第五話 山崎、名分の刃
天正十年六月十二日、夜。富田の道で足を止められてから、羽柴秀吉の陣は妙に静かだった。焚火は低く、鍋の匂いも薄い。兵は眠りに落ちきれず、将は口をつぐむ。戦の前夜にあるべき昂りが、どこにもない。代わりに、紙の重みだけが胸に残っていた。
秀吉は幕の中で、指先に汗を滲ませていた。富田で示された幔幕、綸旨箱、奉書の折り目。あれは刃ではない。だが刃より厄介だ。踏めば、名が裂ける。
「偽りだ。禁中が脅されておるのだ」
言い切ってみせても、腹の底では別の声が囁く。もし真なら――。真なら、三万が一夜で“朝敵”になる。秀吉はその囁きを蹴散らすように、筆を取らせた。
「細川へ。藤孝にだ。京の気配を聞け。動かぬなら、せめて言葉を寄越せ」
「大和へも走れ。筒井順慶がどちらに寄るか、今夜のうちに知れ」
使者が闇へ消える。秀吉はさらに、諸将へ起請文を迫らせた。明日、天王山を押さえる。官軍だの朝敵だのは、戦に勝ってからひっくり返せばよい――そう言い聞かせるための紙だ。
だが紙が増えるほど、紙に縛られる。秀吉の幕には、長秀が入ってきた。顔色は変えぬが、目が硬い。
「兄者。あれは……軽くはござらぬ。押し通せば、味方の腹が割れ申す」
「割れるなら、割れぬように締めるまでよ」
秀吉は笑おうとして、笑い損ねた。
六月十三日、払暁。
山崎は霧に沈み、淀川の湿りが骨に入った。天王山の稜線は白く曇り、足元の草に露が重い。狭隘の地――右は川、左は山。隊を広げれば詰まり、詰めれば息が止まる。ここでは槍の強弱より、先に「名」が立つ。
羽柴の陣に、夜の返書が届いた。封を破る手が早い。紙は薄い。薄いが、断りは重い。
「細川は動かぬ――病と申す。京を乱すまじき由」
秀吉の指が、紙を揉み潰した。細川藤孝。連歌も軍略も知る男。光秀に与しないことで、のちに名を立てる男だ。動かぬのは想定の内でも、今の秀吉にはそれが刃だった。
次の報せが続く。
「筒井は峠で馬を止め、なお動かず、と」
峠の名を口にする者はいない。だが皆が同じ風を嗅いでいる。順慶は決めぬのではない。帝の名がどちらに乗るかを待っている。
秀吉は馬を進め、霧の向こうの金銀を睨んだ。明智勢の前には、錦の御幔幕が据えられ、綸旨箱が置かれている。旗の裂は布に過ぎぬ。だが布に帝の名が乗れば、矢より先に人の膝を折る。
「怯むな。天王山を取る。山を押さえれば、霧も人も晴れる」
命令は出た。だが、その命令が届くまでに、別の命令が先に人の胸へ届いていた。
明智の本陣は、騒がなかった。
勧修寺晴豊は光秀に、ただ一つだけ言葉を添えた。
「追うな。乱妨を出せば、名が汚れる。勝ちは刃ではなく、公事の形で取る」
綸旨箱の傍で、禁制札が掲げられる。「乱妨狼藉停止」。墨の太い字が霧の中で黒く浮いた。兵は槍を整えながら、どこか町方の役人のように息を合わせる。捕らえるべきは首ではない。逆心の筋を立てる証だ。
光秀は軍配を上げる。声は大きくない。だが錦の裂が、それを千の声に変える。
「官軍、進め。刃は抑えよ。逃げ道を潰すな。捕縛を旨とせよ」
最初に動いたのは、羽柴の右翼だった。池田恒興が前へ出ようとして、出きれない。中川清秀が槍を握り直し、右近が胸の十字を袂に隠したまま、幔幕の菊花から目を逸らせない。
秀吉は馬を駆り、彼らの前に出た。
「官軍だの朝敵だの、誰が決める。勝った者が決めるのだ。突け!」
だが返る声は薄い。
「勝っても、名は洗えぬ」
誰かが言った。小声だ。だが小声ほど広がる。
池田恒興が、唇を噛んで言う。
「殿。綸旨が真なら、ここで一矢放てば家が尽きる。……我ら、官軍に弓は引けませぬ」
秀吉の顔から血の気が引いた。怒鳴ればよい。脅せばよい。いつもならそれで動く。だが今回は“家”が相手だ。家は命より重い。
恒興の陣が、半歩、後ろへ引く。
その半歩が、三万の背骨を折った。
中川の兵が左右へ崩れ、右近の手勢が槍先を下げる。戦は始まらないまま、陣はほどけていく。霧の中、淀川へ寄る者、天王山の裾へ逃げる者、ただ立ち尽くす者。隊列が崩れれば、勝ちも負けも先に決まる。
晴豊は前線に出なかった。声を張り上げる必要はない。富田で下った言葉が、いま兵の腹の中で働いている。
(物語は紙で作れる。だが名分は、帝の名でしか上書けぬ)
光秀が軍配を振り下ろす。
「前へ。逃げる者は追い立てよ、斬るな。秀吉を捕らえよ」
明智勢が押し出す。矢は飛ぶが、深追いはしない。槍は触れるが、殺しには寄らない。捕縛の手が先に伸びる。戦というより、追討の沙汰に近い。
秀吉は歯を食いししばり、霧の中で笑みを貼ろうとした。貼れない。
「……奉書一紙で、俺の天下が――」
言葉の端が折れた。背後で、石田三成が呆然と立ち尽くしている。算用の目が、戦の外へ滑る。
(勝敗は槍で決まらぬ。名が先に決める……)
秀吉は退こうとした。だが退けば、名が裂ける。
この狭隘の地で退路を失うのは、兵ではない。“物語”だ。
中川清秀が、ついに馬を寄せ、声を落とした。
「筑前守殿。ここで抗えば、皆が朝敵となる。――お引き下がりを」
それは助け舟であり、引導でもあった。秀吉は一瞬だけ、霧の向こうを見た。天王山の影。淀川の気配。勝てば奪えたはずの朝が、霧の中で遠い。
「……詮議、か」
秀吉は、ようやく手綱を緩めた。
刃に降るのではない。名に降る。
霧が薄れ、朝日が錦の裂を照らす。布が光るのではない。帝の名が、光る。
晴豊は遠くからそれを見て、息を吐いた。
勝ったのは合戦ではない。筋目だ。
そして筋目は、勝った後にこそ崩れやすい。
「十兵衛殿。ここからが、詮議でございます」
光秀は頷いた。
刃を収めたまま、国はなお、震えている。
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