にも、お前のやり方を覚えさせる」


「天気欄もお付けになりますか」


「必要なら付ける。引き数も、お前が決めていい」


「まあ」


「木型も返す。だから、戻ってくれ」


 廉太は木型を差し出した。十一年で角の減った一枚が、二人の間へ出る。


 柚葉は受け取らなかった。


 彼女の背後には、自分の名で据えられた釜がある。今日の三十籠、明日の二十五籠、祭り前の四十籠。欲しいと先に数えてくれた仕事が、火の向こうで待っている。


「飴は、煮て引けば同じでございます」


 以前と同じ声で言った。


 廉太の指が、木型の縁へ食い込んだ。


「同じではなかった。だから頼んでいる」


「若旦那がお決めになったことですもの。わたくしは、よく分かっております」


「柚葉」


「本日のぶんがございますので」


 裁く言葉は要らない。説教なら一文にもならず、しかも長い。十一年分は、もう値切らせない。


 廉太はしばらく立っていた。謝らず、言い訳もせず、ただ木型を抱え直した。それから戸口を出ていった。


 角の減った木型は、彼の腕の中に残った。


 柚葉は釜へ戻った。引き上げた飴を畳み、伸ばし、もう一度畳む。窓から差した夏の朝日へ掲げると、澄んだ艶が縁まで走った。


「柚葉さん、茶が冷めるわよ」


「いま参ります。冷めましたら損害として講へ付けますので」


「自分で置きっぱなしにしたんでしょう」


「働く者の茶を見張るのも、立派なお仕事でございます」


 台の脇には、湯気の立つ番茶があった。柚葉は腰を下ろし、湯呑みを両手で包む。


 熱い番茶を、座って飲める。新しい仕事場というのは、それだけでも相当に景気がよろしい。


 ひと口飲んでから、柚葉は自分の釜へ向き直った。


 夏の飴は、今日もきちんと角を立てていた。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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