第30話:完遂
「……事情は分かった」
スマホの向こうで、西園寺さんの声は驚くほど冷静だった。
深夜3時に叩き起こされた不機嫌さは嘘のように消え、既に「仕事モード」の鋭さを帯びている。
『常務たちがそこにいるんだな? ……まったく、老害どもが』
「どうにかできませんか。このままだと優が潰れます。プロジェクトも共倒れです」
『君に頼られるとは光栄だな、井伊くん。……いいだろう。5分だけ時間を稼げ。すぐに片付ける』
通話が切れた。
「片付ける」って、どうやって?
まさかここに来るのか? いや、物理的に間に合わない。
俺は半信半疑のまま、フロアに戻った。
状況は悪化していた。
役員の一人が、あろうことか本番環境のサーバーラックに手をかけようとしていた。
「ほう、これが新しいブレードサーバーかね? どれどれ」
「お、おやめください常務! それは別システムの……!」
「ええい、触るくらいいいだろ、減るもんじゃなし!」
優が必死で止めようとしているが、多勢に無勢だ。
俺が割って入ろうとした、その時だった。
『プルルルル……!』
再び、プロジェクトルームの電話が鳴り響いた。
今度は、優のデスクにある内線電話ではない。
役員の一人が持っていた、社用携帯だ。
「……ん? こんな時間に誰だ」
常務が不機嫌そうに電話に出る。
その瞬間、彼の背筋がピンと伸びた。
「は、はい! ……ええ、はい、現在現場におりまして……え? あ、はい、そうです。……はあ!? 今からですか!?」
常務の顔色がみるみる変わっていく。
酔いが一瞬で冷めたようだ。
「……わ、分かりました! すぐに戻ります! ……おい、帰るぞ!」
「え? 常務、どうしたんですか?」
「社長だ! 今から緊急のオンライン役員会議を招集するだと! 『重大なコンプライアンス事案が発生した』とかで、全員招集だ!」
社長!?
コンプライアンス事案!?
役員たちは蜘蛛の子を散らすように慌てふためき、嵐のように去っていった。
後に残されたのは、静まり返ったオフィスと、呆然とする俺たちだけ。
俺のスマホが震えた。
西園寺さんからだ。ショートメッセージが一言だけ。
『貸し1』
俺は脱力して、近くの椅子に座り込んだ。
あの人、一体何をしたんだ。社長を動かしたのか? それとも「コンプライアンス事案」自体が、彼のでっち上げなのか。
どちらにせよ、化け物だ。
「……助かった……」
優がその場にへたり込んだ。
メイクは崩れかけ、髪も乱れているが、その目には生気が戻っていた。
「……誰? 今のタイミング、良すぎない?」
「さあな。日頃の行いがいいから、神風が吹いたんだろ」
俺は肩をすくめて、モニターを指差した。
「ほら、チーフ。移行再開だ。邪魔者は消えた」
「……ええ。やるわよ」
優が立ち上がり、頬をパンと叩いた。
その表情は、もう「氷の女帝」に戻っていた。
◇
午前6時。
空が白み始め、ビルの隙間から朝日が差し込んでくる。
「……全データ移行完了。不整合なし」
「新システム、サービス起動。……正常稼働を確認」
「ログ出力正常。……オールグリーンです!」
メンバーの報告を聞き、優が大きく息を吐いた。
「……カットオーバー、完了です。お疲れ様でした!」
ワッと歓声が上がる。
抱き合う者、ハイタッチする者、泥のように眠り込む者。
一年間の苦労が報われた瞬間だ。
俺も隣の席の田中と握手を交わし、それから優を見た。
彼女はモニターを見つめたまま、静かに微笑んでいた。
◇
午前8時。
簡単な解散式の後、俺たちはビルの外に出た。
早朝の丸の内は、まだ人もまばらだ。
冷たく澄んだ空気が、徹夜明けの火照った体に心地いい。
「……終わったわね」
「ああ。完璧なカットオーバーだった」
優が立ち止まり、俺に向き直った。
俺がいつぞやに渡した、安物のボールペンが握られている。
まだ持っていてくれたのか。
「ありがとう、幸太朗くん。……貴方がいなかったら、ここまで来られなかった」
「よせよ。俺は適当にサボってただけだ」
「ふふ。……そうね。最高の『適当』だったわ」
優が右手を差し出した。
俺はその手を握り返す。
冷たくて、細くて、でも力強い手。
「……私は、本社に戻るわ。もっと上を目指すために」
「おう。出世して、俺みたいな下請けにもっと楽な仕事回してくれよ」
「考えておくわ。……じゃあね」
優は手を離し、踵を返した。
颯爽と歩き出す背中。
一度も振り返ることなく、彼女は駅の改札へと消えていった。
あっけない別れだった。
涙も、抱擁も、愛の言葉もない。
でも、それでいい。俺たちは同僚で、精々が「高校の同級生」で、それ以上の関係にはなれなかったのだから。
「……さてと。帰って寝るか」
俺は大きく伸びをして、反対方向へ歩き出した。
ポケットの中には、優からもらったチョコの空き箱が入っている。
これで終わりだ。
俺の平穏な日常が戻ってくる。
この時の俺はまだ知らなかった。
彼女が去り際に残したあの笑顔の意味を。
そして、物語がこれで終わるどころか、ここからが本当の「地獄」の始まりだということを。




