第27話:仕様変更という名の暴力
1月下旬。
プロジェクトは、不気味なくらい順調に進んでいた。
データ移行のリハーサルも大きなトラブルなく完了し、バグ収束曲線も綺麗なカーブを描いている。
現場には「これなら勝てる」という空気が醸成され始めていた。
「すごいな。これが『佐藤優』の本気かよ」
俺は画面に表示された進捗管理表を見ながら呟いた。
無駄がない。隙がない。
優が再構築したスケジュールは、バッファを適切に確保しつつ、リソースの分散も完璧だった。
デスマーチが常態化していたうちの開発部が、定時で帰れる日が増えている。これは奇跡に近い。
「……別に。当然の結果よ」
隣の席の優は、いつものように涼しい顔でキーボードを叩いている。
だが、その横顔には隠しきれない疲労の色も滲んでいた。
彼女は誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰っている。全ての進捗を把握し、ボトルネックを事前に潰しているのだ。
「無理すんなよ。あと一ヶ月あるんだから」
「ラストスパートよ。ここで気を抜いたら、全てが水泡に帰すわ」
彼女は強い意志でそう言った。
その言葉通り、このままゴールテープを切れるはずだった。
あの一本の電話が鳴るまでは。
◇
「……ええ。はい。……承知いたしました。すぐに伺います」
午後の早い時間。
電話を切った優の顔から、表情が消えていた。
能面のような、冷徹な無表情。それは彼女が「感情」をシャットダウンした時のサインだ。
「どうした?」
「……本社から呼び出しよ。役員室に来いって」
「役員室? プロジェクトの報告か?」
「だといいけど……嫌な予感がするわ。例外の気配がする」
優はノートPCを抱え、タクシーで本社へと向かった。
残された俺たちは、漠然とした不安の中で作業を続けた。
彼女が戻ってきたのは、定時を過ぎてからだった。
オフィスの自動ドアが開く。
優が入ってくる。
その足取りは、いつものような「カツカツ」という小気味良いリズムではなく、どこか重かった。
彼女は無言で自席に戻り、カバンを置いた。
そして、周囲を見回した。
まだ残業しているメンバーたちが、不安そうに彼女を見ている。
「……みんな、手を止めて聞いてくれる?」
優の声は、ひどく乾いていた。
俺は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「たった今、本社で決定事項が通達されたわ」
優は一度言葉を切り、深く息を吸った。
「来月のカットオーバーに合わせて、新機能の実装が追加されたわ。……『AIによる来期売上予測ダッシュボード』の実装よ」
一瞬、意味が分からなかった。
静寂がフロアを支配する。
やがて、後輩の田中がおずおずと手を挙げた。
「えっと……それは、フェーズ2以降での対応ですよね?」
「いいえ。来月のリリース(フェーズ1)に含めるそうよ」
ドッ、と空気が爆発した。
「はあ!? 馬鹿じゃないですか!?」
「今からですか!? もう結合テスト終盤ですよ!?」
「DBのスキーマ変更も必要になりますよ! 影響範囲がデカすぎる!」
「無理だ! 物理的に間に合わない!」
怒号に近い悲鳴が飛び交う。当然だ。
あと一ヶ月で稼働というこのタイミングでの仕様変更など、自爆テロに等しい。
「……工数的には不可能だと伝えたわ。今のリソースでは、品質を担保できないとも」
優は淡々と言った。
だが、膝の上で握られた拳が微かに震えている。
「でも、決定事項だと言われたわ。『今流行りのAIを取り入れれば、株主総会での見栄えが良いから』。……それが理由よ」
「ふざけんな!」
誰かが机を蹴った。
現場の努力も、積み上げてきた品質も、全てを無視した政治的判断。
それが「親会社の論理」だ。
「……ごめんなさい。私の力不足で、止められなかった」
優が頭を下げた。
あのプライドの高い優が、部下たちの前で頭を下げている。
その姿を見て、誰もそれ以上は言えなくなってしまった。
彼女が一番悔しいはずだということを、みんな分かっているからだ。
重苦しい空気が漂う中、優は一度解散を命じた。
明日、緊急の工程見直しを行うと告げて。
◇
深夜のオフィス。
誰もいなくなったフロアで、優は一人、モニターを見つめていた。
修正版のスケジュールを組んでいるのだろう。
だが、その手は止まっていた。
「……コーヒー、飲むか?」
俺は自販機の缶コーヒーを差し出した。
優はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
サングラスを外したその顔は、泣き出しそうに見えた。
「……帰ってなかったの」
「まあな。チーフ一人に残業させて帰れるかよ」
俺は隣の席に座り、プルトップを開けた。
優はコーヒーを受け取ったが、口はつけなかった。
「……最低ね、私」
「あ?」
「今まで、散々偉そうなことを言ってきたのに。結局、親会社の言いなりじゃない。『合理性』なんて言葉で飾っても、中身はただの社畜よ」
自嘲気味に笑う彼女の声は震えていた。
「あの役員に言われたわ。『できるから君を行かせたんだ。できないなら、君の評価に関わるよ』って。……悔しいけど、言い返せなかった。私がここで断れば、私のキャリアに傷がつく。……結局、私は自分が可愛かっただけなのよ」
優の目から、一雫の涙がこぼれ落ちた。
完璧な彼女の、脆い本音。
俺はため息をつき、自分のコーヒーを一口飲んだ。
「……バーカ」
「!」
「お前が自分の評価を気にする奴なら、とっくに逃げ出してるだろ。こんな泥舟のプロジェクトから」
俺は彼女のデスクに散らばった資料を指差した。
膨大な書き込み。影響範囲の調査メモ。
彼女は諦めていない。なんとかして現場を守りつつ、要求を通す道を探している。
「お前は戦ったよ。負けたかもしれないけど、戦った。それは全員分かってる」
「……でも、結果が全てよ。このままじゃ、みんな死ぬわ」
「死なせねえよ」
俺はニヤリと笑ってみせた。
根拠なんてない。ただのハッタリだ。
でも、今必要なのは論理的な正解じゃない。
「上からの無茶振りを、現場の工夫でなんとかする。それが下請け魂だろ? ……ま、お嬢様には分かんねえ世界かもしれないけどな」
「……」
「安心しろ。現場はしぶといぞ。政治力はないけど、誤魔化すのは得意なんだ」
優が顔を上げ、涙に濡れた目で俺を見た。
「……誤魔化すって、どうするつもり?」
「さあな。これから考えるんだよ。……悪巧みの時間だ」
俺はキーボードに手を置いた。
ここからが、本当の戦いだ。
親会社の理不尽な論理を、俺たちのいい加減な論理でひっくり返す。
反撃の狼煙は、静かに上がろうとしていた。




