第六話 覇道の終焉
山崎の霧がほどけるころ、初夏の雨が落ちてきた。天王山の麓、竹の葉を叩く滴は細く、しかし執拗で、昨夜の火薬の匂いと土埃をゆっくり洗い流していく。勝った者の陣にも、負けた者の陣にも、等しく雨は降る。違うのは、名の重さだけだった。
竹林の奥、逃げ道を失った一団があった。わずか数十の近習に囲まれた羽柴筑前守秀吉である。鎧は泥に沈み、袖口には血が乾いて黒い。つい数日前まで「戻り」の速さだけで世を攫いかけた男の眼から、あの爛々たる光は失せていた。
「……はは。負けだ。完敗よ」
秀吉は竹の幹に背を預け、力なく笑った。そこへ、明智勢の護りのもと勧修寺晴豊が歩み入る。公家装束は雨粒をはじき、裾の白は汚れない。その清潔さが、秀吉には不吉に見えた。戦場の泥に足を取られぬ者――それは刃ではなく、言葉で人を殺す者だ。
晴豊は一礼だけして、淡々と言った。
「筑前守殿。貴殿の“弔い”の物語は、ここで終わりである」
「物語、か」
秀吉は口角を上げた。笑みではない。歯を見せるだけの形だ。
「公家よ。乱世は、最後は力と欲だ。腹を満たせぬ者は槍を取る。名が欲しい者は首を取る。貴様の言う公事だの筋目だの、飢えた腹を塞げるか」
「塞ぐ」
晴豊は即答した。
「飢えを塞ぐには、米を集めねばならぬ。米を集めるには、道を守らねばならぬ。道を守るには、勝手な合戦を止めねばならぬ。――その順を、刃ではなく筋で通す」
秀吉は雨に濡れた顔を上げ、晴豊を睨む。
「ならば俺のような、泥水から這い上がった者の居場所はあるのか。貴様の“清い筋”に、俺の名は入るのか」
晴豊は一歩だけ踏み出し、言葉を選ばずに落とした。
「居場所なら作る。……ただし、貴殿の場所ではない。貴殿は人の心に物語を植え、火を点けて回る。あの才は、この新しい秩序には劇薬だ。国を焼く」
秀吉の喉が鳴った。否定できぬからだ。自分が一度火を点ければ、周りが燃えるのを知っている。
「……そうか。俺を斬り、俺の“宝”を奪うか」
「奪わぬ。預かる」
晴豊は静かに言い直した。
「貴殿が育てた者ども――長秀殿の調整、三成殿の算用。あれは、個の野望のために消すには惜しい。国の骨となる」
秀吉は一瞬だけ、遠くを見た。淀川の方角。霧の向こうの水音が、ここまで届く気がした。
「……面白い景色を見せると言ったな、晴豊殿。ならば見せてみろ。俺が夢見た“天下”より、退屈でない景色を」
懐から短刀を抜く。刃は小さい。だが決めるのに足りる。
「長秀。生きろ。三成もだ。――俺の代わりに、あいつらの才を使え。使い潰すな」
秀吉は刃先を腹へ当てた。雨音が一段大きくなる。誰かが駆け寄ろうとして、光秀の家臣が槍で制した。ここは合戦場ではない。最期の式次第だ。
「……俺の負けは、刃で負けたのじゃない。名で負けた。……くそ、うまいことやりおる」
その言葉を最後に、秀吉は腹を切った。介錯の刃が落ち、竹林の雨が血を薄めて土へ染み込ませる。
天正十年六月十三日。羽柴秀吉、山崎の地にて自裁。
覇道の夢が終わったのではない。覇道が“公事”に屈した日であった。
数刻後。明智の陣幕に、二人の男が引き立てられた。縄を打たれ、泥に塗れ、しかし眼は死んでいない。
一人は羽柴長秀。秀吉の弟にして、近習衆の肝を繋いできた調整役。
もう一人は石田三成。若く、痩せて、眼だけが鋭い。兵糧と銭の勘定を読み、道の詰まりを嗅ぎ分ける“算用の鬼”であった。
上座には明智光秀が座し、側に晴豊が控える。光秀は二人を見下ろさずに言った。
「筑前守殿の最期は見事であった。長秀殿、三成殿。貴殿らもまた、主君に従い自害するつもりか」
長秀は静かに首を振った。
「兄からは、一族を守れと言われております。私が死ねば羽柴の血が絶える。……だが、朝敵の汚名を着て生き永らえるのも、武士としては耐え難い」
「朝敵」
三成が小さく繰り返した。負けの痛みより、その二字が胸に刺さっている。
晴豊が口を挟む。声は柔らかくない。
「その定義を、ここで変える。貴殿らは“羽柴のため”に走ったのではない。結果として、国の胃袋と足を動かしてきた。――その才を、今度は帝の名の下に使う」
三成が顔を上げる。
「道具にせよ、と」
「そうだ」
晴豊は頷いた。
「替えのきかぬ道具だ。だから折らぬよう、役目を与える」
晴豊は文箱を開け、薄い帳面を一冊、三成の前へ置いた。奉書ではない。紙質は粗く、墨の濃淡が乱れている。だが線だけは正確だった。左右に二列、上に「出」、下に「入」。片方を書けば、もう片方も必ず書かねばならぬ形にしてある。
「堺や博多の商人が、密かに使う帳合を知っているか。出と入を対にして記し、合わぬところを嘘として炙り出す。――これを国の勘定にする」
晴豊は指で線をなぞった。
「石高だけでは腹は満たせぬ。銭がどこで滞り、米がどこで消えるかを、数の筋で掴む。貴殿の“義”が民を飢えさせぬことにあるなら、これ以上の武器はない」
三成は帳面を取り、頁を繰った。目が走り、止まり、また走る。やがて呟く。
「……左右が、必ず合う。合わぬところが、偽りだと分かる。……これは、算用で人を縛る術か」
「縛るのではない」
晴豊は言い直した。
「逃げ場を塞ぐ。盗み、誤魔化し、横領が息をできぬ形にする。国は武で縛るのではなく、帳で回す」
次に晴豊は長秀へ向き直った。
「長秀殿。貴殿には、諸大名の利害を調え、評定の座を回してもらいたい。刃の才ではない。言葉と間合いの才だ。貴殿が死ねば、誰かが代わりに火を点ける」
長秀は一拍置き、問い返した。
「……我らを赦す、と?」
「赦す」
晴豊は頷いた。
「ただし“私の慈悲”ではない。宣旨で赦す。公事として赦す。――生きる理由を、名の下に作る」
光秀が最後に言葉を置いた。
「野心の時代は終わった。これからは、汝らの実務が民を養い、戦なき世の礎となる。汝らが仕えるのは人ではない。公議だ」
長秀と三成は互いに一度だけ視線を交わし、同時に平伏した。
「……羽柴小一郎長秀、この命、朝廷のために捧げます」
「……石田佐吉三也。その算用の筋、究めてみせましょう。すべては、公のために」
晴豊はそれを見届け、胸の内で小さく数えた。勘定の骨、取次の骨。あとは文書の型を揃え、道と蔵を結び直すだけだ。
山崎の戦後処理――それは英雄の首で終わる戦ではない。書付と帳面が山をなし、国の形が静かに組み替わっていく始まりであった。
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