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本能寺、炎上せず。――武家伝奏転生、明智光秀を太政大臣に任じ信長を“安土の神”に封ず  作者: 九条 綾乃


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第四話 韋駄天の如き野心

 天正十年六月。備中高松の湿った風を裂き、泥濘を蹴散らして東へ走る軍勢があった。羽柴筑前守秀吉――およそ三万の兵である。諸将を糾合しながら、隊列を崩さぬまま進むその速さは、武家の常の歩みを逸していた。後に「中国大返し」と呼ばれることになる疾駆だ。


 高松の水面には、まだ攻め潰された城の影が残っている。毛利との和睦は結ばれ、清水宗治の腹が切られた。勝ちに見せたまま、秀吉は戦を畳んだ。――そこへ届いたのが、京の変である。


「急げ。遅れるな。京へ先に着いた者が、弔いの名で世を握る」


 馬上の秀吉の横顔に、主君を失った悲しみはない。あるのは、運命が自分の掌に落ちてきたという、乾いた確信だ。信長が死ねば、家中は割れる。割れたところへ「仇討ち」の旗を立てれば、皆が集まる。名分は刃より重い。秀吉はそれを知っている。


(光秀め、よくぞやった。――だが、討つのは俺だ)


 心のうちで喝采しながら、秀吉は手綱を締めた。背後では小一郎長秀が道を整え、石田三成が糧秣と人馬の割り振りを詰める。鍋を焚く煙さえ惜しみ、夜を削って走る。弔いの戦ではない。天下人へ駆け上がるための、ただの競り合いだった。


 六月十日。

 摂津と山城の境、富田のあたり。道は思いがけぬもので塞がれていた。

 明智の柵も、槍衾もない。そこにあったのは、菊花の御紋を据えた幔幕と、わずかな衛士、そして公家数名。先頭には、小さな唐櫃――綸旨箱が置かれている。兵は思わず足を止めた。目の前の相手は、討つ敵ではない。触れれば、名が汚れる相手だ。


「……何だ、あれは。禁中の者が、なぜここにおる」


 秀吉は不快げに眉をひそめ、馬を止めた。三万の勢が、数十の人影の前で減速する。その中心から一歩、端正な顔立ちの男が出る。武家伝奏、勧修寺晴豊であった。


「羽柴筑前守秀吉殿。勅命を奉じ、貴殿の進軍を止めに参った」


 晴豊の声は、喧騒の中でも澄み、秀吉の耳に真っ直ぐ届いた。秀吉は鼻で笑う。


「今は一刻を争う時よ。光秀という逆賊を討たねばならぬ。道を空けられよ、勧修寺殿」


「逆賊――それは誰を指す」


 晴豊は一歩も退かず、綸旨箱の蓋を開けた。奉書の折り目が正され、封が割られる。その所作だけで、ここが戦場ではなく、公事の場であると示される。


「明智日向守光秀は、宣旨をもって政を預かる者となった。太政大臣に准ぜられ、朝廷の名の下に執政を行う。すでに嫡男信忠卿も、公卿の座にあって織田の家格を示している」


 秀吉の目が細くなる。言葉の意味より、言葉の重さを測っている。


「対して秀吉殿。貴殿は主君の許しなく軍を動かし、京へ迫る。これは“弔い”ではない。勅命に背く進軍である。貴殿がなお歩を進めれば、貴殿と麾下三万は、朝敵となる」


 秀吉の声から、余裕が剥げた。


「……何を申す」


「上様は死んだ。――いや、死んだはずだ。俺はその仇を討ちに行く。皆もそれを望む。朝廷がそれを止める道理がどこにある」


 晴豊は、冷たく言い放つ。


「信長公は死んではおらぬ。あのお方は自ら“人”を離れ、安土鎮護の神として坐す。――すでに洛中には触れが回っている。貴殿の掲げる『弔い合戦』という物語は、どこにもない」


 秀吉の頬が引きつった。物語がない。名分が立たない。秀吉の武器を、紙が奪う。

 晴豊は奉書を広げ、朗々と読み上げた。

 曰く、羽柴筑前守秀吉は軍を解き、直ちに摂津某所に蟄居し、朝廷の詮議を待つべし。抗するならば逆心明白、追討の綸旨を下す――。


「秀吉殿」


 晴豊は読み終え、声の温度を一段だけ落とした。


「貴殿がこのまま進めば、三万の兵すべてが“朝敵”となる。貴殿と共に走ってきた者たちは、末代まで汚名を負う。――それでも進むか」


 背後の将たちが、目に見えて揺れた。池田恒興が唇を噛み、中川清秀が幔幕の菊花を見上げる。彼らは戦の強弱より、名分の重さを知っている。ここで敵に斬られるより、朝敵の札を背負う方が恐ろしい。


「……朝敵、だと?」


 誰かが呟いた。呟きは波となり、陣の中を走った。秀吉が積み上げた“弔い”の虚構が、音もなく崩れていく。

 秀吉は馬上で歯を食いしばった。怒りではない。焦りだ。焦りの先に、いつもの笑みを貼り付けようとして、失敗する。


「晴豊……貴様、何をした。光秀と組んで、この俺を嵌めたのか」


 晴豊は見下ろさない。ただ、淡々と言う。


「嵌めたのではない。筋目を立て直した。秀吉殿、貴殿の野心が“物語”を生む時代は終わった。これからは、帝の名の下に、公事と筋道で国が回る」


 秀吉の視線が、山崎の方へ泳いだ。天王山の影が薄く横たわり、淀川の気配が湿りを運んでくる。そこは本来、刃がぶつかり合うはずの地だ。だが今、刃の前に“言葉”が立っている。


 秀吉の大返しは、勝利への疾走ではなく、自らの名分を失う空回りへと変貌していた。境の向こうには、明智の軍ではない。朝廷の言葉が、見えぬ柵となって待ち構えている。

 山崎の地を前にして、秀吉の野望は、戦う前にひとつ欠けた。


お読みくださり、誠にありがとうございました。ご感想・ご評価を賜れましたら幸甚に存じます。

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