第八話 血を名誉で縛る
天正十年の晩夏は、例年になく峻烈な陽光が洛中を焼いていた。敷き直された石畳は白く熱を返し、辻の落とし口をくぐる水の音だけが、わずかな涼を運んでいる。都は生き返りつつある――だが、生き物は生き物を食う。銭が集まれば、人が集まる。人が集まれば、血が騒ぐ。
新装の太政官――と呼ぶにはまだ粗い、だが政の座を集めた庁舎で、勧修寺晴豊は山と積まれた書付の束を前に眉根を寄せていた。奉書の端に押された花押、糊の匂い、急ぎ書きの墨の掠れ。都が動いている証だ。
「……やはり、動きましたか」
晴豊の視線が止まったのは、京の口を押さえる者から回ってきた内々の覚えだった。織田の次男・信雄、三男・信孝。史実でも家中を割る火種となった兄弟が、長兄にして新体制の内大臣となった信忠の権威を軽んじ、幼き三法師の後見を口実に都へ寄せ始めている。
「信雄様は伊勢より。信孝様は美濃より。名目は“神”となった父君への参詣――しかし実は、位階と口を得るための上洛にございます」
そう言って報を述べたのは、伊勢家の者――京の実務を知る小役人だった。声は冷たい。冷たいほど事実に近い。
信雄は伊勢の地で北畠の名をも抱えた。家の名は、増えるほどに欲を増やす。信孝の背後には、滝川の筋に連なる武辺者の気配があるという。名の奪い合いは、いつも刃を呼ぶ。
「血の兄弟ゆえ、兵で捩じ伏せれば、信忠卿の器に瑕がつく」
晴豊は茶を置き、傍らの太政大臣・明智光秀へ目を向けた。
「十兵衛殿。これは刃の場ではない。“神”と“筋目”の場にいたしましょう」
光秀は静かに頷いた。
「承知。血は刃で止まらぬ。名で止める」
数日後。信雄と信孝は仰々しい行列を引き連れて禁裏へ入った。武者の列は目立つ。目立つことで、都に自分の存在を刻もうとする。だが禁裏は、目立つ者を好まぬ。好まぬからこそ、目立つ者を囲う。
謁見の間。内大臣・信忠は座にあり、幼い三法師は几帳の陰に息を潜める。前田玄以が、泣き声を殺すように抱えていた。室内には、武の熱よりも、奉書の冷たさが満ちている。清洲の机が、京へ移っただけだ――晴豊はふと、そんな言葉が喉元まで上がるのを感じ、飲み込んだ。
信孝が口火を切る。
「兄上。父上は“神”となられたという。ならば今こそ、織田の武威は我らが示すべき。内大臣など公家の真似事は、兄上一人で足りる」
信雄も乗る。凡庸ゆえ欲深い。
「三法師を我が手元で育てれば、家中は安堵する。織田の正統は、我がもとに置くべきだ」
信忠の唇がわずかに結ばれた。血の兄弟への情と、禁中に座す者としての誇り。その間で揺れている。晴豊は、その揺れを見逃さなかった。揺れは、亀裂になる。
そこへ、太政大臣・光秀が静かに進み出た。声を荒らげぬ。荒らげぬほど、言葉は重い。
「信雄様、信孝様。熱き御心、さぞ安土に坐す御神もお喜びであろう。――されど昨夜、吉田社家より、御神意を伝える口添えが届いた」
「……口添え、だと」
兄弟の顔が凍る。託宣という語ほど胡散臭くはない。だが儀礼の筋としては強い。社家が関われば、否定しづらい。
光秀が目で促す。進み出たのは石田三成だった。いまは縄を解かれ、しかしまだ若い。才気だけが立つ。晴豊のそばで帳合の稽古を重ね、出入の照合で嘘を炙る術を覚え始めた男だ。
三成は奉書を捧げ持ち、朗々と読む。
「御神意に曰く――信雄様は風雅の司、信孝様は祭祀の守りとして、禁裏の儀礼を専らにせよ。よって、信雄様を式部卿に准じ、信孝様を治部卿に准ず。職掌は儀礼・祭祀・典礼の専一。俗の軍事・領分の沙汰に関わるべからず」
式部・治部――名だけ聞けば華やかだ。だが専一の二字が刃だった。儀礼は名誉である。だが同時に、身動きを縛る檻でもある。
「ふざけるな!」
信孝が立ち上がり、声を荒らげた。
「兵を捨てて、都で歌を詠めというのか!」
その瞬間、伊勢家の者が一歩進んだ。言葉は丁寧で、刃のように鋭い。
「お言葉ながら。これは御神意にして、禁裏の筋目にございます。これに背くは、織田の家祖へ泥を塗り、帝の名に逆らうこととなりましょう」
信雄は顔色を変え、信孝は唇を噛んだ。武士は信心を口にする。信心を口にした以上、神意に歯向かいにくい。歯向かえば、己が立てた体裁を自ら折ることになる。
晴豊はここで、刃を最後に一つだけ落とした。
「なお、織田家の差配と三法師君の後見は、内大臣・信忠卿が一手に掌る。これは家の内ではない。公の沙汰である。――三法師君は、織田の私物ではない。織田の柱だ」
後見を権利から公の管理へ引き上げる。兄弟が踏み込めぬ段に、段差を作る。信忠はその言葉に背筋を正し、ようやく揺れを止めた。
結局、信雄と信孝は兵を解き、都に留まるほかなかった。与えられたのは相応の屋敷と、知行に代わる御給――月々の料である。銭は便利だ。だが銭は筋で止められる。勝手に軍資金へ化けぬよう、出入の帳が付けられ、役所が目を光らせる。名誉は与える。牙は抜く。それが囲いだ。
謁見の後、信忠が晴豊へ小さく言った。
「……晴豊。血の争いを、一通の任官で終わらせたな」
晴豊は夕日に目を向けた。石畳の照りが、赤く街を染めている。
「血を流せば、怨みが残る。だが名誉の檻に入れれば、怨みは歌に薄まる。――彼らは織田の名を掲げたまま、生きられる」
都の上には、安土に坐す“神”の名が、今も重く浮かんでいる。織田の家は、刀で守るのではない。帝の名で、そして神の名で、形にして守る。武家の論理――下剋上と相続争いは、官の枠の中に押し込められ、音もなく鎮まっていった。
晴豊は、光秀へ微笑んだ。
「十兵衛殿。身内の火種は、これで沈みました。次は関東の狸――徳川殿でございますな」
笑みは穏やかだが、風より冷たい。
「工の沼へ引き込み、利で縛る。――刃を抜かせぬ国造りを」
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