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本能寺、炎上せず。――武家伝奏転生、明智光秀を太政大臣に任じ信長を“安土の神”に封ず  作者: 九条 綾乃


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余聞 マカオの改め

 マカオの港は、昼と夜で顔が違う。


 昼は絹と陶磁が陽に白く光り、夜は銀と噂が闇に濃く沈む。

 石畳の波止場に、葡萄牙(ポルトガル)船が腹を据えていた。船腹の板には潮が染み、ロープは塩を噛んで固い。積荷の札が揺れる。生糸、胡椒、硝石――表向きは、どれも商いの品だ。だが、札というものは、書き方ひとつで刃にも薬にもなる。


 黒衣の男は、倉の陰でその札を見ていた。名を捨て、死んだことになっている男――信長である。

 司祭は彼を「ドン・ノーノ」と呼んだ。異国の舌で言えば、誰の名にも聞こえない。


「今夜は、呂宋(ルソン)の口(マニラ筋)が混じります」


 司祭が小声で言う。


「葡萄牙の船に乗せて、帳面の外で物を動かすつもりです」


「帳面の外?」


 信長は笑った。


「面白い。外に出すなら、外から潰せる」


 司祭が差し出したのは、港の検札所で使う薄い帳面だった。積荷の品目、数、送り先、受け取りの印。表紙は汚れているが、数字は端正だ。ここで嘘をつく者は、港の人足より先に書き手が動く。嘘は紙の癖で露見する。

 信長は指先で帳面を繰り、ある一行で止めた。


「鐘……?」


「教会の鐘です。鋳型と、銅と、——」


 司祭が続けようとしたのを、信長は遮る。


「鐘が、こんなに重いわけがななかろう」


 帳面の脇に付された荷印は、鐘のはずなのに、異様に荒い。さらに、銅の分量が多すぎる。銅は銅でも、鐘ではなく――弾のための銅だ。

 信長は帳面を閉じ、司祭に言った。


「港の役人を一人呼べ。酒が利く口ではない、調べが利く口を」


 しばらくして現れたのは、検札を預かる混血の役人だった。手は汚れていない。爪が短い。商いの人間ではない印だ。

 信長は帳面を差し出し、淡々と言った。


「この『鐘』は嘘だ。荷を改めろ。今夜、船を出すな」


 役人が眉をひそめる。


「誰の命令だ。ここは王の港だぞ」


 信長は黒衣の袖から、小さな札を一枚出した。木札ではない。紙だ。奉書ではない。だが、書止めと朱の置き方は、禁中の式に寄せてある。


――形を揃える。抜け道を細くする。


 晴豊が好むやり方だ。

 役人は朱を見て、一瞬だけ表情を変えた。朱は言葉より早い。


「……分かった。改めよう」


 夜半、倉の前に松明が並んだ。箱が開けられ、藁の下から出てきたのは、鐘の鋳型などではない。細長い鉄の筒と、粉を詰めた小袋、鉛の粒。

 司祭が息を呑んだ。役人が顔を青くした。


「誰へ送る」


 信長が問う。

 役人は渋り、次いで短く吐いた。


「呂宋の商人が、長崎へ。長崎から、さらに内へ。……“都の新しい政”が固まる前に、古い火種へ渡すつもりのようだ」


 古い火種。

 信長の脳裏に、いくつもの名が浮かぶ。火は、いつでも“余っている者”の手に移る。戦が奪われた者、銭が止まった者、位が届かぬ者。そういう者が火種になる。

 信長は役人に背を向け、司祭へ言った。


「紙を用意しろ。二通だ。ひとつは(とも)へ、ひとつは京へ」


 司祭が筆を取る。信長は口で言った。文は短く、要だけ外さない。


「呂宋筋が、葡萄牙の帳面の外へ荷を流す。荷印は『鐘』。中身は違う。

 長崎の改めを一段きつくせよ。割符の合わぬ荷は、海へ戻せ。

 それから——」


 信長は一拍置いた。ここが肝だ。


「“南蛮の鐘”は鳴らしてよい。だが、鐘の陰で札を動かす者は許すな」


 司祭が書き終え、信長は朱を押した。印ではない。ただの朱だ。それでも朱は、遠い国を動かす。


 信長は倉の闇を見た。松明の火が揺れている。火は怖い。だが、怖いからこそ役に立つ。怖さの向きを変えればよい。


「……愉快だな」


 信長は小さく笑った。


「海の上でも、勝負は刀ではない。札だ。帳だ。——そして、改めだ」


 港の鐘が鳴った。

 その音は祈りのためではなく、夜の改めの合図に聞こえた。


 ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。

 本作は、刃が歴史を動かすのではなく、紙と筋目がそれを畳み直す――その発想ひとつから出発しました。もし頁のどこかに、現の息遣いと、過ぎし世の影が同時に立ち上がる瞬間を感じていただけたなら、これに勝る喜びはございません。

 ご感想、ご批評を賜れましたら幸甚に存じます。賜りしお言葉は、次の一筆を整えるための折り目として、ありがたく頂戴仕ります。


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