第5話:目撃された密会
翌日。
朝から、オフィスには異様な緊張感が漂っていた。
原因は明確だ。
プロジェクトルームの中央に鎮座する『氷の女帝』こと佐藤優が、朝から一言も喋らず、凄まじいプレッシャーを放っているからだ。
キーボードを叩く音だけが、機関銃のようにフロアに響き渡る。
その背中には「話しかけるな」「近寄るな」「酸素を吸うな」と書いてあるようにさえ見える。
……また機嫌が悪いのか?
昨日の「ロジック・ハラスメント」の一件で、少しは改心したんじゃなかったのか。
俺は極力気配を消して、自分のタスク(機能設計書の修正)に集中しようとした。
だが、視線を感じる。
ふと顔を上げると、モニターの隙間から、佐藤がじっとこちらを凝視していた。
目が合った瞬間、フイッと逸らされる。
……なんだよ。
言いたいことがあるなら言えよ。
10時。
俺がトイレに立とうとすると、狙い澄ましたかのように佐藤も同時に席を立った。
すれ違いざま、小さく、しかしはっきりと囁かれる。
「……お昼、空けといてよ」
それだけ言い残し、彼女は風のように去っていった。
残された俺は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
――呼び出しだ。
処刑宣告だろうか。
昨日の説教がやっぱり気に食わなくて、論理的に詰められるのだろうか。
会社には"体育館裏"ってものがないだけマシなんじゃないか。
「……胃薬って予防にも使えるんだっけ」
俺は深いため息をついた。
◇
12時00分。
チャイムが鳴ると同時に、俺のスマホが震えた。
もはや恐怖条件反射で心拍数が上がる。
恐る恐る画面を見ると、通知欄には『佐藤優(個人)』の文字。
『12時10分、C会議室に来て』
『遅刻は1秒たりとも許しません』
『空腹状態で来ること(重要)』
簡潔かつ絶対的な命令。
最後の「空腹状態で」という指定が不穏すぎる。
何をされるんだ。血液検査か? それとも実験台か?
俺は「へいへい」と心の中で悪態をつきながら、万が一のためのコンビニのおにぎりとパンを一応カバンに入れて席を立った。
◇
C会議室。
普段はクライアントとの打ち合わせに使われる、6人がけの会議室だ。
ドアを開けると、そこには既に佐藤が座っていた。
机の上には、見慣れない紫色の風呂敷らしきものに包まれた何かが鎮座している。
「……遅い」
「待て待て、12時09分45秒だぞ。10分にはまだなってない」
「移動時間を考慮して5分前行動をするのが社会人の常識よ。マイナス5点」
「はいはい。で、何の用だ?」
俺は彼女の対面の席に座った。
佐藤は少し緊張した面持ちで、風呂敷に手を伸ばした。
「……お昼、一緒に食べるわよ」
彼女はそれだけ言うと、風呂敷を解き始めた。
中から出てきたのは、黒塗りの大きめの弁当箱だ。
デカい。
家族用? ってくらい容量がありそうだ。
しかも、漆塗り調の高級感が漂っている。
「あのー……、佐藤さんや?」
「……何?」
「それは何だ?」
「見れば分かるでしょ。お弁当よ」
彼女は弁当箱の蓋を、儀式のように厳かに開けた。
右のエリア:色とりどりの野菜の炊き合わせ。人参、椎茸、絹さや、里芋。それぞれが丁寧に飾り切りされている。そして、黄金色に輝く玉子焼き。
中央エリア:照り焼きチキンと、白身魚の西京焼き。紫蘇の緑と、添えられたはじかみの赤が美しいコントラストを描いている。
左のエリア:綺麗に俵型に握られたおにぎり。梅、昆布、そして混ぜご飯の3種。
豪華すぎる。
俺のカバンに入っているコンビニのおにぎりとパンが、急に産業廃棄物のように思えてきた。
「……これ、お前が作ったのか?」
「そうよ。当然でしょ」
佐藤は事も無げに言うが、その鼻の穴は少し膨らんでいる。
「外食やコンビニ弁当は、栄養素が偏りすぎているわ。貴方、最近顔色が悪くてよ。肌の水分量が低下しているし、目の下のクマも目立つ。明らかにビタミンB群とタンパク質が不足している証拠ね」
彼女はタブレットを取り出し、何やらグラフを見せてきた。
「これが貴方の推定栄養摂取量。そしてこれが理想値。乖離率が30%を超えてて、閾値をだいぶ上回ってるわ」
「……俺の栄養状態までモニタリングしてたのかよ」
「管理者として、リソースの健康管理は基本業務ですから」
嘘つけ。絶対私情だろ。
「それで、このお弁当は、その乖離を埋めるための最適解として設計したわ。PFCバランス(タンパク質・脂質・炭水化物)は完璧。さらに、疲労回復効果のあるクエン酸と、脳の働きを活性化させるDHAを強化してあるの」
彼女の説明は止まらない。
どこの産地の野菜を使っただの、出汁を取るのに水温を何度で管理しただの、調理工程における歩留まりがどうだの。
料理の説明というより、まるで工業製品のスペック説明を聞いている気分だ。
「……分かった、分かったから。ありがたく頂くよ」
俺は彼女の話を遮り、箸を手に取った。
このままでは講釈だけで昼休みが終わってしまう。
「……どうぞ」
佐藤も自分の箸を取り、俺の様子をじっと見つめている。
……いや、見つめているだけじゃなかった。
彼女は玉子焼きを一切れつまむと、俺の口元に突きつけてきた。
「……ほら、口を開けて」
「は?」
「箸を使うカロリーすら無駄よ。私が直接摂取口に投入するわ。これが最速のデリバリーよ」
「やめろ! 自分で食えるわ!」
「……ちっ(舌打ち)。非効率ね」
佐藤は残念そうに箸を引っ込めた。(本当はやってみたかっただけだろ……)
俺は気を取り直して、黄金色の玉子焼きを口に運んだ。
……!
箸を入れた瞬間はふわりと柔らかく、口に入れるとしっとりとした旨味が広がった。
これ、ただの卵焼きじゃない、だし巻きか!
うまっ!
上品な鰹出汁の香りが鼻腔をくすぐる。
料亭か。ここは料亭なのか。
「……どう?」
佐藤が不安そうに上目遣いで見てくる。
その表情は、いつもの冷徹な「女帝」ではなく、テストの点数を気にする子供のようだった。
「……悔しいけど、美味い。めちゃくちゃ美味い」
「……っ!」
「この出汁巻き、プロの味だろ。料亭の板前でも雇ったのか?」
「失礼ね! 私が作ったのよ!」
佐藤は声を荒げたが、その顔は嬉しさで緩みっぱなしだ。
「卵液の撹拌速度と加熱温度の相関関係を分析して、最も保水率が高くなるプロセスを確立したの。試作として家にあった卵を全部消費したけど、その甲斐あったわ」
「料理もロジックかよ……。ていうか、全部て」
「最適解を導き出すには、十分なサンプル数が必要なの。常識でしょ?」
彼女は「ふふん」と胸を張った。
パァっと花が咲いたような笑顔。
その破壊力たるや。
心臓が不整脈を起こしそうだ。
俺は動揺を誤魔化すために、次々と料理を口に運んだ。
西京焼きの絶妙な焼き加減。
煮物の染み具合。
どれもこれも、計算され尽くした「正解」の味だった。
「……昨日の、お詫びとお礼」
ふと、佐藤が静かに言った。
箸を止め、俺を見る。
「昨日?」
「……私の言い過ぎを止めてくれた件。家に帰って冷静に思い返してみたけど、確かに貴方の言う通りだったわ」
彼女は視線を落とし、弁当箱の縁を指でなぞった。
「私、正しいことをすれば、みんなついて来てくれると思ってた。でも、違った。私は組織のパフォーマンスを上げるどころか、低下させてたなんて」
「……まあ、気づけたならいいだろ」
「貴方がいなかったら、私、また孤立するところだった」
『また』。
その言葉に、彼女の過去が透けて見えた気がした。
優秀すぎるが故の孤独。
正論という武器でしか他人と関われず、その武器で周りを傷つけ、恐れられ、遠ざけられてきた人生。
高校時代もそうだった。
「ありがとう、幸太朗くん」
彼女は真面目な顔を少しだけ崩して、そっと微笑んだ。
その姿がいじらしくて、俺は少しバツが悪くなった。
「礼を言われるほどのことしてねーよ。俺はただ、自分の平穏を守りたかっただけだ」
「ふふ。貴方のそういう『省エネ思考』、相変わらずね」
「うるさいな」
「でも、だからこそ俯瞰で物事が見えているのかもしれないわね。……これは、そのコンサルティング料よ。全部食べていいわ」
「お前も食えよ。これだけの量、一人じゃ無理だ」
俺は西京焼きを半分彼女の取り皿に乗せた。
彼女は嬉しそうにそれを受け取った。
「……あ、あとね、幸太朗くん」
食後のお茶を飲みながら、佐藤がボソッと言った。
「ん?」
「……前回の歓迎会の件も、なかったことにして」
「歓迎会? ああ……」
『あなたは私の、旦那様(候補)なんだから』
あの居酒屋での爆弾発言のことか。
俺は苦笑した。
「分かってるよ。酒の席の話だろ? 誰も本気になんて……」
「違うの」
「え?」
「……『候補』は撤回するわ」
佐藤は真っ直ぐに俺の目を見て、宣言した。
その瞳に、迷いは一切なかった。
「貴方はもう、私の『パートナー(確定)』だから」
ブッ!!!
俺は盛大にお茶を吹き出した。
おい。
斜め上の訂正入ったぞ。
「ちょ、おま……!」
「業務上のパートナーよ? 勘違いしないでよね」
佐藤は悪戯っぽく舌を出して笑った。
だが、その耳は少し赤い。
「私の『翻訳機』として、これからも馬車馬のように働いてもらうわ。貴方の生存戦略は、私というリソースを使いこなすことにあるんでしょ? Win-Winの関係じゃない」
「言い方……!」
「覚悟しておいてね、旦那様(仮)?」
「(仮)ってつければ許されると思うなよ!」
「あら、プロジェクトにおいては『マスター権限を持つ管理者』を旦那様と呼ぶ文化があるのよ(大嘘)」
「どこの地方の文化だよ!」
……絶対、わざと言ってる。
業務上のパートナーなら「旦那様」はおかしいだろ。
俺は頭を抱えた。
こいつの辞書には「デリカシー」という言葉が載っていないらしい。
ガチャ。
唐突に、会議室のドアが開いた。
「し、失礼しましたー!!」
覗き込んでいた女性社員(たぶん総務部)が、真っ赤な顔でドアをバタン!と閉めた。
一瞬の静寂。
……終わった。
今の「旦那様」発言、絶対聞かれた。
しかも、テーブルの上には二人で突っついた弁当箱。
二人きりの密室。
俺がお茶を吹き出し、佐藤が顔を赤らめている(ように見える)状況。
「……今の、誰?」
「総務の高田さんだ……。スピーカーで有名な……」
俺は天を仰いだ。
その日の午後。
社内チャットの『雑談チャンネル(裏)』は、未曾有のトラフィックを記録した。
『緊急速報:女帝、井伊社員に"あーん"を強要』
『拒否権なし。完全な餌付けです』
『井伊さんの顔、死んでました(嬉しそうでした)』
『C会議室にて手作り愛妻弁当を確認』
『大きめのお弁当箱でした。愛が重い』
『"旦那様"呼び、継続確認』
という噂が、光の速さで社内を駆け巡ったのは言うまでもない。
俺が席に戻ると、同僚たちの視線が生温かいものに変わっていた。
「よっ、ご馳走様」「幸せ者め」と小声で茶化される。
お弁当のおかげで肌の艶は良くなったかもしれないが、精神的な胃痛は悪化する一方だった。
俺の平穏は、今日も遠い。




