第29話:集大成
2月14日。
世間では愛を囁き合う恋人たちが街を彩り、デパートの地下売り場では高級チョコレートが飛ぶように売れる日。
一年で最も街が浮かれるその日に、俺たちは空調の効きすぎた無機質な部屋に閉じ込められていた。
ここ、グラテクのプロジェクトルームは、世間の喧騒とは無縁の「戦場」と化していた。
「……現在時刻、17時30分。旧システム停止まであと30分」
優の声が静まり返ったフロアに響く。いつにも増して硬質で、張り詰めた声だ。
窓の外は既に暗いが、室内の照明は不気味なほど明るい。
机の上には、積み上げられた栄養ドリンクの塔。仮眠用の寝袋。そして、今日のために用意された大量のカロリーメイトとカップ麺。
ホワイトボードには、分刻みの移行スケジュールがびっしりと書き込まれ、その横には「必勝」とかかれたダルマが鎮座している。
ここは愛の祭典会場ではない。システムエンジニアたちの墓場……いや、戦場だ。
今日から明日の朝にかけて、親会社の基幹システムを新システムへと切り替える。
いわゆる、本番移行。
一年かけて準備してきたプロジェクトの、集大成となる二日間だ。
失敗は許されない。もし移行に失敗すれば、翌朝の全国の営業所の業務が停止し、親会社に億単位の損害が出ることになる。
「皆さん、準備はいいわね。手順書の最終確認は済んでる? ……あ、その前に」
優が手元の紙袋からごそごそと何かを取り出し、メンバーのデスクに配り始めた。
黒い箱。金色のリボン。
一目で高級品だと分かるチョコレートだ。
「……差し入れよ。糖分補給に使って。脳のパフォーマンス維持にはブドウ糖が必須だから」
「おおっ! チーフありがとうございます!」
「さすが! やる気出ました!」
「うひょー、彼女からもらえなかったから助かります!」
男ばかりのむさ苦しい現場が、一瞬だけ色めき立つ。
この日のためにわざわざ用意したのだろうか。相変わらず、変なところで準備がいいというか、律儀だ。
優が俺のデスクの前にも箱を置いた。
「……はい、幸太朗くんの分」
「サンキュ。……お、これウイスキーボンボンか?」
「アルコール含有量は計算済みよ。業務に支障が出ない範囲で、血管拡張作用によるリラックス効果を狙ったの。貴方、プレッシャーがかかると貧乏ゆすりする癖があるから」
優は小さく呟き、逃げるようにすぐに自分の席に戻った。
俺はその箱を手に取り、苦笑する。
……これ、俺だけ種類が違うな。
他のメンバーは普通のプラリネだが、俺のは俺が好きな銘柄のチョコだ。
そんなことを考えると、胸の奥が少し温かくなった。
◇
「18時00分。……旧システム、サービス停止」
「サービス停止、確認しました」
「これより新システムへのデータ移行バッチを実行します」
「了解。バッチ起動……ポチッとな」
俺がエンターキーを叩く。カチャ、という音が静寂に響く。
画面上の黒いコンソールに、白い文字が滝のように流れ始めた。
2億件のデータが、旧データベースから新データベースへと吸い上げられていく。
それはまるで、古くなった血液を抜き取り、新しい血液に入れ替える大手術のようだった。
ここから先は、見守るだけの時間だ。
プログラムが正常に動作し続けるか。エラーが出ないか。ログに異常な値が出ないか。
モニターを睨みつけるだけの、静かで長い夜が始まった。
キーボードを叩く音も消え、聞こえるのはサーバーのファンの音と、誰かが啜るカップ麺の音だけ。
「……そういえば、あの機能はどうなったんですか? 例のAIダッシュボード」
手持ち無沙汰になったのか、後輩の田中が小声で聞いてきた。
優はモニターから目を離さずに答える。
「削除済みよ。……昨日の最終セキュリティレビューで、外部連携APIに致命的な脆弱性が見つかったことにして、機能ごと凍結させたわ」
「うわぁ……西園寺マネージャー、本当に話通してくれたんだ……」
「ええ。『残念だが、セキュリティリスクは看過できない』って、役員会議で押し切ってくれたそうよ。……まあ、その代わりに来期の宿題事項にさせられたけどね」
優が肩をすくめる。
俺たちは顔を見合わせてニヤリと笑った。
完全犯罪成立だ。
あの「動くハリボテ」は、一度も本番環境で動くことなく闇に葬られた。役員たちは「素晴らしいデモだったが、セキュリティなら仕方ない」と納得したらしい。
さよなら、俺たちの優しい嘘。
◇
深夜2時。
移行進捗率は70%。順調だ。
予定よりも少し早いペースで進んでいる。
致命的なエラーもなく、警告ログも許容範囲内。
交代で仮眠を取るメンバーも出始め、フロアの空気は少し緩んでいた。
俺と優は、並んでモニターを眺めていた。
コーヒーの湯気が揺れている。
深夜特有の、世界に二人だけ取り残されたような感覚。
「……順調ね」
「ああ。このままいけば、明日の朝にはリリース完了だ」
優がふぅ、と息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。
その顔には、深い疲労と、それ以上の安堵が浮かんでいた。
この一年、彼女はずっと気を張っていた。完璧であらねばならないという呪いと戦いながら。
「……終わるのね」
「ん?」
「このプロジェクトも。……私の出向も」
優が視線を天井に向けた。
「長かったようで、あっという間だったわ。……最初は、貴方のいるこの場所が理解できなかったけど」
「まあな。お嬢様には刺激が足りなかったろ」
「いいえ。……居心地が良かったわ。危険なほどに」
優の声が少し震えた。
彼女は視線を戻し、俺を見る。
その瞳には、揺れる感情が映っていた。
「幸太朗くん。……私、戻るのよね。親会社に」
「ああ。……知ってるよ」
「西園寺さんにも言われたの。『君の居場所はここじゃない』って。……悔しいけど、正論よ。そうなるべく努力してきたんだし」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。自分自身を納得させるために。
俺は何も言わず、ただコーヒーを啜った。苦いはずのコーヒーが、味を感じない。
分かっている。
最初から分かっていたことだ。
この一年が、特別だっただけだ。高校時代の延長戦のような、あるいは神様がくれたボーナスステージのような時間が、ここで終わる。
彼女は空へ戻り、俺は地上に残る。それが本来のあるべき姿だ。
「お疲れさん。……よく頑張ったな、優」
「……まだよ。まだ終わってないわ」
優は強がって見せたが、その目は少し赤かった。
俺は彼女のデスクに置かれた「ウイスキーボンボン」の空き箱を見て、言葉を探した。
何か、気の利いたことを言うべきか。
それとも、あのタクシーの夜のように、踏み込むべきなのか――。
その時だった。
『プルルルル……!』
静寂を引き裂く電話のベル。
プロジェクトルームにある、外線電話だ。
こんな時間に、一体誰が。
「……はい、切替対策本部です」
優が受話器を取る。
その表情が、一瞬で凍りついた。
「……え? 今から、ですか? ……いえ、困ります! 今は移行作業の真っ最中で……ええ、ですが……」
優の様子がおかしい。
受話器を握る指が白くなっている。
やがて、彼女は押し黙り、何かを諦めたように「……承知いたしました」と呟いて受話器を置いた。
「どうした? 何かあったのか?」
俺が駆け寄ると、優は虚ろな目で俺を見た。
「……役員よ。今から『視察』に来るんですって」
「はあ? 今から? 午前3時だぞ!?」
「近くで会食があったらしくて……その二次会のついでに、『激励』に来るって。常務も含めて、5人も」
ふざけんな。
俺は思わず叫びそうになった。
今の現場は、本番リリースに向けて一切の油断を許されない状態だ。
そこに泥酔した役員たちが土足で踏み込んでくる? 邪魔をする以外の何物でもない。
「断れなかったのか?」
「……相手は親会社の常務よ。子会社のチーフ風情に拒否権なんてないわ」
数分後。
自動ドアが開き、酒臭い息を吐くスーツの集団が入ってきた。
「やあやあ、頑張ってるねえ! 我が社の精鋭部隊は!」
「君が佐藤チーフか。美人だとは聞いていたが、本当だねえ」
「で、進捗はどうなんだ? 何かトラブルは? 説明してくれよ」
役員たちは我が物顔でフロアを歩き回り、モニターを覗き込み、大声で話しかけてくる。
集中力が切れたメンバーの手が止まる。
優は引きつった愛想笑いを浮かべ、彼らの相手をさせられていた。
「……はい、現在は順調に推移しておりまして……」
「おっと、そこはもっとグラフィカルに表示できないのかね? 私たちには分かりにくいよ」
「君、ちょっとコーヒーを淹れてくれないか? 酔い覚ましに」
地獄だ。
優のリソースが、完全に「接待」に奪われている。
現場の指揮官が機能しなければ、些細な異変の検知も遅れる。
このままでは、ミスの許されない深夜作業が崩壊する。
「……くそっ」
俺はデスクの下で拳を握りしめた。
優の顔から、生気が失われていく。
誰かが止めなければならない。だが、誰が止められる? 相手はこの会社の支配者たちだ。
俺たち下請けは、ただ嵐が過ぎるのを待つしかないのか?
いや。
待てよ。
一人だけいる。この「嵐」に対抗できる、強力な台風の目が。
俺は誰にも気づかれないように席を立ち、非常階段へと向かった。
ポケットからスマホを取り出す。
通話履歴をスクロールする指が震える。
こんな時間に電話していい相手じゃない。
だが、今は非常事態だ。
『……はい』
数コールの後、不機嫌そうな、しかし明晰な低い声が響いた。
親会社のエリート。優の元上司。そして、俺のライバル。
「……すみません、夜分遅くに。井伊です」
俺は覚悟を決めて、言葉を紡いだ。
「今、あなたの元部下が、理不尽な酔っ払いどもに包囲されて死にかけてます。……助けてくれませんか、西園寺さん」




