第二話 焔の前の静寂
天正十年六月二日、払暁。
京の闇は夜更けよりもなお冷え、地を這う霧が土と石の匂いを引きずっていた。本能寺の周囲を埋め尽くした明智勢は一万余。鎧が触れ合う金属の擦過音さえ、あえて殺されている。人の息も、馬の鼻息も、濡れた闇に吸われていくようだった。
先頭に立つ勧修寺晴豊は、馬上で己の鼓動を数えた。
史料が告げる結末を、彼は知っている。本来ここは、炎が上がり、名が灰になる場所だ。――だが今朝の彼にあるのは悲壮ではない。歴史を「起こす」のではなく、「収める」ための意志だった。血で書かれる頁を、文書の折り目で畳む。そのために来た。
「……放火は厳禁。刃は抜くな。上様に刃先を向けるな。お迎えに上がるのだ」
命は波紋のように広がり、軍勢が息をさらに浅くする。困惑は当然あった。だが誰も声にしない。いま声を出せば、何かが壊れると本能が知っている。
そして晴豊は、ここに立つ兵の大半が知らぬ一点を知っていた。二条にも同刻、別の使いが走っている。父子を別々に動かせば、夜明けは血で染まる。だからこそ、段取りは同時でなければならない。
晴豊は馬を下り、寺門の前に立った。戸口の闇は深く、内の者の気配が張り詰めている。彼は一歩も引かず、声を正しく通した。
「武家伝奏、勧修寺晴豊。勅命を奉じて参上した。門を開けよ」
しばしの沈黙ののち、閂が外れる音がした。木が軋み、湿った空気が吐き出される。門がわずかに開き、内側の目が外を測る。その目に、晴豊は“朝廷”の面を被せたまま、ゆっくりと入った。
寺の奥、白い寝所。
織田信長は、すでに身支度を整えつつあった。傍らには手近な長刀。だがその手元に焦りはない。外の不穏を前にしてなお、声は驚くほど平坦だった。
「……晴豊か。何事だ。外の騒がしさは、下々の喧嘩か」
晴豊は正面に座し、礼は尽くしながら退かぬ距離を保った。
「上様。明智日向守の軍勢が、この寺を包囲しております」
信長は目を細めるでもなく、喉の奥で短く笑った。
「……奴が、牙を剥いたか。是非に及ばず。――そう来たか。で、貴様は何をしに来た。俺の首を獲るか。あるいは介錯でも務めるつもりか」
「いえ」
晴豊は即答した。その声に揺らぎがない。
「貴方を『神』として、安土へお連れしに参りました」
信長の眉が、初めてわずかに動いた。だが次の刹那、その瞳は冷えた。
「神? ……晴豊、貴様は妙に落ち着いておる」
晴豊は懐から奉書を取り出した。紙は薄い。だが薄さゆえに、折り目と封紙の位置が、刃の代わりをする。封紙を割り、折り目を正し、宣旨をひらく。花押の置き所ひとつで、場が決まる。武家伝奏は、その怖さを知っている。
「上様。安土の摠見寺にて“神の座”を設けられたことは、すでに世の噂となっております。ならば、その噂を政に変えましょう。――ここに宣旨。上様は以後、現世の政務を離れ、安土鎮護の御座に坐し、国の安寧を守られたい。政務一切は、朝廷の名の下に、しかるべき者が預かる」
言葉は雅で、しかし内容は峻烈だった。神格化――その美名で、信長を政務から切り離す。殺さず、殺すよりも確実に“手足”を奪う。
信長は、宣旨を見もせずに笑った。
「檻か。公家らしい。……だが、晴豊、貴様はまるで、この先を見たような口だ。未来を知ると申すなら、言え。俺がここで果てた後、世はどう転ぶ」
晴豊は一拍だけ置いた。言葉を選ぶ間ではない。信長の刃を、言葉で受け止める間だ。
「この日の後、十一日で山崎。十兵衛殿は天下を持てませぬ。西から羽柴が戻り、織田の家中は清洲で割れます。徳川は伊賀を越えて命を拾い、やがて東に大きな梁を立てる」
信長の口元が、わずかに歪んだ。獲物の真贋を噛む獣の表情だ。
「……ほう。ならば俺は、ここで死んでやろうか。貴様の見立てどおりにな。――そののち、貴様の企ては何刻で崩れる」
「三日も経たず、京は二つに割れます」
晴豊は即答した。
「皆が欲しがるのは“理”ではなく、“帝の名”です。朝廷はその名を求められ、武家は奪い合う。だから私は今朝、名の所在をこちらに畳んだ。――上様を神の座に据えれば、その名は血に沈まぬ。上様がここで果てれば、名は血に沈みます」
短い沈黙が落ちた。信長は、その沈黙の重さを確かめるように笑った。
「……くく……ははははは」
「俺を“神”という名の檻に閉じ込め、朝廷が実権を奪うというのか。晴豊、貴様……公家の分際で、この織田信長を飼い慣らせると思うているのか」
信長は立ち上がり、長刀の先を、晴豊の喉元へ静かに据えた。
「答えてみろ。俺を檻に入れて、貴様らはこの国をどう変えるつもりだ」
晴豊は瞬きひとつせず、目を逸らさない。刃先の冷気よりも、ここで言葉を誤ることの方が怖い。
彼は、もう一枚の紙を取り出した。宣旨の奉書とは別の紙。図と項目、そして一枚だけ、数字の並んだ試算が挟まっている。
「上様。これは、十兵衛殿と共に整えた“仕組み”の図です。掟は、どの家にもあります。今川にも北条にも。ですが掟は家を守るだけ。国を止めるには足りぬ」
信長の視線が紙に落ちる。晴豊は続けた。
「法は掲げるだけでは足りませぬ。型を揃えるのです。帳の形を揃え、役目の順を揃え、裁きの筋目を揃える。誰が見ても、同じ筋道で回るようにする。嘘が混ざれば帳が噛み合わず、必ず露わになる。人の忠義に頼らず、盗めぬ形にするのです」
信長は、紙面の線と数字を凝視した。
天才は、天才を嗅ぎ分ける。そこにあるのは理念ではない。現実の継ぎ目を縫い、ほころびを塞ぐための“段取り”だった。刀の強さではなく、刀が要らなくなる強さ。自分の破壊より、なお強固な統治の形。
晴豊は、最後に一言だけ、信長の胸に刺さる言い方を選んだ。
「上様の破壊は、この国に必要でした。関を断ち、道を開き、旧い澱を叩き割った。ですが“構築”の段になれば、上様の激烈さは毒となる。上様が統べれば、人々は恐怖に震え続け、上様の死後に、また奪い合いが始まります。この秩序は、上に天才が一人居ることを前提にしませぬ。凡庸でも回る国です。――そのために、上様には神の座に坐していただく」
しばし、沈黙が落ちた。
長刀の先は引かれない。だが信長の目から、先ほどの殺気が薄れる。代わりに、深い好奇心が宿った。
「……面白い」
信長の声は低い。
「俺の想像も及ばぬ、陰湿で、しかし見事な支配よ。良いだろう。俺を祀り上げるというのなら、それに見合うだけの景色を見せてみろ」
そして、口角をわずかに上げる。
「十兵衛に伝えよ。俺を安土に封じるつもりなら――精々、その檻を頑丈にしておけ」
本能寺の火は、結局、放たれなかった。
代わりに、寺の奥から“輿”が運び出された。夜明け前の冷気の中、担ぎ手の足取りは重く、だが乱れない。輿の簾の内にいるのは、歴史から姿を消すことを受け入れた織田信長である。
明智光秀は、輿の脇に膝を折り、声を殺して息を飲んだ。
信長は簾の内から、乾いた調子で言った。
「十兵衛、泣くな。俺を神にしたのは、お前と――その隣にいる得体の知れぬ公家だ」
光秀の喉が震え、嗚咽がこぼれる。晴豊は、その音を聞きながらも顔を動かさない。情が入り込めば、筋目が歪む。歪めれば、全員が死ぬ。
輿の行列は、厳重な戒めのもと、東へ向かった。吉田社の兼和――のちに兼見と名を改める男に、式次第だけは整えさせた。兼和の筆は几帳面だ。明日になれば、今日の“形”だけが記され、肝心の刃は書かれぬだろう。
だからこそ、儀礼に見せる。武力の移送ではなく、神の行幸として道筋を整える。真偽はどうでもいい。噂は政になる。噂は刃にも火にもなる――ゆえに、噂をこちらの形に畳む。
世間には、こう触れが出された。
「織田信長公、此度、安土鎮護の神として坐し給う。以後、政務は嫡男信忠卿これを継ぎ、朝廷の命により、惟任日向守光秀これを輔け奉る」
晴豊は遠ざかる輿を見送り、深く息を吐いた。
第一の折り目は、つけた。だが紙はまだ燃えやすい。ここから先が、より危うい。
西からは、備中の陣を畳んだ羽柴秀吉が、日のまたぎも惜しむ勢いで引き返してくる。戦は速い。だが人の心は、さらに速い。
この“公家政道”の枠が、あの男の才と欲を受け止められるか。
闇が薄れ、京の空が白み始める。
静寂は、焔の前だけにある。晴豊はそれを知っていた。
お読みくださり、誠にありがとうございました。ご感想・ご評価を賜れましたら幸甚に存じます。




