第33話:新天地
4月1日。
世間的にはエイプリルフールだが、社会人にとっては新年度の始まりであり、嘘であってほしい現実が動き出す日でもある。
俺、井伊幸太朗は、社会人5年目を迎えたこの日、渋谷のスクランブル交差点に立っていた。
グラテクに入社して4年。
のらりくらりと「省エネ」を貫いてきた俺だが、今日からは職場が変わる。
辞令が出たのは、わずか2週間前のことだ。
優がグラテクを去ってまもなく、俺の元に親会社からの出向命令が届いた。
行き先は「Glanz Next」。
親会社グランツが出資して設立したばかりの、スタートアップ企業だ。
「……まじでキラキラしてんなあ」
目的地のシェアオフィスが入るビルを見上げ、俺は溜め息をついた。
全面ガラス張りのクリエイティブな外観。
一階にはサードウェーブなコーヒーショップ。
ロビーを行き交う人々は皆、MacBookを小脇に抱え、何か世界を変えそうな顔をしている。
俺のような「定時で帰りたい」だけの社畜が足を踏み入れていい場所じゃない。
どう考えても場違いだ。
だが、ここには「彼女」がいる。
それだけの理由で、俺はこの地獄への片道切符を受け取ったのだ。
エレベーターで最上階へ。
「Glanz Next」のオフィスは、シェアオフィスの一角にあった。
セキュリティゲートをパスカードで通過し、指定されたエリアへ向かう。
「失礼します……今日から出向して参りました、井伊です」
恐る恐るガラスの扉を開ける。
中は広々としていて、壁一面のホワイトボード、バランスボール、そして高級そうなエスプレッソマシンが鎮座していた。
そして、部屋の中央にある大きなデスクに、二人の男女が待っていた。
「やあ、待っていたよ。ようこそ、Glanz Nextへ」
爽やかな笑顔で迎えてくれたのは、西園寺さんだ。
相変わらずのイケメンぶりだが、スーツではなくオフィスカジュアルなジャケットを着崩している。
その姿は、いかにも「できるITベンチャーのCEO」といった風情だ。
そして、その隣。
腕を組み、不機嫌そうに俺を睨みつけている女性。
「……遅い」
佐藤優。
かつての俺の上司であり、俺が追いかけてきた理由。
彼女もまた、ラフなブラウスにパンツスタイルという、少し砕けた服装をしていた。
だが、その眼光の鋭さは相変わらず……いや、以前よりも増している気がする。
「遅いって、定時より10分前には……」
「そうじゃないわ。……二週間も、随分と待たされた気分だわ」
優はフンと鼻を鳴らし、視線を逸らした。
その耳が少し赤くなっているのを見て、俺は頬が緩むのを必死で堪えた。
たった2週間会わなかっただけだ。
だが、俺にとっても、それは本当に長く感じた期間だった。
「……とりあえず、感動の再会はそこまでにしておこうか」
西園寺さんがパンと手を叩いた。
その目が、スッと鋭くなる。
優も表情を引き締め、ビジネスモードに切り替わった。
「井伊くん。君をここに呼んだ理由は、以前話した通りだ。……私の『貸し』を返してもらうためだよ」
「はあ。……具体的には、何をすれば?」
「君を買ったんだ」
西園寺さんは不敵に笑った。
「この会社で、私が直接指名したのは君と佐藤チーフだけだ。他のメンバーは公募で集まった」
「……え、俺なんかをですか?」
「君には、相手や環境に合わせて最適に動く性質がある。これは、責めてるんじゃない。 才能だ。 厳しい環境に置けば、そこで生き残るために成果を出すだろう? 私はその『生存本能』を買ったんだよ」
西園寺さんがホワイトボードを指差した。
そこには、難解なシステム構成図と、無謀なスケジュールが書かれていた。
「我々のミッションは、不動産テック領域における革命的なプラットフォームの構築だ。……だが、悠長に開発している時間はない。来週、大手デベロッパーとの商談と、ベンチャーキャピタル向けのピッチイベントがある」
「来週、ですか?」
「そうだ。そこで実機デモを見せ、シリーズAの資金調達を確定させたい。……つまり」
西園寺さんは、極上の笑顔で死刑宣告を告げた。
「一週間以内に、市場に出せるレベルの|実用最小限の製品《Minimum Viable Product》を完成させてくれ」
俺は絶句した。
一週間? MVP?
仕様は? 要件定義は? インフラは?
全てが白紙の状態から、たった一週間で動くものを作れというのか?
「ちょ、ちょっと待ってください! メンバーは? 俺一人ってことはないですよね?」
「ああ、もちろんいるわよ」
優が部屋の隅を見遣った。
そこには、Macに向かって何やら熱心に議論している3人の若者がいた。
「社内公募で集まった精鋭たちよ。……ただし」
「ただし?」
「『世界を変えたい』という意識は高いけれど、コードは一行も書けないわ。今のところ、彼らの成果物は『革命的なアイデア』と書かれたポストイットの山だけよ」
優が冷ややかな視線を送る。
若者たちは「イノベーションが……」「UXが……」と横文字を並べているが、画面には何も実装されていない。
「つまり……実装リソースは?」
「実質、貴方だけね」
「……」
俺は天井を見上げた。
綺麗なオフィス。
最新の設備。
優秀な上司たち。
そして、絶望的なリソース不足。
「……あの、帰っていいっすか?」
「ダメに決まってるでしょ」
「そか、エイプリルフールだし、実は冗だ……」
「そんなわけないでしょう。行くわよ」
優が俺の襟首を掴み、空いているデスクへと引きずっていく。
その顔は、楽しそうに笑っていた。
「さあ、始めましょうか幸太朗くん。……ここからが、本当の『地獄』よ」
俺は観念して、支給されたMacBook Proの電源を入れた。
わあ、新しくて綺麗な端末だ。嬉しいな、ははは。
新天地「Glanz Next」。
あるいは、地獄の二丁目。
理不尽で、無謀で、でも退屈とは程遠い、このヒリつくような焦燥感。
俺の「E加減」な戦いが、再び幕を開けた。




