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本能寺、炎上せず。――武家伝奏転生、明智光秀を太政大臣に任じ信長を“安土の神”に封ず  作者: 九条 綾乃


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第七話 瓦礫の中の月明かり

 天正十年、夏。洛中の夜風は、応仁の乱の名残をまだ抱いているかのように冷たかった。月が照らすのは、栄華の記憶ではない。焼け跡の黒、湿地のぬめり、崩れた土塀の影――平安京という壮大な理想は、百年の戦乱で骨組みさえ土に戻りかけていた。


 二条の大路に、勧修寺晴豊は立つ。闇の向こうに御所の灯がかすみ、鴨川の水音だけが細く届く。隣には、織田家のころより「実務の鬼」と評された松井友閑が控えていた。質素な装いだが、その眼は武の光ではない。商いの匂いと、銭の流れを嗅ぎ分ける刃のような眼だった。


「……友閑殿。この都を、どう見る」


 晴豊の声は、鹿ヶ谷のせせらぎのように低い。


「死んだ都にございますな」


 友閑は飾りなく言った。


「人は集まれど、足下は泥。雨が降れば道は沼になり、溝は詰まり、臭いが立つ。えやみが出れば、商人は荷をほどかぬ。銭を落とすには、あまりに不自由、あまりに不浄」


 晴豊は小さく頷いた。九条悟として見た史料の都――路上の汚物、鴨川へ流される屑、雨のたびに溢れる泥。雅の皮の下に、都はいつも病を抱えていた。


「左様。ならば――この死んだ都を、生き物に戻す」


 晴豊は懐から一巻の絵図を取り出した。奉書ではない。粗い紙に、線と目盛りが引かれている。友閑は月明かりに透かし、息を呑んだ。


「溝を、まず通す。辻ごとに落とし口を設け、汚れた水を一処へ集めて外へ逃がす。雨水と汚水を分け、土の底へ通す――暗い樋だ。都の病を、地の下へ封じる」


暗渠あんきょ……」


 友閑が呟いた。


「溝を見せぬ溝。見えぬが、効く。病が減れば、逗留が増える。逗留が増えれば、銭が落ちる」


「それだけではない」


 晴豊は絵図の端を押さえた。


「洛中の要――二条より五条の間、三条・四条を含むところを、禁裏の名で“諸役免除”にする。地子銭を止め、座の縛りを緩める。関と津の取り立ては、都の外で受ける。ここに入った荷は、ここでは取らぬ」


 友閑の瞳が、初めて明確に光った。


「……地子を止める。羽柴が都を握れば、いずれ打つ手。だが、朝廷が先に打つ――」


 言葉の端に、皮肉とも敬意ともつかぬ響きが混じる。友閑ほどの男は、名の移ろいを嗅ぐ。誰の策かではなく、策の効き目を見る。

 晴豊は笑わない。


「人は刀では動かぬ。利と、美に抗えぬ。道を敷石で固め、辻に行灯を置く。離宮八幡の油を回し、夜を暗闇のままにせぬ。――“洛中洛外”を分ける土居も要る。川が溢れれば、また泥に戻る」


「土居をめぐらせるのですな」


「土居は壁ではない。水を逃がし、都を守る枠だ。守られた枠に銭を呼ぶ」


 友閑は絵図を畳み、胸の前で受けた。


「承りました。堺の会合衆へ手を回しましょう。今井宗久、津田宗及――茶の湯で人を寄せ、商いで人を縛る。博多の島井にも声を掛けます。都が“聖域”になるなら、皆、銭を持って参りましょう」


「聖域にするのは、油と石だけではない」


 晴豊は闇の向こう、御所の灯を見た。


「禁裏の名で禁制を立てる。乱妨狼藉を許さぬ。侍が勝手に店を踏み荒らせば、討つのではなく、沙汰で縛る。――ここを“公事の都”にする」


 数か月後。洛中は、これまでにない喧騒に包まれた。

 戦を奪われた足軽たちが、鍬と槌を手に列をなす。先頭には村井貞勝が立ち、寺社の口には前田玄以が目を配る。普請の差配は武より細かい。誰をどこへ回し、何を先に掘り、何を後に埋めるか――一つ狂えば、人も銭も沈む。

 晴豊は日給を与えた。銭と、日々の扶持。働けば食える。働けば都が整う。その単純な理が、刀よりよく人を動かした。


「道こそ、国の血だ」


 晴豊はかつて光秀に言った。


「血が滞れば、腕が痺れる。腕が痺れれば、刃が暴れる。先に道を通せば、刃は鈍る」


 友閑は堺と博多の豪商を洛中へ招いた。寺社の境内、町衆の座敷、時に茶の湯の小間。場所は選ぶが、言うことは同じだった。


「ここでは武士の横槍は入らぬ。禁裏の禁制が立つ。取るべきは定めた役のみ。怖れるな、ただ商え」


 豪商たちは敷石の照りと、溝の匂いの薄さに目を見張り、我先にと店を構え始めた。銭は集まれば集まるほど、人を呼ぶ。人は集まれば集まるほど、さらに銭を呼ぶ。


 一年が過ぎた。都の夕映えは、以前とは異なる色を帯びていた。

 鴨川のほとり、五条の橋――松原の橋を架け替えた新しい桁の上で、晴豊と太政大臣・明智光秀は並んで洛中を見下ろした。整然と区画された町筋、敷石を叩く牛車の音、辻の行灯の灯が早い宵を押し上げていく。かつての悪臭は薄れ、風には白檀の香と、焼き物の煙、油の匂いが混じっていた。


「……見事だ、晴豊殿」


 光秀が吐息をもらした。


「武で天下を平らげるとは、こういうことだったのか。刀を振るわずとも、人はこの都の利と美の前に、膝を折る」


 晴豊は夕日に目を細めた。


「十兵衛殿。貴殿の守るべき静謐は、ここにある。大名は領地で刃を交えるより、この都で位を得、利を賜ることに血眼になる。――暴力は、利の檻に入った」


 そして小さく付け足す。


「檻は美しくなければ、皆が蹴破る。ゆえに雅を捨てぬ。雅は飾りではない。秩序の衣だ」


 都の再生は、ただの普請ではなかった。武家が支配する中世を終わらせ、法と銭が支配する世を、無理にでも産み落とす仕掛けである。


 晴豊の脳裏には、かつて講義で語った「都市の変遷」がよぎる。だが今、彼は教壇にいない。史料の向こう側で、史料そのものを作っている。


 平安京――この美しくも冷徹な新都は、やがて来るべき誰かの野望さえ、その灯の中に絡め取ってゆく。


お読みくださり、誠にありがとうございました。ご感想・ご評価を賜れましたら幸甚に存じます。

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