第3話:翌朝の沸騰
翌朝。
空は突き抜けるような青空だったが、俺の心はどんよりとした鉛色だった。
「……帰りてぇ」
オフィスの最寄り駅、改札を抜けた瞬間に漏れ出た本音。
出勤前なのに帰りたい。いや、むしろ出家したい。
寝不足で出力が20%しかない脳みそなのに、昨日の記憶がその大半を占めている。
『あなたは私の、旦那様(候補)なんだから』
居酒屋に響き渡った、あの爆弾発言。
その後どうなったか、正直あまり覚えていない。
「お客さま、お静かに」なんて店員さんの注意を無視して、周囲の同僚たちが「井伊がやりやがった」「いきなり手を出した」「いや、手を出されたのは井伊の方か?」と、面白おかしく騒ぎ立てていたことだけは覚えている。
マネージャーなんて「いやあ、めでたい! 今日は無礼講だ!」とか言って、高そうな日本酒を勝手に空けまくっていた。
俺は必死に「違います」「誤解です」「高校の同級生ってだけです」と弁明したはずだが、酔っ払いたちにロジックは通じなかった。
「……あー、腹が痛い」
効き目が感じられない鎮痛剤を恨みつつ、重い足取りでオフィスビルへ向かう。
時刻は8時50分。
一番混雑する時間帯だ。
エントランスホールには、死んだ魚のような目をしたサラリーマンたちが溢れ、6基あるエレベーターの前には長蛇の列ができている。
俺もその列の最後尾に並び、スマホを取り出した。
社内チャットの通知が、未読99+になっている。
怖くて開けない。
絶対に「旦那様」関連のイジりだ。裏チャンネルでどんな祭りが開催されているのか、想像するだけで寿命が縮む。
「……はぁ」
深いため息をついた、その時だった。
ビルの反対側にあるメインエントランスから、カツ、カツ、と特徴的なヒールの音が近づいてくるのが聞こえた。
他社の社員たちが雑然と行き交うエントランスホールで、その音だけがやけにクリアに響く。
リズム良く、一切の迷いがない足音。
その足音の主は、俺が並んでいる列のすぐ横を通り抜け――ふと、足を止めた。
「…………」
俺は反射的に列から外れそうになった。
完璧に手入れされた黒髪。
一切の無駄がない、タイトなパンツスーツ。
そして、周囲を氷点下に叩き落とすような、冷ややかな視線。
佐藤優だ。
昨夜の「デレデレ酔っ払い」の面影は微塵もない。
完全に「氷の女帝」モードだ。
……あ、これ、昨日のこと記憶にないパターンか?
あるいは「仕事中は他人のフリ」という鉄の掟でもあるのか。
どちらにせよ、助かった。
ここで無視するのも不自然だし、社会人として挨拶だけはしておこう。
俺は列に並んだまま、横に立った佐藤に軽く会釈をした。
「おはようございます、佐藤さん」
努めて明るく、爽やかに。
あくまで「同僚」としての距離感で。
しかし、彼女の反応は冷淡そのものだった。
ゆっくりと、氷のような瞳が俺を一瞥する。
「おはようございます。――何か?」
低い。温度がない。
まるで路傍の石ころを見るような目だ。
周囲のサラリーマンたちが、その威圧感にビビって少し道を空けたほどだ。
よし、完璧だ。
これなら「昨日のあれ」は無かったことになる。
俺が安堵の息を吐きかけた、その時だった。
切れ長の瞳が、俺の顔でピタリと止まる。
数秒の沈黙。
そして。
「…………ッ!?」
氷の女帝の目が、限界まで見開かれた。
澄ました表情が、音を立てて崩れ去っていく。
白い頬が、首筋が、耳までが。
まるで沸騰したヤカンのように、一瞬にして真っ赤に染まった。
「あ、っと、その――えーっと……!?」
声が出ていない。
パクパクと口を開閉させ、視線が泳ぎまくっている。
完璧超人だった「氷の女帝」はどこへやら。
そこにいたのは、ただのパニックになった女の子だった。
……あー、これ全部覚えてるやつだ。
今、思い出したんだな。
昨日の「E.U.」だの「旦那様」だのを、フルHD画質で再生しちゃった顔だ。
どうする。
ここで「昨日は楽しかったですね」なんて言ったら、彼女は核爆発を起こしてこのビルごと吹き飛ぶかもしれない。
俺がフォローの言葉を探そうとした、次の瞬間。
「…………失礼しますッ!!」
アイツは悲鳴のような声を上げると、踵を返してエレベーター脇にある非常階段のドアへ一直線。
「ちょ、佐藤さん!?」
「わ、私、足腰を鍛えるために階段で行くわ!! ロジカルな判断よ!!」
「オフィスは11階だぞ!? まさか階段で行くつもりか?」
「問題ないわ! 効率的な有酸素運動だから!!」
ドスン!と階段入り口の重いドアが閉まる音が響いた。
静寂が戻る。
エレベーター待ちをしていた数十人の視線が、一斉に俺に突き刺さった。
「……井伊さん」
いつの間にか後ろに並んでいた事務員の浅田さんが、怯えたように囁く。
「あの氷の女帝を、一瞬で茹でダコにするなんて……一体、何をしたんですか?」
「何もしてない。本当に、何もしてない」
俺の否定は、虚しくホールに響いた。
ただ挨拶しただけでこれだ。
前途多難なんてレベルじゃない。俺の「E加減」ライフは、すでに嵐の中だった。
◇
11階、グラテクのオフィス。
俺が席に着くと同時に、隣の席の同僚・高橋が、ニヤニヤしながら椅子を寄せてきた。
「よっ! 旦那様候補! 重役出勤か?」
「うっさい。普通に定時だろ」
「いやー、昨日は凄かったな。まさかお前があの佐藤さんと、あんなにディープな関係だったとは」
「ディープじゃない。ただの腐れ縁だ。 というか、腐るほどの縁ですらない」
「でも、さっきのエレベーターホールの話、もう広まってるぞ」
高橋がスマホの画面を見せてくる。
社内の雑談チャンネルだ。
『速報:女帝、井伊さんを見た瞬間に赤面して逃走』
『階段で11階までダッシュ中らしい』
『ガチじゃん』
『ツンデレの極み』
『井伊さん、今まで冴えないと思っててごめん。あんた勇者だよ』
「……誰だこれ実況してるの」
「みんなだよ、みんな。朝の退屈な時間の特大ニュースだもん」
俺は頭を抱えた。
平和な日常が、音を立てて崩れ去っていく。
E加減で、空気のように生きていきたいだけなのに。なんで俺が勇者扱いされなきゃいけないんだ。
バンッ!!
突然、オフィスの入り口のドアが開いた。
そこに立っていたのは、肩で息をする佐藤だった。
11階までの階段ダッシュ。流石にこたえたらしい。
整っていた髪は少し乱れ、額には汗が浮かんでいる。
だが、その表情は――必死に作り上げた「能面」だった。
「……おはようございます」
努めて冷静な声。
だが、頬の赤みはまだ完全には引いていない。
フロア中の視線が彼女に集中する。
佐藤は誰とも目を合わせず、フロアを見渡して空席を探す。
そして、俺の席の向かいにある島――マネージャーの隣の席が空いているのを見つけると、カツカツと早足で歩み寄った。
持っていたバッグをドンと置き、少し乱暴に椅子を引いて腰を下ろす。
「さ、佐藤チーフ、おはようございます」
マネージャーが恐る恐る声をかけると、佐藤はビクッと体を震わせた。
「……おはようございます、マネージャー。 もう始業時間になりますよ。 準備はお済みですか? 」
「は、はいっ!」
「今日の予定を確認します。10時から社内キックオフ。それまでに、昨日までの課題管理表を更新しておいていただけますか。 あと工程と体制表も欲しいです」
厳しい。いつも通りの厳しさだ。
だが、声が少し上ずっている。
そして何より――彼女は俺の方を頑として見ようとしなかった。
素早くノートPCを取り出して立ち上げると、そのモニターを盾にして、必死に俺の視界から逃げている。
……やりにくい。
俺はため息をつきつつ、自分のPCを立ち上げた。
今日、仕事になるのか――?
その懸念は、すぐに現実のものとなった。
10時からのキックオフ会議。
参加者はマネージャー、佐藤、俺、そして3人の先輩・後輩たち。
「えーっと、まだ開発が始まったところなんで、大きな進捗はないですが、要件定義に向けたクライアント向け資料を作成してるところです。 他は、当面、試験の全体計画と観点の作成ですね」
俺が淡々と報告を行う。
佐藤は手元の資料に目を落としたまま、頷いた。
……というか、さっきから頑なに顔を上げない。
ノートPCのモニターを盾にして、完全に俺の視界から逃げている。
「分かりました。 試験計画ですが、エビデンスの管理方針はどうなっていますか?」
モニターの裏から、少し上ずった声が聞こえる。
「あー、今回はスクリーンショットをExcelに貼り付ける形式ではなく、ログファイルと一緒に所定のフォルダに格納する形式にしようかと」
「そ、そうですね。Excelに貼り付ける作業は非効率的です。その方向で進めてください。あと、課題管理表の更新頻度は?」
「毎日夕方に更新して、朝会で共有します」
「了解し、しました。……抜け漏れがないように、ステータス管理は厳密にお願いします」
言っていることは、いつもの厳しい佐藤だ。
だが。
(……めっちゃ噛んでるし、耳真っ赤だぞ)
俺の席からは、モニターからはみ出した彼女の耳が、熟れたトマトみたいに赤くなっているのが丸見えだった。
早く終わらせたいオーラが凄まじい。
ここまでは良かった。
普通に仕事だ(佐藤の様子はおかしいが)。俺と佐藤の「公私混同しない」スキルが試されている。
だが、次の瞬間だった。
「それと、井伊……さん」
「はい」
「その……要件定義に向けた要望集約の件だけど」
佐藤がふと顔を上げ、俺と目が合った。
その距離、会議室のテーブル越しに約1.5メートル。
昨夜、居酒屋で密着していた距離に比べれば、遥かに遠い。
なのに。
「……っ」
佐藤の言葉が止まった。
瞳が揺れる。
俺の顔を見た瞬間、昨日の記憶が蘇ったらしい。
『迎えにこないから、私から来ちゃった』
『あなたは、私の、旦那様(候補)なんだから』
彼女の脳内で、あの甘い囁きがリフレインしているのが手に取るようにわかる。
顔の赤みが、耳から頬、そして首筋へと急速に侵食していく。
「……えーっと、要望集約が、どうしました?」
俺が助け舟を出すと、佐藤はブンブンと首を振った。
「な、なんでもないわ! えっと、そう、アカウント! あなたのアカウント権限を管理者にする設定、まだやってなかったから! 後でやっておく!」
「あ、はい。お願いします」
「そ、それだけ! 以上! 解散!」
ガタッ!と椅子を引いて、アイツは会議室から逃げるように出て行った。
残されたメンバーたちが、ポカンと口を開ける。
「……井伊くん」
マネージャーが生暖かい目で俺を見た。
「なんか、熟年夫婦の痴話喧嘩を見せられてる気分だよ」
「違いますって。勘弁してくださいよ」
俺は天井を仰いだ。
氷の女帝はどこへ行った。
これじゃあ「沸騰した女帝」だ。
あるいはポンコツだ。
結局今日一日、アイツは俺を避け続け、業務連絡すらチャットで送ってくるようになった。
しかも、その文面がやたらと固い。
『井伊さん。先ほどのアカウント設定の件、対応完了いたしました。ご確認をお願いします。佐藤より』
隣の席の高橋が、それを見て吹き出す。
「『佐藤より』って。社内チャットで手紙かよ」
「ほっといてくれ……」
18:00。
嵐のような長い長い一日が、ようやく終わった。
俺は逃げるように定時退社をキメたが、カバンの中のスマホが震えた。
通知を見る。
『佐藤優(個人)』からのLINEだった。
交換した記憶はない。たぶん、高校時代の連絡先が生きていたのか、あるいは誰かから聞いたのか。
『今日はお見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした』
『公私混同は私の主義に反します。明日は完璧に振る舞います』
『でも、昨日の発言を撤回するつもりはありませんから』
俺は駅のホームで天を仰いだ。
撤回しないのかよ。
つまり、俺は依然として「旦那様(候補)」のままってことか。
「……逃げ場なし、か」
ふと、昨日の彼女の笑顔が脳裏をよぎる。
『逃がさないわよ、私の幸太朗くん』
あの言葉は、酔っ払いの戯言じゃなかった。
バグだらけの仕様書みたいに、予測不能で、理不尽で、でも……無視できない現実。
「……どうなってんだよ、マジで」
俺の呟きは、通過列車の轟音にかき消された。
明日からも、この地獄(ある意味天国?)が続くのか。
そう思うと、俺は再び腹が痛くなるのを感じ――不思議と、昨日の酒が抜けた時のような、妙なスッキリ感も同時に覚えていた。




