第40話:E.U.(Engaged Unit)
投資家向けの中間報告デモから、一ヶ月。
我々Glanz Nextは、怒涛のような日々を駆け抜けた。
追加出資の契約締結、ベータ版の一般公開、そしてユーザー数の爆発的な増加。
口だけだった若手たちも、現実と理想のギャップを完璧に掌握し、言葉だけじゃない本当の理想へベクトルを向けている。
嬉しい悲鳴と言うにはあまりにハードな日々だったが、チームの士気は最高だった。
「……ふう」
オフィスの屋上で、俺は缶コーヒーを片手に息をついた。
クーラーの効いた部屋から出たのは失敗だったかもしれない。
夏の空では、入道雲が高さを競い合っている。
「ここにいたのか」
背後から声をかけられた。西園寺さんだ。
彼は隣に来て、同じように手すりに寄りかかった。
「……見事だったよ、井伊くん」
「何がです?」
「プロジェクトの成功もそうだが……彼女のことだ」
西園寺さんは遠くのビル群を見つめながら、穏やかに微笑んだ。
「正直、私が支えないと回らないんだろうと思っていた。彼女の才能を一番理解し、活かせるのは私だと自負していたからね」
「……」
「だが、彼女が本当に必要としていたのは、完璧なパートナーじゃなかった。……隣で『適当に』笑ってくれる存在だったんだな」
西園寺さんは俺の方を向き、悪戯っぽく片目をウィンクした。
「完敗だよ。……君たちの勝ちだ」
「勝ち負けじゃないでしょう」
「ハハッ、違いないね」
俺はずっと彼をライバル視していたが、恐らく彼はずっと分かっていたのだ。
俺たちがどうなるかを、最初から見守っていたに過ぎない。
まったく、食えない人だ。
◇
その日は、多少の残業はあったものの、健康で文化的な範囲で仕事を終えることができた。
優の方はどうかな、とモニタの横から様子を伺うと、少しだけ笑みを浮かべて軽く頷いた。
オフィスの最終退出準備をしながら、口を開いたのは優だった。
「ねえ、幸太朗くん」
「ん?」
「重大なバグ報告があるんだけど」
優が真面目な顔で切り出した。
また仕事の話かと思いきや、彼女は自分の胸に手を当てた。
「最近、貴方がそばにいないと、私のシステムが正常稼働しないの。……思考ルーチンが乱れて、パフォーマンスが低下する。これ、仕様かしら?」
俺は吹き出しそうになるのを堪え、ポケットの中の小さな箱を握りしめた。
「バグといいたいところだが、仕様だろうな。もうデバッグできねえ」
「……なんで?」
「俺のほうでも同じエラーが出てるからな。お前がいないと、俺の人生もエラー吐いて強制終了しそうだ」
ふふっ、と二人で笑いをこぼした。
「だから……環境の統合を提案したいの」
優が、一歩踏み出して、俺の胸元に指を突きつけた。
その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っている。
「統合?」
「同居よ。物理的な距離をゼロにして、パケットロスの低減と接続経路の冗長性を確保するの」
「よくもまあ、いつもそんな例えができるな」
「それが私だもの。 あとは……結婚を前提とした運用テストも必要でしょ?」
「運用テストって……」
「嫌なの!?」
優が少し潤んだ瞳で、上目遣いに睨んでくる。
その勢いと、隠しきれない不安。
……こいつには、一生敵わないな。
「嫌なわけないだろ。……むしろ、俺から頼みたいくらいだ」
「!」
「システム統合の後を見据えて、一緒に一気通貫試験だな」
優の顔が、ぱあっと輝いた。
彼女は俺の胸に飛び込み、力一杯抱きついてくる。
「……うん! 覚悟してね、徹底的に最適化してあげるから!」
「お手柔らかに頼むよ」
俺たちは笑い合い、そして長い口づけを交わした。
窓から差し込む月明かりの下、二つの影が一つに重なる。
それは、二つの異なる魂が、互いを補い合いながら共に歩き出す、新しいユニットの誕生だった。
◇
数日後の週末。
俺たちは、あるカフェのテーブル席に向かい合わせに座っていた。
商店街の近くにある、落ち着いた雰囲気の店だ。
「……うん、やっぱりここがいいと思うわ」
優が広げているのは、賃貸物件の図面だ。
この数日間、優は「新居要件定義書(全100項目)」を作成し、不動産屋を震撼させていた。
耐震等級、回線速度、通勤経路の冗長性、災害時の避難ルート……。
あらゆる条件をクリアし、かつ俺の「E加減な直感(なんかここ落ち着く)」とも合致した物件が、ようやく見つかったのだ。
強いて言えば家賃が少々お高めだが、折半すれば負担はそれほどでもない。
「ああ、俺もそこがいいと思う。窓から公園が見えるしな」
「採光条件もクリアしているし、公園の騒音レベルも許容範囲内よ」
優は満足げに頷き、アイスティーを一口飲んだ。
俺はコーヒーを飲みながら、ふと店内を見渡した。
このカフェには、見覚えがあった。
優が「仕事用のハンコ」を買った帰りに、二人で寄った場所だ。
かつて、まだ付き合うなんて想像もしていなかった頃。(優はどうだったのか知らないが)
「……あ」
俺の視線の先に、一組のカップルがいた。
当時、俺たちが座っていたあの席だ。
彼らのテーブルの上には、小さな袋が置かれている。
おそらく、近くのハンコ屋で買い物をした帰りなのだろう。
女性の方が、買ってもらったハンコを嬉しそうに眺めている。
「……懐かしいわね」
優もまた、彼らを見ていた。
その瞳は、優しく細められている。
「あの時のこと、覚えてるか?」
「ええ。……私が『ユニークキーになりたい』って言った日のことでしょ?」
「そうそう。名前がコモディティすぎて嫌だ、とか文句言ってたな」
俺が茶化すと、優は少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「だって、本当のことだもの。……データベースの中で埋没するのが怖かったの。誰かの特別な一つになりたかった」
「……まあ、今はもう埋没してないけどな」
「貴方のおかげよ」
優はクスリと笑った。
そして、テーブルの上のノートを引き寄せた。
そこには、新居での家具の配置や、引越しスケジュールのシミュレーションがびっしりと書き込まれている。
「……ねえ、幸太朗くん」
「ん?」
優はペンを取り出し、ノートの隅に何かを書き始めた。
サラサラと流れるような筆致。
「あの時、貴方が言ったダジャレ……覚えてる?」
「ダジャレ? 優が勝手に勘違いしただけだろ。 俺は良いのがあるって言っただけだし」
「ええ? 私に勘違いさせたくて言ったんじゃないの? 」
「んなわけないだろ。 だとしたら、相当の策士だな」
「ふふっ」
優は、笑いをこぼしながらさらさらとノートに何かを書いて、くるりと反転させて俺に見せた。
そこには、シミュレーションの「家族一覧」のような欄が手書きで作られていた。
"井伊 幸太朗"
"井伊 優"
その文字を見て、俺は思わず吹き出した。
まだ婚姻届を出したわけじゃない。
今はまだ「同居」の段階だ。
気が早すぎるだろ、と思う一方で、その文字の並びが妙にしっくりくる自分がいた。
「どう?」
優が上目遣いに俺を見てくる。
その顔は、あの日、ハンコ屋で見せた「とろけるような顔」と同じだった。
いや、あの時よりもずっと、幸せそうな顔だ。
「……ああ。悪くない」
「でしょ? ……やっと、なれたわ」
優はノートの文字を愛おしそうに撫でた。
「貴方だけの、ユニークキーに」
俺は苦笑しつつ、彼女の手を握った。
その手は温かく、強く握り返された。
店を出て、俺たちは並んで歩き出す。
これからの道のりは、バグだらけで、トラブル続きかもしれない。
でも、隣にこの「最強のユニークキー」がいるなら、きっとなんとかなる。
俺たちの「E加減」な人生は、まだ始まったばかりだ。




