第九話 鳴動する新都と見えざる鎖
天正十年の秋は、金木犀の香とともに洛中の辻へ忍び寄っていた。甦りつつある都では槌音が絶えず、敷石を叩く牛車の軋みが朝から晩まで続く。松井友閑の取りまとめた諸役免除の町筋には、南蛮の硝子も北国の干鱈も並び、瓦礫の色をしていた京は、いまや黄金を吸い込む肺のように脈打っている。
だが、繁りの影に熱が澱む。戦を奪われた武士たちである。私闘は禁制、争いは訴訟へ――それ自体は正しい。けれど槍を握って己の値打ちを証してきた者にとって、訴状の墨は刃より遠い。彼らは都の片隅で暇を持て余し、酒と口論と小さな刃傷で夜を濁しはじめていた。
太政官の奥、書付の山を前に勧修寺晴豊は静かに言った。
「十兵衛殿。荒ぶる魂を鎮めるには、目に見える縄より、目に見えぬ鎖が要ります」
太政大臣・明智光秀は湯呑を置き、眉だけで問い返す。
「鎖とな」
「土地を奪えば反発します。だが戦う理由を奪った以上、代わりに守るべき型を与える。型に背けば家が恥を負う。――恥は、死より長く残ります」
晴豊が招いたのは、武家故実を司る伊勢貞興であった。室町以来、武家の礼式を手の内に持つ家筋。伊勢殿の扇は古式の折り目をそのまま畳み、開けば一瞬で場の空気が固まる。
「武辺者を礼で縛る、と申されるか」
伊勢殿は低く笑った。
「小笠原が弓で人を整えるなら、伊勢は扇で人を折ります」
二人は密に籠もり、条目を起こした。題は重々しくせず、「禁中武家作法条目」。
中身は一見、作法の箇条に過ぎぬ。参内の折の歩幅、扇の差し方、言葉の結び、位階に応じた直垂・狩衣の色目。だが罰則が鋭い。間違いは「不敬の咎」とされ、参内停止、役儀御免、官位停止――重ければ家禄召上げに及ぶ、と墨が冷たく記してある。
伊勢殿の背後で、右筆が筆を走らせ、奉行衆が無言で印判を揃えた。条目は美辞ではない。押された朱が、そのまま鎖になる。
晴豊はさらに、作法を日々の勤仕へ結びつけた。出仕の日、刻限、列座の順、欠けた者の沙汰。評定の席での発言は記録され、怠れば「怠慢」として役儀を解かれる。武の家にとって、怠慢で役を失うことは刃傷で敗けるより苦い。敗けは武運で言い訳が立つが、怠慢は己の恥として残るからだ。
「晴豊殿。ここまで細かく縛れば、武士は息が詰まりましょう」
伊勢殿が筆を置く。
「息を詰まらせます」
晴豊は淡々と返した。
「息が詰まれば、刃を抜く暇がなくなる。武士は死を恐れぬ。だが人前での恥と、家名の瑕を恐れる。そこへ楔を打つのです」
伊勢殿は短く息を吸い、やがて頷いた。悦びと戦慄が、同じ色で混じっている。
数日後、都に留まる諸将が召された。丹羽長秀、池田恒興、筒井順慶の名代。北国の柴田修理亮からも上洛の途次にある旨の使者が来て、広間の端に控えた。皆、次の領分か戦が与えられると思っている顔だった。諸将の目は槍先ではなく、位記の紙色に吸い寄せられている。都は、位と名を餌にする。
だが待っていたのは、伊勢殿の声であった。
「まず、敷居は右足から越えぬ。右は上、上を踏むは不敬」
誰かが半歩、間違えた。沓を揃える間が遅い――ただそれだけで、伊勢殿は扇を一度、鳴らした。
「ただいまの一歩、条目に背く。参内停止七日」
広間の空気が凍った。刃を抜かずに、人が青くなる音がした。
「たかが歩き方で!」
若い家中の者が憤り、腰の刀へ手を伸ばしかける。次の瞬間、随身の太刀が半寸だけ鞘を滑った。光秀配下の警固もまた、槍の穂先を揃える。誰も怒鳴らない。怒鳴らないからこそ、逃げ場がない。
光秀が上座から言った。
「刃傷沙汰は即座に改易。これは勝手な恫喝ではない。条目の通りだ」
晴豊が続ける。
「今日より、諸卿諸将は公儀に勤仕する官人である。刀を捨てよとは言わぬ。だが抜く前に必ず公儀の許しを得よ。無断の私戦は禁制破り、家は末代まで立たぬ」
武士たちは愕然とした。敵を討つ稽古は積んできた。だが故実と文言の迷路は未経験だ。しかも相手は、斬って終わる敵ではない。斬れば、その場で筋に負ける。
伊勢殿は扇で畳を指す。
「座るはここ。発言は位に従う。語尾は候。間違えれば、その場で記録に残る」
記録――その語が、武士の背を冷やした。戦は流れる。だが書付は残る。残れば家が死ぬ。
秋が深まるころ、洛中を歩く武士の姿は変わった。足取りは荒さを失い、袖には伊勢流の小冊子が忍ばされる。誰が先に頭を下げるか、扇をどこで開くか――そんなことに皆が神経を尖らせるようになった。
「聞いたか。福島市松が朝の儀で居眠りし、役儀を外されたそうだ」
「剣術より、書と和歌を学べと言うのか……家を守るには仕方ない」
囁きが辻に流れる。恐れているのは敵ではない。条目と、他人の目だ。
町衆は木戸の隙間から、武士が作法で縮む様を見て笑いを噛み殺した。都は変わった。刀の音が減り、扇の音が増えた。
光秀は庁舎の縁から、その光景を見下ろして深く息を吐いた。
「……儀礼とは、かくも人を縛るものか」
晴豊は夕暮れの都を眺め、静かに答えた。
「人は、縄を嫌います。だが型は好む。型を守ることが名誉になれば、人は自ら檻へ入る。――暴力は、型の中で無効になるのです」
都の鐘が鳴った。敷石の上を、扇を胸に抱えた武士が行く。天下布武が遠い昔の響きとなり、かわりに天下布法が、墨と扇と作法で広がりはじめていた。
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