第十話 関東の狸、土に縛らる
天正十年、秋。武蔵野の萱原は風に波立ち、空は高いのに、地はいつまでも湿っていた。江戸――名だけは古いが、実はまだ葦と泥の国である。潮が入り、雨が降れば道は溶け、晴れれば土はひび割れる。徳川家康は、その江戸の仮屋形に座していた。
望んで来たのではない。京からの命である。
「関東鎮撫」の名のもとに、家康は東へ押しやられた。武名ある者を都の手の届く場所に置かぬための、やわらかな隔て。しかも名目は栄誉で、実は縄であった。
「……明智め。錦の旗と紙切れ一つで、天下を盤上に並べて悦に浸っておるか」
家康は西の空を見て、低く呟いた。太政大臣・明智光秀、武家伝奏・勧修寺晴豊。二人は都で筋目を立て、武の世を墨の世へ作り替えつつある。羽柴秀吉は山崎で潰え、織田信忠は内大臣として座に収まった。ここへ異を唱えれば「公儀に背く」と名が付く――それを家康ほどよく知る者はいない。
だから家康は、静観した。供奉を病と称して延ばし、国元の兵を改め、槍を研ぎ、時を待つ。東国の狸と呼ばれた男の生存の作法であった。
だが、都には未来を知る目がある。目がある者にとって、病はただの名でしかない。
京都、太政官。紅葉の影が床に落ちる中、晴豊は湯呑を指で回しながら言った。
「十兵衛殿。家康殿の病は、『権力欲』という名の持病にございましょう」
光秀は笑わない。
「兵で討てば、関東は荒れる」
「ゆえに兵は出しませぬ。辺境を封じるに刃は要りません。――塩と札で足ります」
晴豊が命じたのは、津留・塩留、そして関銭の一斉改めであった。塩留め自体は古い。だが今回のは一国一津の意地ではない――禁中の名で廻状を回し、同じ刻限に札を掛け替える「天下一統の留め」だ。関八州へ入る塩、鉄、硝石、そして銭の流れを、禁中の禁制として締める。箱根・足柄の山、街道の要、津々の口。抜け道の渡しにも、座衆を通じて目を置く。
それを動かす手は、石田三成である。帳合に強い若者は、数字の冷たさをそのまま政に移す。
「東へ出る塩は御止め。鉄は座へ触れ、硝石は津で押さえます。銭は――江戸へ流れる分だけ、都へ引き戻す」
さらに三成は、通行札の様式を揃えさせた。札なき荷は「賊荷」として没収――止めるのではない、合法と違法の境を紙で引く。
一月も経たぬうちに、関東の市から銭が薄れた。塩は高騰し、兵糧を運ぶ車は途中で止まる。槍はあっても、腹が鳴る。火薬はあっても、火が立たぬ。
家康は家臣の報告を聞き、表情ひとつ変えずに言った。
「飢えは、矢より早いか」
榊原小平太が地図を叩く。
「殿。西へ討って出るなら、今が――」
本多平八郎忠勝は槍を立てたまま沈黙し、井伊万千代は口を結んで、濡れた具足の紐を締め直した。だが石川数正だけは、関の札が掛け替わった名を眺め、かすかに息を吐く。
「討って出ても、軍は道で飢えまする。札ひとつ、津留の触れひとつで、塩も鉄も止まる」
家康は首を振った。
「勝っても勝ちにならぬ。公儀が“賊”と書けば、天下はそう読む」
そこへ、さらに追い打ちが来た。京より使者が入る。先に通されたのは、伊奈忠次であった。家康の家中の者にして、普請と勘定に明るい男。いまは都の用のために動いていた。
忠次は巻物を捧げ、静かに言う。
「殿。太政大臣様、ならびに勧修寺様より、宣旨が参りました」
家康は奉書を広げた。処罰ではない。文面は丁寧で、しかし逃げ道がない。
――江戸の湿地を改め、川筋を整え、新田を起こし、東国を穀倉とせよ。これを国家百年の計とし、徳川家康に総奉行の任を命ず。御用普請として、諸国より人夫と材を付す。
末尾には、晴豊の短い追い書きが添えられていた。
――この御用普請に励む間、塩留・津留は解く。御入用の銭と米は、公儀より下す。されど、普請を疎かにし、兵を動かす兆しあらば、再び留める。
「……泥を掘れ、と申すか」
家康の声が低くなる。怒りはある。だが怒りは、腹を満たさぬ。
忠次は顔を上げ、目が熱い。戦の話ではない。川と土の話をする者の目だ。
「殿。ここは葦の国にございます。しかし土は嘘をつきませぬ。水の道を変えれば米が生まれます。米が生まれれば人が寄ります。人が寄れば城下が立ちます」
「年月は」
「殿の御代だけでは足りませぬ。二代、三代……百年を要する普請にございます」
家康は、ふっと笑った。乾いた笑いだ。
「……なるほど。俺をこの泥の中に、百年、閉じ込めるか」
その夜、家康は家臣を退け、江戸の闇に立った。月は高く、足元は暗い。葦原の向こうから潮の匂いがする。ここが国の中心になるとは、誰も思わぬ土地だ。だが、だからこそ器になる。
家康は陣羽織を脱ぎ、袖をたくし上げた。泥が指に付く。戦で付く血とは違う、冷たい重さだ。
「よかろう。都が墨で天下を治めるなら、俺は土で天下を支える。――十兵衛と晴豊が着物を汚さず座を守るなら、俺はこの東国で、器そのものを作ってみせる」
翌日、家康は公儀へ奉書を送った。臣従の詞は飾らず、しかし筋目だけは外さぬ。普請の総奉行を受け、御用のために土を動かす、と。
京の都では、その知らせを受けた晴豊が、静かに『晴豊卿記』に筆を走らせた。
――東国の狸、泥に入りて牙を収む。されど、この泥は、いずれ天下の器となるべし。
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