第39話:約束
翌、日曜日。
午後一時を回った頃、俺は例の高級住宅街に立っていた。
見上げれば首が痛くなるような高層マンション。そのエントランス前で、俺はコンビニのレジ袋を提げたまま立ち尽くしていた。
通り雨で湿度100%の空気がやけに重苦しい。
――100点、か。
昨夜の自分の行動を思い返す。
『E加減』を信条とし、60点で合格ラインを越えればいいと嘯いてきた俺が、まさか他人のコードのために徹夜をして、完璧な完成度(100点)を目指すとは。
自分でも笑ってしまうような矛盾だ。
だが、後悔はなかった。
あんなコードを見せられては、エンジニアとしての魂が――いや、男としての意地が黙ってはいられなかったのだ。
俺は深く息を吸い込み、オートロックの操作盤に向かった。
部屋番号を押す指が、少しだけ震える。
呼び出し音が数回鳴り、スピーカーから声が聞こえた。
『……はい』
「俺だ。下にいる。開けてくれ」
一瞬の沈黙。
マイク越しでも、彼女が息を呑んだのが分かった。
『……どうして』
「見舞いだよ。あと、昨日のバグ報告も兼ねてな」
『……』
電子音が鳴り、重厚なガラス扉がゆっくりと左右に開いた。
俺はエントランスをくぐり、エレベーターホールへと向かう。
大理石の床に、スニーカーの足音が場違いに響いた。
エレベーターで高層階へ昇っていく間、俺は鏡に映る自分の顔を見た。
目の下のクマは酷いし、髪も少し寝癖がついている。
これからしようとしている話に、あまりにも相応しくない風体だ。
だが、着飾って誤魔化すのは性分じゃない。
ありのままの俺で、ぶつかるしかない。
チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「……どうぞ」
出迎えた優は、いつもの鎧のようなスーツではなく、柔らかな素材のルームウェアを纏っていた。
髪も無造作に下ろされ、化粧っ気もない。
昨夜オフィスで見せた鬼気迫る表情は消え、憑き物が落ちたように穏やかな顔つきだった。ただ、その瞳にはどこか諦めのような色が漂っている。
「……お邪魔します」
通されたリビングは、広すぎて落ち着かなかった。
モデルルームのように洗練された家具が配置されているが、そこで人が生活している匂いがしない。
孤独な場所だと思った。
彼女はここで一人、あの完璧な自分を作り上げ、維持してきたのだ。
「適当に座って」
「ああ」
俺たちはローテーブルを挟んで、ソファと床に分かれて座った。
俺は買ってきたコンビニ袋をテーブルに置いた。
「とりあえず、これ。ゼリーとか、スポーツドリンクとか。消化に良さそうなもん」
「……ありがとう。気が利くのね」
「伊達に一人暮らし長いわけじゃないからな」
優は袋の中身を覗き込み、小さく微笑んだ。
それから、ハーブティーの入ったカップを手に取り、静かに口を開いた。
「……西園寺さんから聞いたわ。デモ、完璧だったそうね」
「まあな」
「投資家たちの反応も上々。追加出資も確実だとか」
「そりゃよかった。俺も徹夜した甲斐があったもんだ」
俺がわざと軽く言うと、優はカップを置いて、真っ直ぐに俺を見た。
「嘘つき」
その声は震えていた。
「ログを見れば分かるわよ。……あの機能、私が書いたコードは半分以上使い物にならなかったはずだわ。複雑すぎて、バグだらけで、自分でも収拾がつかなくなっていた」
「……」
「それを、一晩でリファクタリングして、私の意図した通りのロジックに書き換えるなんて……そんなことできる人間、世界に貴方しかいない」
優は悔しそうに、けれどどこか嬉しそうに言った。
「貴方の『60点』は、いつも私を救うわね。……どんなに私が空回りしても、貴方が最後は帳尻を合わせてくれる。……昔から、ずっとそう」
「今回は違う」
俺は優の言葉を遮った。
「今回は、60点じゃない。100点だ」
「え?」
「お前が命削って目指した100点を……お前が見たかった景色を、俺が勝手に完成させたんだ」
俺は優の目を見据えた。
「お前のコード、読んだよ。……正直、酷いもんだった」
「……うっ」
「独りよがりで、頑固で、誰にも理解させる気がない。……でもな、凄かったよ。お前が何を実現しようとしていたか、痛いほど伝わってきた」
あのスパゲッティコードの奥底には、優の執念が埋まっていた。
完璧なプロダクトを作りたい。
期待に応えたい。
誰にも弱みを見せたくない。
そんな彼女の叫びが、行間から聞こえてくるようだった。
「60点で妥協して、適当に動くハリボテを作ることもできた。……でも、それは出来なかった」
「どうして……?」
「お前の努力を、なかったことにしたくなかったからだ」
俺は自分の膝の上で拳を握った。
「お前があんなになるまで頑張ったんだ。……その結果が『60点』で終わるなんて、俺が許せなかった」
優が息を呑む。
俺は大きく息を吐き出し、胸の奥につっかえていた黒い塊を吐き出す覚悟を決めた。
「……優。謝らなきゃいけないことがある」
優の身体が強張る。
「過去のことだ。高校時代の、あの言葉」
「……いいの」
「よくない」
「いいのよ!」
優が強い口調で遮った。
「……忘れてて当然だわ。あんなの、ただの偶然の言葉だもの。私が勝手に縋って、勝手に神格化して、勝手に期待していただけ。……貴方は何も悪くない」
「優」
「だから、もういいの。……今回のことで分かったわ。私は一人でも立てるようにならなきゃいけない。貴方の『E加減』に甘えてちゃダメなのよ。……だから」
優は無理やり笑った。
泣き出しそうな顔で、懸命に強がって見せた。
その笑顔が、俺の心臓を雑巾のように絞り上げた。
ああ、そうだ。
こいつはこういう奴だった。
いつだって一人で背負い込んで、誰にも頼れなくて、勝手に完結してしまう。
そんな不器用な生き方しかできない奴なんだ。
だから――放っておけるわけがない。
「……過去の俺がどう言ったか知らないが」
俺は立ち上がり、ローテーブルを回り込んで、優の隣に座った。
優が驚いて身を引こうとするが、逃がさない。
「今の俺には、優が必要だ」
「……え?」
「過去ログなんてどうでもいい。……現在を見てくれよ」
俺は優の手を取った。
冷たくて、細い指先。それが今は、俺の手の中で微かに震えている。
「俺は、お前の作るシステムが好きだ。お前の目指す未来が見たい。……そして何より、お前という人間をどうしようもなく愛しく思ってる」
「幸太朗くん……」
「お前が一人で立てるようにならなきゃいけない? ふざけんな。そんな完璧超人、俺は願い下げだ」
俺は苦笑交じりに言った。
「俺には優が必要だし、お前には俺の『E加減』が必要だろ? ……バグだらけの両輪でいいじゃないか。二人で回せば、なんとかなる」
優の瞳から、大粒の涙が溢れた。
彼女はもう、強がることをやめていた。
ボロボロと涙を流し、子供のように顔を歪める。
「……いいの? 私、面倒臭いわよ? コードレビューもうるさいし、束縛もするし、可愛げなんてないわよ?」
「知ってるよ。今さらだろ」
「……うぅ……」
優が俺の胸に飛び込んできた。
俺は彼女を抱きしめた。
華奢な肩。甘い髪の匂い。そして、鼓動の音。
すべてが愛おしかった。
腕の中の温もりを感じながら、俺は最後のトドメを刺すことにした。
ここで言わなきゃ、男が廃る。
「優、あのさ」
「……ん……?」
涙目のまま見上げてくる彼女に、俺は最大限の真剣な表情を向けた。
「上司だけじゃなく、恋人として隣にいて欲しい。 それと……恋人関係になるなら、結婚を前提に考えてほしいんだけど、いいかな」
優の動きがピタリと止まった。
時が止まったかのような静寂。
やがて、彼女の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。耳まで、首筋まで、真っ赤になっていく。
「……え、あ、そ……ええっ!?」
「返事は?」
「……ず、ずるい……」
優は再び俺の胸に顔を埋めた。
そして、今まで聞いたこともないような、とろけるような声で呟いた。
「……喜んで」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが満たされた。
過去の亡霊は消え去った。
ここにあるのは、確かな体温と、共に歩む未来への約束だけだ。
俺は優を強く抱きしめ直した。
雨を降らせていた雲の切れ間から、俺たちを祝福するように光が差し込んでいた。




