第十一話 蒼海を渡る風と異国の薫香
天正十一年の晩秋、瀬戸内を渡る風は肌を刺す冷たさを帯びていた。だが安芸・鞆の浦の湊は、それを撥ね返す熱に満ちている。潮の匂いに混じって、胡椒と沈香――南蛮の香が、倉の扉の隙間から漏れた。
波間に揺れる船影は、かつて毛利が誇った村上の舟手の名残ではあったが、いまは別の札を掲げていた。菊花の紋を染めた幟が帆柱に絡む。御舟手――朝廷の名で動く「公儀の船」である。村上武吉の老練な目が甲板の端で海面を量り、若い衆は号令ではなく太鼓の拍で櫓を揃える。水軍が“家の武器”である時代は、終わりかけていた。
勧修寺晴豊は大きな安宅船の甲板に立ち、水平線を見つめた。隣には小早川隆景が控える。毛利の知略を担った男の目は、戦の海ではなく商いの潮を測っていた。
「……隆景殿。この海は、領地を奪い合う堀ではございませぬ」
晴豊は風の向きを指で示した。
「世界へ通ずる道にございます。道を押さえる者が、刀より先に人の腹を押さえる」
隆景は胸元の巻物を確かめる。紙は奉書、墨は新しい。そこには航路の覚えと、湊での改めの条目が、雅な言葉で書かれていた。
「父・元就は『海を制せ』と申しました。しかし、海を“治めよ”とは――」
隆景は小さく笑い、すぐに顔を引き締めた。
「晴豊殿。都は、南蛮を恐れておられるのですな」
「恐れは致しませぬ。用いるだけです」
晴豊は言葉を選んだ。恐れと言えば武者は刃を抜く。用いると言えば帳面を開く。
「南蛮船は鉄砲を持ち込み、布教を持ち込み、内を割って利を取る。これまでは大名ごとに窓口が散り、値が散り、噂が散っていました。――散らさぬのです。窓口を一つにする」
晴豊はふと、京で回覧された一通の写しを思い出していた。天正の少年使節が、春にゴアへ入って見聞したという便りだ。異国は人の勇だけで動かぬ。帳と秤と契約で、海の向こうの富を均していた――その冷えた実感が、紙の端に残っていた。
さらに、脳裏を、四条の町で鳴るという南蛮寺の鐘の噂がよぎる。耳に馴染まぬ音が都の空気を変える――海の匂いと同じ、目に見えぬ侵入である。
ほどなくして、鞆の浦に長崎からの早舟が入った。友閑の下役が、封のある小箱を抱えて降りる。木札が二枚、同じ紋で揃っている。割符――片方を湊に、片方を京へ。札が合わねば荷は動かぬ。止めるのではない。合うまで待たせる。
晴豊は小箱を隆景に渡し、静かに言った。
「南蛮交易は、御免状と割符を通さぬ限り、一匁の銀も一筋の絹も動かさせませぬ。松井友閑には交易奉行を命じました。堺・博多の会合衆は、これより“公儀の座”として働かせる」
「座を、官の鎖に……」
隆景の声に畏れが滲む。鎖は見えぬが、ほどけぬ。
「札の式も、都で一つに揃えました」
晴豊は奉書の端を示した。花押の位置、書止めの言葉、朱の印――後の世なら朱印状とでも呼びそうな作法を、いまは“公儀の御判”として通す。
「形を揃えれば、抜け道は細くなる」
そこへ石田三成の使者が続いた。紙には数字が並び、海の利が“言い逃れ”できぬ形で積まれている。
「入津の銀、出津の絹、積荷の歩合、船の損耗……。帳が合わねば、誰かが盗んでおります」
晴豊は紙の端を押さえた。
「盗む余地を減らすのです。湊で改め、病者を湊に入れず、荷を焼かず、札で裁く。――海の上でも、法は通る」
隆景は甲板の先を見た。沖合に、南蛮の帆が一つ。こちらを測るように、動かない。
「彼らは、従いましょうか」
「従わせます。従わぬなら、買い手ではなく“勝手な来客”になるだけ」
晴豊の声は柔らかいまま、芯が冷たかった。
その折、司祭を介して一通の密書が届けられた。封蝋は異国の形、紙は西洋の白、だが墨の癖が古い。晴豊と、視察に来ていた光秀の背筋が同時に強張った。
――十兵衛、晴豊。マカオの夕陽は安土より赤いぞ。
たった一行で、息が止まる。筆圧の乱暴さ、語尾の癖。さらに朱の印が押してある。見慣れぬ異国の印ではない。かつて安土で、文に容赦なく捺された朱の記憶だ。
「……上様」
光秀の声が震えた。呼び名が、喉で止まらずに出た。
信長は、死を“使い”、名を捨て、海の外へ身を移していた。巡察師ヴァリニャーノの名が、別紙の端にだけ小さく記されている。筋の通らぬ奇策ではない。南蛮の網の中に身を隠す、最も彼らしいやり方だった。
手紙には続きがあった。西班牙が呂宋に城を固め、銀で海を買っていること。葡萄牙が香料と絹で首を絞めに来ること。彼らが恐れているのは「日本が内乱をやめた」ことではなく、「窓口が一つになった」ことだ、と。
――晴豊。お前の檻は効く。だが油断するな。連中は信仰で民の心を盗む。刀より軽く、銭より深い。
晴豊は紙を折り、袖に収めた。
「……十兵衛殿。海の利は、火よりも早く回ります。だからこそ、火種も早い」
光秀は頷いた。
「布教を放っておけば、都が割れる。割れれば、札も条目も効かぬ」
翌月、京では新たな沙汰が出た。信仰は咎めぬ。だが寺社と同じく、教会の地子は公儀に届け出よ。土地を勝手に抱えることを禁じ、司祭は湊ごとに名簿へ載せ、巡察の使いが定期に改める。争いは刃で裁かず、まず公儀の沙汰座へ。信仰を口実にした勝手な集会は禁ず――あくまで“禁中の静けさ”を守るため、という形で。
天正十二年、春。朝廷の旗艦「あづち丸」は瀬戸内を抜け、外海の光を受けていた。甲板に立つ晴豊と光秀の前で、朝日が水平線から立ち上がる。海は赤く、やがて金に変わる。
「……十兵衛殿。国内の火は鎮まり、海から富が入る。これが、私どもの望んだ形です」
「ええ」
光秀は遠くを見た。かつての孤独な苦悩はない。背負うべきものが、形になったからだ。
「上様を殺すしかないと追い詰められた日々が、遠い。……いまは、上様すらも海の彼方で働いておられる」
晴豊は懐の手紙に指を触れた。紙は薄い。だが、海より重い。
(右府。あなたが壊した瓦礫の上に、私どもは都を立てました。――今度は、海の向こうが戦場になります)
潮の音が、静かに答えた。
平安京の新都、江戸の普請、帳の統一、そして瀬戸内の御舟手。歴史は、血ではなく札と条目で組み直されてゆく。戦国の終わりは、すでに過去になりつつあった。
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