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本能寺、炎上せず。――武家伝奏転生、明智光秀を太政大臣に任じ信長を“安土の神”に封ず  作者: 九条 綾乃


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第一話 覚醒の火花、翠の静寂

 五月の夜気は、京の土と石の匂いを濃く含み、衣の襟元にまとわりついていた。勧修寺邸の庭は闇に沈み、池は月を呑み込み、苔は青白く光を返す。


  ――カコン。


  鹿威しが石を打ち、水を吐き、竹が戻る。規則正しいはずの音が、今夜はひどく重い。刻を刻むのではなく、息を削り取っていく音だった。


 晴豊は縁側に片膝をついたまま、掌で濡れた板を押した。冷たさが指の腹から骨へと上がり、ようやく自分が生きているのだと知れる。後頭の奥には鈍い痛みが沈み、視界の端に白い火花が散った。


 数刻前――御所の廊下。


  磨き上げられた板に、薄い水の膜が張っていた。打ち水の撥ねか、夜気の湿りか。足裏が滑り、身体が宙を泳ぎ、次の瞬間、後頭部が硬いものに叩きつけられる。音はなかった。あるのは、脳の内側がひび割れる感覚だけだ。

 

 その先が、欠けている。


  誰かが「武家伝奏殿」と呼んだ。甲高い声ではない。恐れを抑えた、控えめな声だ。さらに「御門の内で騒ぎを立てるな」と、別の声が叱るのが聞こえた気がする。肩が抱え上げられ、衣の裾が床を擦り、牛車か輿か、揺れの質が変わった。簾の向こうを灯が流れ、禁裏の門を出る気配だけが、ぼんやり残った。


 ……そして、いま。


  晴豊は喉を鳴らし、空の乾きを確かめた。鼻孔に、沈香と薬草の匂いが混じる。頭に巻かれた布が、わずかに締めつける。邸の者が手当てをしたのだろう。だが、手当てなど些事だった。問題は、身体の内側、頭の中で起きている。


(信長公記、兼見卿記、本能寺の変、山崎……)


  史料の表題が、唐突に胸の奥で鳴った。乾いた紙の匂い。活字の黒。講義室の冷えた空気。頁を繰る音。――それらが、畳の匂いと混ざって、気持ちの悪いほど生々しくなる。


(……私は九条悟。令和の時代に歴史学の教壇に立ち、明智光秀の行政能力を褒めすぎて、学会で浮いていた――)


 だが、指先を見れば、公家の手だ。墨を含ませ、奉書に花押を置くための手。そこに、未来の記憶が重なっている。二つの人生が噛み合わず、歯鳴りを立てる。

 縁側の脇、几帳の陰に文台が置かれていた。料紙が揃い、硯の水差しが静かに口を閉じる。日々の覚えを綴るための紙――この家の主が、淡々と続けてきた記録の道具だ。筆は整えられ、いつでも一行を書けるようにしてある。


  だが、晴豊は筆に手を伸ばさなかった。

 書けば、史料になる。書けば、未来の自分が読む。書けば、この夜は歴史に固定される。

 書かねば、欠落になる。欠落は、史料好きの嗅覚を刺激する。だが、欠落は同時に、誰かの命綱でもある。

 鹿威しが鳴る。


 ――カコン。

 

 その音に合わせて、晴豊の思考が定まっていく。

 

 ――右府。信長。

 

  禁中ではそう呼ぶ。けれど武家の場では、別の呼び名の方が通りがいい。

  比叡山が燃えた話が尾ひれをつけ、南蛮坊主の書簡にまで「魔王」と踊る。――呼称ひとつで場が割れる相手だ。

 安土の摠見寺で、神を演じる仕掛けが整えられている。盆山を拝ませた、と南蛮の書付がどこかで囁く。真偽はどうでもいい。噂は政になる。噂は、刃にも火にもなる。


(座して待てば、滅ぶ)


  晴豊は、濡れた息を吐いた。朝廷も、光秀殿も、この国の形さえも。

 そのとき、舌の奥に苦いものが蘇った。


  四月の終わり。村井貞勝の屋敷。

  武家の土間の匂い、鉄と油の気配。座の低さ。そこで交わされたのは、任官をめぐる婉曲な探り合いだった。三職だの、推任だの――柔らかい言葉で包みながら、互いに刃の位置を探り合う夜。

  あの夜は、まだ「言葉の遊び」で済むと思っていた。だが遊戯の盤そのものを、信長はひっくり返しに来ている。


(言葉で止められぬなら、手続きで縛る。人で止められぬなら、仕組みで塞ぐ)


 晴豊は立ち上がろうとして、膝が笑うのを感じた。痛みではない。現実が重く、身体が追いついていないのだ。邸の奥から、控えめな足音が近づく。家司が屏風越しに声を落とした。


「御前、惟任日向守殿が――」


  呼称に、晴豊は小さく息を吸った。惟任。授けられた名。授けられた鎖。

  だが、今夜は鎖が救いになる。鎖は相手を引き寄せる。


「通せ」

 

 光秀は、音もなく座に入った。衣の擦れる音さえ控えめだ。十年来の知己。連歌の席で句の癖を笑い、茶の湯では沈黙の長さで互いを測った男。

 

――だった。


 今の光秀は、鞘が摩耗している。頬はこけ、目の下に影が沈む。瞳だけが妙に乾き、その奥に疲労と焦燥が絡みついている。叱責、命令の覆転、そして安土での「神」の演出。理を愛した男の精神が、理不尽に磨り減らされているのが見て取れた。


 晴豊は、わざと旧い呼び名で口を開いた。


「……お顔の色が悪いな、十兵衛殿」


 光秀の肩が、ほんの僅かに緩む。反射だ。友情の残り香だ。

  晴豊はその緩みを赦さなかった。赦せば、言葉が軽くなる。


「禁中で倒れた。……だが、倒れたのは身体だけではない。耳を澄ませよ。刻が変わる音がしている」

 

 光秀は眉を寄せた。鹿威しが、カコン、と応える。

 

「勧修寺殿、今夜はご様子が――」


「先に告げる。ここで聞いたことは、ここで止めよ」


 晴豊は言葉を選び、しかし曖昧に逃げなかった。


「上様は、貴殿を切り捨てる腹だ。遠からず、追放か、切腹か。丹波と近江を召し上げ、まだ見ぬ敵を切り取れと命じた時点で、貴殿は悟ったはずだ。貴殿はもう、あのお方の道の上に“置かれていない”」


 光秀の指が畳の目を掴み、白くなる。


「……勧修寺殿、そのような不敬、誰に聞かれれば」


「誰も聞いてはおらぬ。この部屋にあるのは、死を待つ貴殿と、滅びを待つ私だけだ」


 晴豊は、文台を指で叩いた。奉書の折り目。封の位置。花押の置き方。禁中の作法は、血を流さずに人を殺すための刃でもある。

 

「四月の村井殿の屋敷を覚えておられるか。任官の話を、婉曲に、雅に、しかし互いの首を量りながら交わした夜だ。あれは、上様が朝廷を“使う”うちは成り立つ。だが――」

 

 晴豊は一拍置いた。言葉を落とすための間だ。


「上様は、朝廷そのものを“不要”として切り捨てる。三職だの推任だのは、餌にもならぬ。帝を頂点とする秩序を残す気がない。ご自身を唯一の頂に据え、下にすべてを這いつくばらせる。そこに、千年の伝統も、貴殿が守ろうとした室町の誇りも、入り込む隙間などない」

 

 光秀の瞳に、恐怖が宿る。未知への恐怖ではない。薄々形を持っていたものを、最も信頼していた友に、最も明瞭な言葉で突きつけられた恐怖だ。


「……ならば、どうせよと。私は……上様に尽くしてきた。あのお方こそが、この戦国を終わらせると信じて」


「終わらせる。焼き尽くしてな」


 晴豊は、激情に寄らないよう声を平らにした。

 

「だが、その後の“構築”を任せてはならぬ。破壊の才は、平和の世では毒になる。毒は薬にもなるが――扱い方を誤れば、国そのものが死ぬ」

 

 光秀は、言い返さなかった。拒絶の沈黙ではない。手順を探す沈黙だった。

 晴豊は懐から紙束を取り出し、座の間に置いた。奉書に似せた粗い紙。墨の濃淡が乱れ、筆致に焦りが残る。だが線は引かれ、枠は組まれ、項目が並ぶ。人の才ではなく、手続きを積み上げて国を縛る――そのための図だった。

 

「……これは」

 

「掟は、どの家にもある。今川にも、北条にも。だが掟は家を守るだけだ」

 

 晴豊は紙束の端を押さえ、次の一枚をめくった。図ではない。数字が並んだ紙だ。どこで銭が消え、どこで嘘が生まれるかを、帳の噛み合わせで炙り出す試算。


「これは国を止めるための手続きだ。条文の美しさではない。運用の統一だ。帳の形を揃え、役目の順を揃え、裁きの手順を揃える。嘘をつく者が、息をできぬ仕組みにする」


 光秀は、紙の上の数字と線を、まるで刃物のように見つめた。彼は理の人間だ。理が、戦を止められぬことも知っている。だからこそ、理が“逃げ場を塞ぐ”形に組まれているのを見て、背筋が伸びた。


「……なるほど。法という言葉で縛るのではない。手続きで縛るのか」


「そうだ。上に天才が一人要る国は、天才が死ねば瓦解する。これは、凡庸でも回る国だ。――貴殿の才を、戦で削るな。国を回すために使え」


――カコン。


 鹿威しが鳴る。

  その音は、もはや時間の終わりを告げる音ではなかった。決断を促す合図の音だった。


「……勧修寺殿」

 

  光秀が、ようやく視線を上げた。瞳の乾きが、少しだけ潤んでいる。恐怖と同じだけの、高揚が混じっている。

 

「上様は、どうする」


 晴豊は窓の外の闇を見つめた。安土の方角。摠見寺。噂と祈りと火種の集まる場所。


「殺してはならぬ」

 

 その一語を、晴豊は自分に言い聞かせるように落とした。


「上様には“神”になっていただく。刃を向けるのではない。儀礼と文書の枠に嵌める。――本能寺は、討つ場ではない。移す場だ」

 

 光秀は息を呑んだ。やがて、畳に置いた指の力を抜き、ゆっくりと頷いた。

 

――カコン。


  竹が石を打つ音が、京の夜の底で澄んだ。


お読みくださり、誠にありがとうございました。ご感想・ご評価を賜れましたら幸甚に存じます。

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