第38話:100点
オフィスは、極寒の冬を迎えていた。
外の季節の話ではない。室内の、それも開発フロアの空気の話だ。
「……あの、井伊さん。CTOと何があったんですか?」
玲愛が涙目になりながら、小声で訊いてくる。
無理もない。
あの日以来、優は俺を完全に無視していた。
業務上必要な会話ですら、チャットツールのみ。それも必要最低限の定型文だ。
その代わり、彼女は仕事に没頭した。
鬼気迫る様子でコードを書き続け、誰も寄せ付けない。
来週に控えた投資家向けの中間報告デモ。
そのコアモジュールを、彼女は「私のコードは、私にしか触らせない」と言って、一人で抱え込んでいた。
「……ああ、ちょっとな」
俺は曖昧に答えるしかなかった。
どうすればよかったのか、今でも分からない。
過去の記憶なんて、俺にとっては曖昧なものだ。それを責められても困る。
だが、優にとってそれが「すべて」だったというなら――俺は、彼女の土台を壊してしまったことになる。
◇
限界は、唐突に訪れた。
デモを翌日に控えた、22時ごろ。
「……ッ」
静まり返ったオフィスに、何かが倒れる音が響いた。
ハッとして顔を上げると、優がデスクに突っ伏していた。
「優!」
「佐藤さん!」
俺よりも早く、西園寺さんが駆け寄った。
優の顔色は紙のように白く、呼吸が浅い。
完全に、過労と心労によるダウンだ。ここにいる全員が、そうなることを予感していたのに、止められなかった。
「……救急車を呼ぶ。いや、私がタクシーで運んだほうが早いか」
「俺も行きます!」
「いや、君たちは残ってくれ」
立ち上がろうとした俺を、西園寺さんが手で制した。
「明日はデモだ。……ここまでして作ったシステムを、止めるわけにはいかないだろう」
「……っ」
「後のことは私が何とかする。……頼んだよ」
西園寺さんは優を抱きかかえ、オフィスを出て行った。
俺は立ち尽くすことしかできなかった。
遠ざかる背中を見送りながら、拳を握りしめる。
俺が行くべきだった。
でも、今の俺にその資格があるのか? 彼女をここまで追い詰めたのは、俺なのに。
「……井伊さん、大変です!」
感傷に浸る間すら与えてくれないのが、現場というものだ。
玲愛の悲鳴に近い声が響いた。
「デ、デモ環境で……Exceptionが頻発してます! と、止まりません……!」
「なんだと?」
画面を見ると、ログが赤色で埋め尽くされていた。
原因は、優が直前までいじっていたコアモジュールだ。
独自のアルゴリズムでチューニングされたそれは、複雑怪奇すぎて誰も中身を理解していない。
西園寺さんがいない今、これを直せる人間は――いない。
「お、おい誰か読める奴いないのかよ!」
「無理です! コメントすらないし、変数の意味も分かりません!」
「CTOしか触ってなかった領域だぞ……どうすりゃいいんだ!」
現場はパニックに陥った。
玲愛が泣きそうな顔で俺を見る。
「井伊さん……! ど、どうしますか……この機能を無効化して、ダミーデータで動かしますか? そ、それならなんとか……」
60点の対応。
普段の俺なら、迷わずそう指示していただろう。
投資家に見せるだけなら、動いているように見えればいい。リスクを冒してまで直す必要はない。
――お前は前だけ見て進め。後ろは俺が全部処理してやる。
不意に、優が語っていた「あの言葉」が脳裏をよぎった。
俺はそんなこと言った覚えはない。
だが、彼女はずっとその言葉を信じて、前だけを見て走ってきたのだ。
そして今、彼女が倒れた後ろには、このコードが残されている。
「……井伊さん?」
俺はエナジードリンクのプルタブを開けた。
プシュッ、という音が静寂を切り裂く。
「……あいつが、命削って書いたコードだ」
俺はキーボードに手を置いた。
画面に映る、複雑で、独創的で、そしてどこか孤独なコードの羅列。
それを誰よりも理解できるのは――世界で俺しかいない。
「60点に落とすなんて、できるかよ」
俺はニヤリと笑った。
「玲愛、お前はもう帰れ。泊まり仕事はまだ早い。他の連中は俺の指示通りにテスト環境を回せ」
「えっ、で、でも直せるんですか!? これ……」
「直すんじゃない。……完成させるんだよ」
俺は打ち込み始めた。
思考が加速する。
優が何を考え、どこを目指し、何につまずいたのか。
コードを通じて、彼女の思考が流れ込んでくるようだ。
分かる。手に取るように分かるぞ、ポンコツ女帝。お前、ここでこうしようとしたんだろ?
「……めんどくせえ実装しやがって。……愛してるぜ、全く」
独り言と共に、俺はエンターキーを叩き込んだ。
翌朝。
投資家へのデモは、これ以上ないほど完璧に成功した。
システムは一度の瞬断もなく稼働し、そのパフォーマンスは参加者たちをどよめかせた。
『優は点滴を受けて、自宅に戻った。安静にしていれば大丈夫だそうだ』
西園寺さんからのSlackを見て、俺は大きく息を吐いた。
徹夜明けの身体は鉛のように重いが、頭は妙に冴えていた。
「すごかったです……」
「ああ。……あとは頼んだ」
俺はジャケットを掴んで立ち上がった。
行くべき場所は一つしかない。
「え、帰るんですか? 定時まではまだ……」
「馬鹿野郎。これより重要な仕事なんて、この世にあるか」
俺はオフィスを飛び出した。
じんわりと湿ったはずの空気が、妙に清々しく感じた。




