第4話:ロジック・ハラスメント
親会社『グランツ』のエース、佐藤優が着任して一週間。
子会社『グラテク』のオフィスは、完全に死んでいた。
所属する2課だけでなく、直接関係するわけではない1課や3課にまでその影響は及んでいるように感じられる。
「……はぁ」
フロアのあちこちから、深いため息が聞こえる。
原因は明確だ。
すっかり定位置となったオフィス中央右側エリアに鎮座する「氷の女帝」の存在である。
「この現行踏襲コード、なぜこんなにネストが深いんですか? 可読性が低すぎます。解析不能です」
「要件定義書の文言が統一されていません。美しくないです」
「課題の要因分析が甘いです。『頑張ります』は対策ではありません。具体的な数値と期限を提示してください」
正論、正論、ド正論。
佐藤の指摘は常に正しい。ぐうの音も出ないほど論理的で、完璧だ。
その鋭利な言葉の刃は、ぬるま湯に浸かりきっていた子会社社員たちのメンタルを、ザクザクと切り裂いていた。
特に凄惨だったのは、経理部の大御所、坪井さんとのバトルだ。
「この経費精算システムのUI、酷いですね」
佐藤が言い放った一言で、戦いの火蓋は切って落とされた。
「ボタンの配置が直感的にわからないし、動線が悪すぎます。 申請完了までに5回もクリックさせるなんて、ユーザーへの嫌がらせですか?」
「なっ……! これは私が15年前から使っている、由緒正しいシステムなのっ!」
「15年前? もはや化石ですね。こんなシステムを使っているから、超勤が嵩むんじゃないですか? だいたい、この背景色のセンス……目に毒です」
「キ、キーッ!!」
お局様は顔を真っ赤にして泡を吹き、その場で卒倒しかけた。
経理部の若手が慌てて「坪井さん! しっかり!」と介抱に入る。
佐藤は不思議そうに小首を傾げ、「事実を指摘しただけなのに……」と呟いていた。
もはや災害だ。
『……井伊さん。もう無理です……』
チャットツールに小林からの悲痛なDMが届く。
俺は自席でコーヒー(もちろん紙コップの安いやつだ)を啜りながら、ため息交じりに返信を打った。
『どうした?』
『佐藤チーフに現状分析資料をレビューしてもらったんですが、ボロクソに言われて……。「この分析は小学生の作文ですか?」って』
『……ああ、それはキツいな』
『もう資料作るのが怖いです。胃が痛いです』
チラリと視線を向けると、斜め向かいの席で小林が突っ伏している。
その奥で、佐藤は涼しい顔でキーボードを叩いている。
彼女に悪気はない。
ただ純粋に「より良い成果物」を求めているだけだ。
だが、その純粋さが狂気だということに、彼女自身は気づいていない。
……このままじゃ、プロジェクトが崩壊するな。
俺は「E加減」に生きたい。
自分だけ平穏ならそれでいい、というのが本音だ。
だが、チームが崩壊すれば、そのしわ寄せは巡り巡って俺に来る。
同僚が潰れれば、その分のタスクが俺に振られる。
つまり、俺の平穏を守るためには、この状況を何とかしなければならない。
……やるか。
俺は残りのコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
◇
「佐藤チーフ。ちょっといいですか」
「はい。何でしょう?」
佐藤が顔を上げる。
俺と目が合った瞬間、彼女の表情がパッと明るくなった気がした。
いや、気のせいじゃない。
瞳がキラキラしているし、尻尾があったら千切れんばかりに振っているに違いない。
「お仕事の話ですか? それとも、プライベートですか?」
「仕事です。あとE.U.はやめろ」
「ちぇっ」
「……ここじゃアレなんで、ちょっと会議室へ」
俺が手招きすると、アイツは「密室!?」と色めき立ちながら、スキップせんばかりの足取りでついてきた。
おい、キャラ作りはどうした。氷の女帝設定を忘れてるぞ。
会議室に入り、ドアを閉めた瞬間。
アイツが俺との距離を詰めてきた。近い。
「どうしたの、幸太朗くん。二人きりになりたいなんて、大胆ね」
「違います。説教しに来たんです」
「説教? 愛の?」
「業務の」
俺は窓際に寄りかかり、腕を組んだ。
「あのさ、佐藤さん……いや、お前さ。ちょっと厳しすぎないか?」
「厳しい? 私が?」
佐藤がきょとんとする。
自覚がない。これが一番厄介だ。
「お前の言ってることは正しいよ。現状分析も指摘通り直せば良くなる。それは認める」
「でしょう? なら、何が問題なの?」
「伝え方だよ、伝え方。『小学生の作文』とか『ゴミ』とか、人格否定レベルの言葉を使うな」
「事実を言っただけよ」
「それがダメなんだよ」
俺は頭を抱えた。
天才ゆえの弊害。
彼女には、できない人の「感情」が理解できないのだ。
「いいか。仕事っていうのは、プログラムじゃないんだ。人間がやってるんだ」
「人間……不安定の塊ね」
「そうだよ。だからこそ、モチベーション管理が必要なんだ。お前の正論は、彼らのやる気を削いでる。やる気がなくなれば、生産性が落ちる。結果的に、お前の求めている『効率化』から遠ざかるんだぞ」
「……」
佐藤が目を見開く。
その理屈は通じたらしい。
「生産性が、落ちる……?」
「そうだ。彼らのプライドも、必要なコストの一部なんだよ。それを無駄に傷つけるのは、リソースの浪費だ。非効率だ」
「……!」
佐藤の顔色が青ざめる。
「非効率」という言葉は、彼女にとって最大の侮辱であり、恐怖らしい。
「そ、そうだったの……私、なんて無駄なことを……」
「分かったら、もう少し手加減しろ。60点でいいところを100点求めなくていい。言葉も選べ」
「で、でも、どう言えばいいの? 『ゴミ』を『リサイクル資源』って言えばいい?」
「やめろ、余計に皮肉になる」
俺はため息をつき、ホワイトボードに文字を書いた。
『翻訳マニュアル』だ。
「これを見ろ。『ゴミです』じゃなくて、『惜しいですね。ここを直せばもっと良くなります』と言え」
「……『惜しい』?」
「『小学生の作文』じゃなくて、『ユニークな視点ですね。でも、基本に忠実に行きましょう』と言え」
「……なるほど。婉曲表現ということね」
佐藤が真剣な顔でメモを取る。
本当に、マジメで全力なんだなコイツ。
「あなたの言い分はわかった。でも、これじゃファクトが伝わらないわ。非効率よ」
佐藤が珍しく口ごもる。彼女なりの正義が邪魔をしているらしい。
「頼むよ。俺の平穏に響くからな(……あと、お前が悪者になるのも気分悪いし)」
「っ……!」
後半のボソッとした独り言が聞こえたのか、佐藤はカッと頬を染めた。
「……ず、ずるいわよ、幸太朗くん。……貴方がそこまで言うなら、試してみる。特例でデバッグ実行よ」
「頼むよ。俺の平穏に響くからな」
「ふふ。貴方の平穏を守るためなら、私、なんでもするわ」
アイツが嬉しそうに微笑む。
その笑顔は、かつての高校時代に見せた、無邪気な少女のものと同じだった。
一瞬、ドキッとしてしまった自分を、俺は全力で殴りたくなった。
◇
会議室から戻った佐藤は、早速「デバッグ実行」を開始した。
「……ええと、小林さん。さっきの資料ですが」
ビクッ!と怯える小林。
佐藤は手元のメモをチラ見しながら、ぎこちない笑顔を作った。
「と、とても……ユニークな観点ですね。独創的で、驚きました」
「えっ? あ、はい……?」
「でも、そうですね……基本に忠実に行った方が、貴方の才能がより活きると思います。……修正していただけますか?」
「は、はいっ! 喜んで!!」
若手社員の顔に生気が戻った。
単純だなあ、と思うが、効果は抜群だ。
……まあ、とりあえずはこれでいいか。
俺は小さく親指を立てて返した。
それを見た佐藤は、パァァァッと――まるで世界に色がついたかのような、極上の笑顔を咲かせた。
……ように、俺には見えた。
だが、周囲の反応は違ったようだ。
「……おい、見たか今の」
「ああ。あの女帝が、井伊さんの合図で不敵に笑ったぞ」
「やっぱり、あの二人はデキてるんだ」
「井伊さんが『猛獣使い』ってことか……」
その評価が決定的になったのは、営業部との定例ミーティングでの出来事だ。
「どうしても、この機能追加をお願いしたいんです! クライアントの課長が『どうしても欲しい』と言っていて!」
営業部のエースが、汗だくになりながら訴える。
だが、佐藤は冷ややかに切り捨てた。
「非合理的です。その機能は、リプレイスの本来の目的から外れています。納期を遅らせてまで実装する価値が見当たりません」
「そ、そこを何とか! 今後の付き合いもあるんで!」
「感情論で仕様を追加しないでください。認められません」
ピシャリ。
取りつく島もない。営業エースの顔が絶望に染まる。
会議室の空気が凍りついた、その時だ。
俺は小さく手を挙げ、「あのー」と口を挟んだ。
「佐藤チーフが言いたいのは、『今回のリリースには含められないけど、次回のアップデート検討リスト(フェーズ2)には入れられる』ってことですよね?」
「え?」
佐藤が俺を見る。
俺は右の眉だけ動かし、念を送った。『そうだろ? 合わせろ』
佐藤は一瞬きょとんとしたが、すぐにその意図を察したらしい。
「あ……え、ええ。そうです。フェーズ2での検討なら……やぶさかではありません」
「おおっ! 本当ですか!?」
営業エースの顔がパァっと輝く。
「検討してくれるんですね! いやあ助かります、佐藤チーフ! さすが話が分かる!」
「……い、いえ。……んんっ」
佐藤が少し照れくさそうに咳払いをする。
俺は机の下で、こっそりとVサインを送った。
こうして、場は丸く収まった。
営業部はニコニコで帰っていき、佐藤も「さすが幸太朗くんね」と満足げだ。
――俺の胃壁が削れたことを除けば、全てハッピーエンドだ。
ヒソヒソという噂話が、俺の耳に届く。
違う。猛獣使いじゃない。
俺はただの、通訳者だ。
だが、この一件を境に、社内の俺の評価は「窓際社員」から「女帝の制御装置」へと、不本意な昇格を遂げることになったのである。
……やれやれ。ま、定時で帰れるなら何でもいいか。
俺は会議終了と同時に伸びをして、明日からの平穏を願いつつ定時退社の準備を始めた。




