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本能寺、炎上せず。――武家伝奏転生、明智光秀を太政大臣に任じ信長を“安土の神”に封ず  作者: 九条 綾乃


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第十二話 鳳凰の羽ばたく都

 天正の末。かつて「戦国」と呼ばれた狂乱は、いつしか都の噂の端へ追いやられ、若い者は合戦の名を古い物語として聞くだけになった。


 平安京――勧修寺晴豊が図を引き、伊奈忠次が水を治め、石田三成が勘定で底を支えた都は、いまや日の本のみならず、マカオの座に至るまで「黄金の静謐」として語られている。石畳は雨に沈まず、溝は汚れを抱えず、免税の市には南蛮の香が混じる。武士たちは血の匂いのする具足を蔵に収め、衣冠を正し、伊勢貞興の定めた礼の型に従って、公儀の吏として胸を張った。


 太政官の南面、朱塗りの柱に夕日が差し、欄干の影が長く伸びていた。晴豊は秋風に白髪の混じる鬢を遊ばせ、隣に立つ太政大臣・明智光秀へ言った。


「……ついに、ここまで参りましたな。十兵衛殿」


 光秀の双眸からは、あの夜――本能寺の前にあった悲痛な覚悟も、山崎で背負った峻烈も、すでに薄れている。残っているのは、育て上げた秩序を、静かに撫でるように眺める老宰相の穏やかな光だった。


「晴豊殿。あの日、鹿威しの鳴る庭で示された“図”。正直に申せば、私は神の戯れか、魔の誘いかと思いました」


 光秀は都を見下ろし、息を吐いた。


「だが――泥沼のような世が、刃ではなく筋目で鎮まった。武士は土地を奪い合わず、位階を競い、商いの利で家名を繋ぐ。貴殿の言った、暴力の無益さの証明が、いまこの景色そのものです」


 二人の背後に、新秩序を支えた柱石たちが揃っていた。木下秀長は諸大名の利害を磨り潰さずに合わせ、中央の政を回した。三成は帳合をさらに細かくし、御入用の勘定に狂いを許さず、飢えを“例外”へ押し込めた。忠次は江戸の普請を絶やさず、東国の力を土へ流し、家康の野心を百年の工に縛りつけた。


 本能寺の後を生き延びた松井友閑と、小早川隆景は御舟手を整え、海の利を都へ運び、外つ国と向き合う窓口を一つにした。


 晴豊が茶化すように言う。


「十兵衛殿。ご退きになると聞いて、寂しがる者が大勢おりますぞ」


 光秀は困ったように笑い、すぐに首を振った。


「もはや、私という個の武威は要りませぬ。……法が、そして官の者たちが、私がいなくとも国を回してくれる。それこそが、我らの目指した“長く続く静けさ”の正体でしょう」


 光秀は、太政大臣の印判を晴豊の手へ預けた。掌に残る朱の匂いが、妙に生々しい。


「晴豊殿。……貴殿の正体を、結局私は最後まで問わずに参りましたな。だが、何者であろうと構わぬ。貴殿がこの国に与えた未来は、真でございました」


 その夜、晴豊のもとへ一通の書状が届いた。マカオから、南蛮船の司祭を通じて極秘に運ばれた紙には、相変わらず無礼で、しかし誰よりも峻烈な知性が踊っている。


『晴豊。十兵衛が退いたそうだな。奴もようやく肩の荷を下ろしたか。

 マカオの海は安土の湖より広いが、お前の作った檻は、ここにも手を伸ばし始めている。……愉快なことよ。

 連中は今も信仰で人の心を盗もうとする。鐘の音ひとつで都が揺れる。揺れぬよう、札と筋目を絶やすな』


 歴史から消え、「神」として異国に身を置いた織田信長からの、惜別の忠告であった。信長は海の向こうでなお、こちらの政の正否を試し続けている。


 晴豊は月光に照らされた書状を閉じ、独り書斎の机に向き合った。そこには、覚醒の夜から書き継いできた日記――『晴豊卿記』が置かれている。文台の端には、かつて兼見が用いたと噂される古い太政官印の木箱が載っていた。倉から引きずり出した印は、いまや新しい世の朱として働いている。

 晴豊――九条悟は筆を執り、最後の行を置いた。


『天正、ついに尽く。

 本能寺の夜、信長公は神として世を離れ、光秀卿は太政大臣として筋目の礎を築く。

 秀吉の野心は政の手足へ、家康の武威は普請の情熱へと移り、日の本は刃の世を脱した。

 ――私の役はここに終わる。後は、筋目が人を守るべし』


 筆を置くと、指の腹に墨の冷えが残った。窓の外では、夜の都が灯を散らし、遠い川の水音がかすかに響く。


 闇の底から、微かに鹿威しの音が聞こえた気がした。あの夜と同じ、しかし今は終わりを告げる音ではない。新しい時代の呼吸として、静かに鳴っていた。


お読みくださり、誠にありがとうございました。ご感想・ご評価を賜れましたら幸甚に存じます。

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