第37話:亀裂
Glanz Nextの船出から1ヶ月半。
なんとか検証用プロダクトのリリースを終えた我々は、ささやかな打ち上げを行うことになった。
「かんぱーい!」
渋谷の喧騒から少し離れた、静かな個室居酒屋。
幹事の玲愛が元気よく音頭を取り、グラスがぶつかり合う音が響く。
メンバーは俺、優、西園寺さん、玲愛、そして数名の若手社員たちだ。
「いやあ、今回のリリースは痺れましたねえ」
「特に検索機能の爆速実装! あれは井伊さんの『手抜き力』の賜物ですよ!」
お酒が回り始めた玲愛が、俺の肩をバンバンと叩く。
こいつも最初は緊張していたが、慣れてくればこの通りだ。
「おい、手抜き言うな。効率化だ」
「えー、でもコメントに『//動くからヨシ!』って書いてあるの見たんですからねー」
わっと笑いが起きる。
西園寺さんもその様子を微笑ましそうに見ている。
そして、俺の隣には優がいた。
彼女にしては珍しく、少しペースが早いようだ。白い頬がほんのりと桜色に染まっている。
「……よかったな、無事に終わって」
俺が声をかけると、優はとろんとした目で俺を見た。
「……ん。貴方のおかげよ」
「俺は適当にやっただけだろ」
「その『E加減』に救われたの。……昔から、ずっと」
その言葉に、玲愛が食いついた。
「あっ、そういえば! 井伊さんと佐藤CTOって、高校の同級生なんですよね?」
「ええ、そうよ」
「へえ〜! すごい偶然ですね! 高校時代のCTOってどんな感じだったんですか? やっぱり天才?」
若手たちが興味津々といった様子で身を乗り出す。
優は少し恥ずかしそうに俯いたが、やがてぽつりと語り始めた。
「……私は、今と変わらず可愛げのない生徒だったわ。周囲の期待に応えることだけで精一杯で、常にプレッシャーに押し潰されそうになっていた」
静かになった店内に、優の声だけが響く。
「高2の時、生徒会選挙に出るよう周囲から強いられたの。『お前ならできる』『期待している』って。でも、私は怖かった。……断れば失望される。受ければ失敗できない。八方塞がりだったわ」
そんなこと、初耳だった。
当時の優は、誰が見ても完璧超人で、悩みなんてないように見えたからだ。
「そんな時、幸……井伊さんが言ってくれたの」
優が俺の方を向く。
その瞳は、熱っぽいような、崇拝するような光を帯びていた。
「『お前は前だけ見て進め。後ろ(雑音)は俺が全部処理してやる』って」
周囲から「おおーっ!」という歓声が上がる。
玲愛が目を輝かせて拍手した。
「かっこいい……! さすが井伊さん! 名言ですね!」
「それが、私の人生のコンパスになったの。……この言葉があったから、私はここまで来れた。どんな孤独にも耐えられたのよ」
優は愛おしそうに俺を見つめている。
まるで、宝物を自慢する子供のように。
……しかし。
俺は冷や汗を流していた。
脳内の検索エンジンをフル稼働させていたが、該当するレコードが見当たらないのだ。
「……え、っと」
「幸太朗くん?」
優の笑顔が、少しだけ曇る。
俺は誤魔化そうか迷った。
だが、こんな真剣な眼差しの前で、嘘をつくことはできなかったというか、お酒のせいで口が滑ったというか。
「……悪い。そんなかっこいいこと、言ったっけ?」
「えっ」
優が凍りついた。
周囲の空気も一瞬で張り詰める。
「いや、ほら……高2の秋だろ? 俺、テキトーにやってたつもりの文化祭に追われてた記憶しかないんだよな。……多分、なんか漫画のセリフか何かを適当に言っただけじゃないか?」
俺は照れ隠しもあって、ヘラヘラと笑ってしまった。
その場の空気を軽くしようとしたのだ。
だが、それは最悪の選択だった。
「…………そう」
優の声が、絶対零度まで冷え込んだ。
さっきまでの桜色は消え失せ、土気色のような蒼白さが広がっていく。
「貴方にとっては、その程度の……発言だったのね」
彼女が大切にしていた宝石が、ただの石ころだったと突きつけられたような。
そんな絶望が、彼女の瞳に浮かんでいた。
「優、いや、今の……」
「……気分が悪いわ。帰る」
優はガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。
俺を見ることもなく、足早に個室を出て行く。
「あ、佐藤さん! ……すまん、君たちは続けてくれ」
西園寺さんが慌てて後を追って出て行った。
残されたのは、俺と、凍りついた空気。
玲愛がオロオロとした顔で俺を見ている。
「井伊さん……今の、まずかったんじゃ……」
「……ああ、みたいだな」
俺はジョッキに残った温いビールを煽った。
苦い味がした。
なんだよ、あいつ。急に機嫌悪くして。
過去のことなんて、いちいち覚えてられるかよ。
心の中でそう悪態をつきながらも。
胸の奥に、取り返しのつかない冷たい何かが広がっていくのを、俺は感じていた。




