第7話:可能性
日曜日。午前9時55分。
駅前の時計台広場には、家族連れやカップルが溢れていた。
俺は欠伸を噛み殺しながら、柱の陰に立っていた。
平日の業務疲れが抜けない体には、休日の朝の日差しは少々眩しすぎる。
「……あいつ、本当に来るのか?」
日曜日。午前9時55分。
駅前の待ち合わせ場所で、俺はスマホの時計を確認した。
5分前行動。俺にしては珍しく優秀だ。
昨日の今日だ。
勢いで「行く!」と言ったものの、冷静になって「業務外の接触は非効率的です」とか言ってキャンセルしてくる可能性も――
「――確認。現在時刻、9時58分。定刻通りね」
突然、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには見知らぬ美女が立っていた。
いや、見知らぬ人じゃない。
よく知っている顔だ。
でも、俺の脳が認識を拒否していた。
「……さ、佐藤?」
「何よ。人の顔を見て固まるなんて、処理落ち?」
そこにいたのは、いつものパンツスーツ姿の「氷の女帝」ではなかった。
淡いパステルブルーのワンピース。
その上には、透け感のある白いカーディガン。
足元はヒールではなく、歩きやすそうな白のサンダル。
そして髪は、普段のきっちり整えられた髪ではなく、緩く巻かれてハーフアップにされていた。
どこからどう見ても、休日の清楚なお姉さんだ。
しかも、モデル級の。
「お前……その服、どうした?」
「変かしら?」
「いや、変じゃないけど……」
似合いすぎている。
というか、普段の武装したようなスーツ姿とのギャップがありすぎて、直視できない。
昨日の花見はまだ戦闘モードだったのか、今日はまた一段と雰囲気が違う。
「昨日の貴方の曖昧な要件定義(『私服でいい』)を受けて、緊急リサーチを行ったわ」
「リサーチ?」
「ええ。SNSから『春のデート』タグ付き画像を5万件収集して、画像認識AIにかけて特徴量を抽出したの。その結果、決定木分析で導き出された女子力の『最大公約数的な正解』がこれよ。文句ないでしょ?」
佐藤は得意げに胸を張った。
……なるほど。
つまり、雑誌のコーディネートをデータに基づいて完コピしてきたわけか。
いかにもコイツらしいアプローチだ。
「……ああ、すごくいい。普段のスーツより、断然そっちの方が……可愛い、かもな」
「っ!?」
俺が素直に(精一杯の勇気で)褒めると、佐藤はビクリと肩を震わせた。
そして、パッと顔を背ける。
「と、当然の結果よ。私の分析は完璧だったわね」
耳が赤い。
分かりやすいやつだ。
◇
俺たちが向かったのは、駅から少し離れた商店街にある老舗の印鑑専門店だった。
重厚な木の看板には『ハンコの山崎』と書かれている。
店内に入ると、壁一面にハンコの棚が並んでいた。
「いらっしゃいませー」
人の良さそうな店主が奥から出てくる。
佐藤は、その圧倒的な物量に息を飲んだ。
「すごい……これが全部、個人の識別子(ID)なのね」
「まあな。とりあえず『佐藤』を探してみろよ」
佐藤は「サ行」の棚の前に立った。
そして、絶望したような声を上げる。
「……何これ。絶望的に多すぎるわ」
そこには、「佐藤」のハンコだけで専用の巨大タワーが聳え立っていた。
楷書体、行書体、古印体……。
さらには「佐藤(丸)」「佐藤(角)」「佐藤(太枠)」など、微細なバリエーションが無数に存在する。
「検索コストが高すぎる……。これじゃあ、『佐藤』単体では特定個人の識別なんて不可能よ。複合キー(名前)と合わせないとユニーク制約もかけられない欠陥仕様だわ」
「人口が最も多い苗字の一つだからな」
「非効率よ。日本政府はもっとネームスペースの管理を厳格化すべきだわ」
ブツブツと文句を言いながら、コイツは隣の棚に目を移した。
そこは「ア行」――つまり、俺の苗字がある場所だ。
「……『井伊』」
彼女は、俺の苗字のハンコを手に取り、うっとりと見つめた。
「……美しいわ」
「は?」
「見て、このシンプルさ。無駄な画数が一切ない。洗練された直線の組み合わせ」
「そうか? 普通に曲線入ってると思うんだけど」
「はぁ、まるで、極限までリファクタリングされたソースコードみたい。依存関係がなくて、均整がとれた感じが素晴らしいわ。『佐藤』のようなスパゲッティコードとは違う」
褒められているのか、ソースコード扱いされているのか分からない。
だが、コイツの目は真剣そのものだった。
彼女にとって「井伊」という字面は、機能美の極致らしい。
「いいなぁ……。私もこんな、ありきたりじゃない名前が欲しかった」
「……」
こいつ、本当にコンプレックスなんだな。
佐藤は、試し書き用の紙に、「佐藤」と捺した。
そして、その横にそっと、売り物の「井伊」のハンコを捺す。
ポン、ポン。
『佐藤』『井伊』。
並んだ二つの苗字を見て、彼女はほう、と熱っぽい溜息を吐いた。
その顔は、システムの切替が何事もなく完了した時の管理者みたいに、とろけるように安らいでいた。
「……やっぱり、相性(互換性)いいわ」
何がだ。
結局、佐藤は店主と30分近い議論(という名の質問攻め)を展開した。
店主が、このマニアックな千本ノックに笑顔で耐え切ったことに、俺は心底驚いた。プロ根性すごい。
最終的に、彼女はチタン製の頑丈な「佐藤」の印鑑を購入した。
「可用性(Availability)重視」らしい。
普通は耐久性(Durability)だろ、というツッコミは、どこか不満そうな顔に免じて我慢してやった。
◇
買い物を終えた俺たちは、近くのカフェに入った。
佐藤はアイスティーを、俺はブレンドコーヒーを注文する。
「ふぅ……疲れた」
「お疲れ。まあ、いいのが買えてよかったじゃないか」
「ええ、仕事用はこれで充分ね」
佐藤は袋から新しいハンコを取り出し、また複雑そうな顔で眺めている。
「……でも、やっぱり『佐藤』なのよね」
「当たり前だろ」
「分かってる。 ――でも、なんか悔しいの。私は仕事で誰よりも成果を出して、『特別な存在』になろうとしてきた。でも、名前というラベルだけは、どこにでもある量産品のまま」
彼女はストローをいじりながら、ポツリと言った。
「私は、ユニークキーになりたいの。データベースの中で、唯一無二のレコードとして認識されたいの」
切実な願いだった。
彼女の完璧主義や、異常なまでの合理性は、もしかしたらその「埋没に抗うための生存戦略」なのかもしれない。
俺はコーヒーを一口啜り、窓の外を眺めた。
休日の穏やかな日差し。
目の前には、不器用で、面倒くさくて、でもどこか憎めない天敵。
気が緩んでいたのかもしれない。
俺は、つい、思ったことをそのまま口にしてしまった。
「……まあ、そんなに落ち込むなよ」
「……」
「名前なんて、所詮はただの識別子だ。他でアイデンティティを見出せばいい」
「簡単に言わないでよ。あなたも、生まれてからずっと『佐藤』だったらわかるわ」
「確かに、俺の苗字は珍しい方だろうけど」
俺は頬杖をついたまま、適当に言った。
「ま、ハンコくらいだったら、お前専用の良いのがあるさ」
「私専用の――――、井伊のがある……!?」
「へ?」
佐藤の手が、ピタリと止まる。
俺も、自分の言葉の反響……いや、佐藤の返した言葉の意味を脳内でパースするのに、数秒を要した。
ん?
俺は今、「良いの」と言った。
でも、こいつは「井伊の」と解釈した?
井伊の。
つまり、俺の苗字のハンコ。
それを「お前専用」として使う?
――それは、戸籍的なアレじゃねーか!!
「ッ!!??」
ガタンッ!!
佐藤が勢いよく立ち上がった。
椅子が激しい音を立てて倒れる。
彼女の顔が、首が、これまで見たことがないほどの赤色に染まっていく。
もはやオーバーヒートどころじゃない。炉心溶融だ。
「そ、そそそ、それは……!! つまり……えっと、その……将来的なシステム統合の可能性を示唆している……という認識で、合ってる……!?」
佐藤の声が裏返り、震えている。
俺も全身から火が出るほど熱かった。
違う、勘違いだ!
俺はただ、「良いのがある」って言っただけで……!
喉まで出かかった否定の言葉を、俺は飲み込んだ。
全力で「違う」と否定してしまったら、彼女はどうなる?
自己崩壊するか、泣き出すか。
それに何より。
俺自身、その勘違いを「100%ありえない」と言い切れない自分がいた。
「あー……いや、その……」
俺は視線を泳がせ、コーヒーカップを両手で包み込んだ。
言葉が出てこない。
肯定も、否定もできない。
沈黙が痛い。
でも、何か言わなきゃいけない。
俺は絞り出すように、一番曖昧で、一番卑怯で、でも一番正直な言葉を口にした。
「……かの……う、せいが、ゼロではない……かもな」
「ッ~~~~~~!!」
言ってしまった。
もう、後戻りはできない。
佐藤は言葉にならない悲鳴を上げ、両手で顔を覆ってその場に蹲った。
周囲の客たちが「何事か」とこちらを見ている。
やめてくれ。俺も消えたい。
こうして。
ただのハンコ屋デートは、俺たちの関係性定義に、取り返しのつかない致命的なバグを埋め込んで終了したのだった。




