表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の女帝は、システム(恋)にバグが多い。 〜論理武装した元同級生上司を、社畜の俺が物理的にデバッグする話〜  作者: おこげ。


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/33

第29話:集大成


 2月14日。

 世間では愛を囁き合う恋人たちが街を彩り、デパートの地下売り場では高級チョコレートが飛ぶように売れる日。

 一年で最も街が浮かれるその日に、俺たちは空調の効きすぎた無機質な部屋に閉じ込められていた。

 ここ、グラテクのプロジェクトルームは、世間の喧騒とは無縁の「戦場」と化していた。


「……現在時刻、17時30分。旧システム停止まであと30分」


 優の声が静まり返ったフロアに響く。いつにも増して硬質で、張り詰めた声だ。

 窓の外は既に暗いが、室内の照明は不気味なほど明るい。

 机の上には、積み上げられた栄養ドリンクの塔。仮眠用の寝袋。そして、今日のために用意された大量のカロリーメイトとカップ麺。

 ホワイトボードには、分刻みの移行スケジュールがびっしりと書き込まれ、その横には「必勝」とかかれたダルマが鎮座している。

 ここは愛の祭典会場ではない。システムエンジニアたちの墓場……いや、戦場だ。


 今日から明日の朝にかけて、親会社の基幹システムを新システムへと切り替える。

 いわゆる、本番移行(カットオーバー)

 一年かけて準備してきたプロジェクトの、集大成となる二日間だ。

 失敗は許されない。もし移行に失敗すれば、翌朝の全国の営業所の業務が停止し、親会社に億単位の損害が出ることになる。


「皆さん、準備はいいわね。手順書の最終確認は済んでる? ……あ、その前に」


 優が手元の紙袋からごそごそと何かを取り出し、メンバーのデスクに配り始めた。

 黒い箱。金色のリボン。

 一目で高級品だと分かるチョコレートだ。


「……差し入れよ。糖分補給エネルギー・チャージに使って。脳のパフォーマンス維持にはブドウ糖が必須だから」

「おおっ! チーフありがとうございます!」

「さすが! やる気出ました!」

「うひょー、彼女からもらえなかったから助かります!」


 男ばかりのむさ苦しい現場が、一瞬だけ色めき立つ。

 この日のためにわざわざ用意したのだろうか。相変わらず、変なところで準備がいいというか、律儀だ。

 優が俺のデスクの前にも箱を置いた。


「……はい、幸太朗くんの分」

「サンキュ。……お、これウイスキーボンボンか?」

「アルコール含有量は計算済みよ。業務に支障が出ない範囲で、血管拡張作用によるリラックス効果を狙ったの。貴方、プレッシャーがかかると貧乏ゆすりする癖があるから」


 優は小さく呟き、逃げるようにすぐに自分の席に戻った。

 俺はその箱を手に取り、苦笑する。

 ……これ、俺だけ種類が違うな。

 他のメンバーは普通のプラリネだが、俺のは俺が好きな銘柄のチョコだ。

 そんなことを考えると、胸の奥が少し温かくなった。


 ◇


「18時00分。……旧システム、サービス停止(シャットダウン)

「サービス停止、確認しました」

「これより新システムへのデータ移行バッチを実行します」

「了解。バッチ起動……ポチッとな」


 俺がエンターキーを叩く。カチャ、という音が静寂に響く。

 画面上の黒いコンソールに、白い文字が滝のように流れ始めた。

 2億件のデータが、旧データベースから新データベースへと吸い上げられていく。

 それはまるで、古くなった血液を抜き取り、新しい血液に入れ替える大手術のようだった。


 ここから先は、見守るだけの時間だ。

 プログラムが正常に動作し続けるか。エラーが出ないか。ログに異常な値が出ないか。

 モニターを睨みつけるだけの、静かで長い夜が始まった。

 キーボードを叩く音も消え、聞こえるのはサーバーのファンの音と、誰かが啜るカップ麺の音だけ。


「……そういえば、あの機能はどうなったんですか? 例のAIダッシュボード」


 手持ち無沙汰になったのか、後輩の田中が小声で聞いてきた。

 優はモニターから目を離さずに答える。


「削除済みよ。……昨日の最終セキュリティレビューで、外部連携APIに致命的な脆弱性が見つかったことにして、機能ごと凍結フリーズさせたわ」

「うわぁ……西園寺マネージャー、本当に話通してくれたんだ……」

「ええ。『残念だが、セキュリティリスクは看過できない』って、役員会議で押し切ってくれたそうよ。……まあ、その代わりに来期の宿題事項(ペンディング)にさせられたけどね」


 優が肩をすくめる。

 俺たちは顔を見合わせてニヤリと笑った。

 完全犯罪成立だ。

 あの「動くハリボテ」は、一度も本番環境で動くことなく闇に葬られた。役員たちは「素晴らしいデモだったが、セキュリティなら仕方ない」と納得したらしい。

 さよなら、俺たちの優しい嘘。


 ◇


 深夜2時。

 移行進捗率は70%。順調だ。

 予定よりも少し早いペースで進んでいる。

 致命的なエラーもなく、警告ログも許容範囲内。

 交代で仮眠を取るメンバーも出始め、フロアの空気は少し緩んでいた。


 俺と優は、並んでモニターを眺めていた。

 コーヒーの湯気が揺れている。

 深夜特有の、世界に二人だけ取り残されたような感覚。


「……順調ね」

「ああ。このままいけば、明日の朝にはリリース完了だ」


 優がふぅ、と息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。

 その顔には、深い疲労と、それ以上の安堵が浮かんでいた。

 この一年、彼女はずっと気を張っていた。完璧であらねばならないという呪いと戦いながら。


「……終わるのね」

「ん?」

「このプロジェクトも。……私の出向も」


 優が視線を天井に向けた。


「長かったようで、あっという間だったわ。……最初は、貴方のいるこの場所(ぬるま湯)が理解できなかったけど」

「まあな。お嬢様には刺激が足りなかったろ」

「いいえ。……居心地が良かったわ。危険なほどに」


 優の声が少し震えた。

 彼女は視線を戻し、俺を見る。

 その瞳には、揺れる感情が映っていた。


「幸太朗くん。……私、戻るのよね。親会社に」

「ああ。……知ってるよ」

「西園寺さんにも言われたの。『君の居場所はここじゃない』って。……悔しいけど、正論よ。そうなるべく努力してきたんだし」


 彼女は自分に言い聞かせるように言った。自分自身を納得させるために。

 俺は何も言わず、ただコーヒーを啜った。苦いはずのコーヒーが、味を感じない。

 分かっている。

 最初から分かっていたことだ。

 この一年が、特別だっただけだ。高校時代の延長戦のような、あるいは神様がくれたボーナスステージのような時間が、ここで終わる。

 彼女は空へ戻り、俺は地上に残る。それが本来のあるべき姿だ。


「お疲れさん。……よく頑張ったな、優」

「……まだよ。まだ終わってないわ」


 優は強がって見せたが、その目は少し赤かった。

 俺は彼女のデスクに置かれた「ウイスキーボンボン」の空き箱を見て、言葉を探した。

 何か、気の利いたことを言うべきか。

 それとも、あのタクシーの夜のように、踏み込むべきなのか――。


 その時だった。


『プルルルル……!』


 静寂を引き裂く電話のベル。

 プロジェクトルームにある、外線電話だ。

 こんな時間に、一体誰が。


「……はい、切替対策本部です」


 優が受話器を取る。

 その表情が、一瞬で凍りついた。


「……え? 今から、ですか? ……いえ、困ります! 今は移行作業の真っ最中で……ええ、ですが……」


 優の様子がおかしい。

 受話器を握る指が白くなっている。

 やがて、彼女は押し黙り、何かを諦めたように「……承知いたしました」と呟いて受話器を置いた。


「どうした? 何かあったのか?」


 俺が駆け寄ると、優は虚ろな目で俺を見た。


「……役員よ。今から『視察』に来るんですって」

「はあ? 今から? 午前3時だぞ!?」

「近くで会食があったらしくて……その二次会のついでに、『激励』に来るって。常務も含めて、5人も」


 ふざけんな。

 俺は思わず叫びそうになった。

 今の現場は、本番リリースに向けて一切の油断を許されない状態だ。

 そこに泥酔した役員たちが土足で踏み込んでくる? 邪魔をする以外の何物でもない。


「断れなかったのか?」

「……相手は親会社の常務よ。子会社のチーフ風情に拒否権なんてないわ」


 数分後。

 自動ドアが開き、酒臭い息を吐くスーツの集団が入ってきた。


「やあやあ、頑張ってるねえ! 我が社の精鋭部隊は!」

「君が佐藤チーフか。美人だとは聞いていたが、本当だねえ」

「で、進捗はどうなんだ? 何かトラブルは? 説明してくれよ」


 役員たちは我が物顔でフロアを歩き回り、モニターを覗き込み、大声で話しかけてくる。

 集中力が切れたメンバーの手が止まる。

 優は引きつった愛想笑いを浮かべ、彼らの相手をさせられていた。


「……はい、現在は順調に推移しておりまして……」

「おっと、そこはもっとグラフィカルに表示できないのかね? 私たち(経営層)には分かりにくいよ」

「君、ちょっとコーヒーを淹れてくれないか? 酔い覚ましに」


 地獄だ。

 優のリソースが、完全に「接待」に奪われている。

 現場の指揮官が機能しなければ、些細な異変の検知も遅れる。

 このままでは、ミスの許されない深夜作業が崩壊する。


「……くそっ」


 俺はデスクの下で拳を握りしめた。

 優の顔から、生気が失われていく。

 誰かが止めなければならない。だが、誰が止められる? 相手はこの会社の支配者たちだ。

 俺たち下請けは、ただ嵐が過ぎるのを待つしかないのか?


 いや。

 待てよ。

 一人だけいる。この「嵐」に対抗できる、強力な台風の目が。


 俺は誰にも気づかれないように席を立ち、非常階段へと向かった。

 ポケットからスマホを取り出す。

 通話履歴をスクロールする指が震える。

 こんな時間に電話していい相手じゃない。

 だが、今は非常事態だ。


『……はい』


 数コールの後、不機嫌そうな、しかし明晰な低い声が響いた。

 親会社のエリート。優の元上司。そして、俺のライバル。


「……すみません、夜分遅くに。井伊です」


 俺は覚悟を決めて、言葉を紡いだ。


「今、あなたの元部下が、理不尽な酔っ払いどもに包囲されて死にかけてます。……助けてくれませんか、西園寺さん」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ