第32話:退屈
3月中旬。
優がグラテクを去ってから、2週間が経過した。
俺の日常は、劇的に改善した。
無理難題な仕様変更を押し付けられることもない。
深夜に叩き起こされて呼び出されることもない。
分刻みのスケジュール管理や、数千行のコードレビューに追われることもない。
俺は元の「社畜」に戻った。
定時で帰り、コンビニ弁当を買って、家でゲームをして、泥のように眠る。
給料は相変わらず安く、評価も「そこそこ」。
だが、誰にも邪魔されない、平穏で完璧な生活。
ああ、最高だ。
これが俺の求めていた「E加減」な人生だ。
――だというのに。
「……つまんねえ」
日曜日の昼下がり。
俺はクリアしたばかりのゲームのエンディングロールを眺めながら、独りごちた。
画面の中で勇者が魔王を倒し、世界に平和が訪れている。
感動的なはずのフィナーレが、今の俺には酷く色褪せて見えた。
退屈だ。
死ぬほど退屈だ。
以前の俺なら、この退屈を愛していただろう。
だが、一度知ってしまったのだ。
あの理不尽で、強引で、でも最高に刺激的な「嵐」の日々を。
隣にはいつも、氷のように冷たく、炎のように熱い彼女がいた。
彼女が繰り出す無理難題は、このクソゲーよりも遥かに難易度が高く、そして攻略しがいがあった。
彼女の笑顔を見るためなら、残業も悪くないと思えた。
『貴方のその『平和』……いつまで続くかしらね?』
最後の夜、彼女が残した言葉がリフレインする。
……分かってるよ。
お前は知ってたんだろ。俺がこうなることを。
平和という名の退屈に耐えられなくなって、自ら地獄に飛び込みたくなることを。
優がグラテクを去る、ちょうどその日にくれた高そうな万年筆に目をやる。
艶やかな黒い樹脂。キャップを開ければ、金色のペン先が早く自分を使えと催促しているようにも見える。
「……悔しいけど、完敗だな」
俺は認めるしかなかった。これほどまでに完敗を認めたのは、高校のとき以来だろうか。
俺はもう、平穏な日常には戻れない。
コスパ至上主義? 省エネ?
知るかよ。
――その時。
スマホが震えた。
上司の課長からだ。休日に電話なんて珍しい。
『あー、井伊くん、休み中に悪いね』
「……はい、何でしょう」
『実はな、急な話なんだが……四月から、また出向の話が来てるんだよ』
俺は口角が吊り上がるのを止められなかった。
来た。
『今回は親会社じゃないんだ。新たに出資してできるベンチャー企業でね。待遇はちょっと上がるらしいけど、かなり忙しいらしいし、断ってくれても……』
「わかりました。行きます」
俺は食い気味に答えた。
『え? い、いいのか? かなり激務らしいぞ? それに、上司になる人がかなり厳しい人らしくて……』
「構いませんよ。……俺、激務には慣れっこなんで」
上司は呆気に取られていたが、トントン拍子で話は進んだ。
電話を切った俺は、万年筆を紙に滑らせた。
新しい戦場。
ほぼ間違いなく、優と西園寺さんのところが出資してできる新会社だろう。
そこがどんな地獄なのかは分からない。
だが、彼女とともに歩むためなら、行く理由は十分だ。
「待ってろよ、優」
俺は窓を開けた。
春の匂いを含んだ風が、部屋の澱んだ空気を吹き飛ばしていく。
「今度は俺が、お前を『攻略』してやる」
俺の物語は、まだ終わらない。
ここからが、本当のスタートだ。




