第23話:緩衝材
「――カットオーバーの日程が確定した」
年が明け、1月中旬。
定例進捗会議の冒頭、高橋マネージャーがいつになく重々しい口調で告げた。
会議室の空気が、一瞬にして張り詰める。
窓の外では、鉛色の空からチラチラと白いものが舞い始めていた。
「2月14日深夜。翌15日の早朝にかけて、一斉切り替えを行う」
2月14日。
ホワイトボードに書かれたその日付を見て、一瞬の沈黙の後、誰かが「プッ」と吹き出した。
「マジかよ……バレンタインデーかよ」
「よりによってその日か……。まあ、俺らには関係ないけどな」
「いやいや、世の中のカップルが愛を語らってる時に、俺たちはサーバルームでにらめっこか? 泣けるぜ」
SEたちの間から、自虐的な忍び笑いが漏れる。
世の中の恋人たちが浮かれ騒ぐその聖なる夜に、俺たちはサーバという無骨な鉄の塊と、冷え切ったデータセンターで格闘することになるわけだ。
実に、俺たち「日陰のエンジニア」らしい、皮肉な日程じゃないか。
「……ついに、決まりましたね」
俺の隣で、佐藤優が小さく呟いた。
その顔は冷静そのものだが、手元のボールペンを握る指先が、白くなるほど強く力が込められているのが見えた。
カットオーバー。
それはプロジェクトの終わりを意味する。
そして、このプロジェクトにおいては、もう一つの、決定的な意味を持っていた。
――佐藤優の、本社への帰任だ。
彼女はあくまで「出向」という形で、テコ入れのためにこの泥臭い子会社に来ている。
2月の本番移行を終え、1ヶ月の安定稼働期間を経て、3月末にプロジェクト完了報告を行う。それが終われば、彼女は本来いるべき場所――輝かしい本社のIT戦略企画部へと戻っていく。
彼女との、期間限定の「共犯関係」。
今期末――3月31日。その契約期限が、刻一刻と迫っていた。
「スケジュールはタイトだ。だが、我々ならできる。……いや、佐藤チーフがいる今しかできない」
高橋マネージャーの発破にしては、少し弱気な言葉。
だが、それが紛れもない本音であることは、ここにいる全員が痛いほど理解していた。
彼女がいなくなれば、この現場はまた元の「なんとなく動いているレガシーな世界」に戻るだろう。あの鮮烈な論理と、妥協のない推進力が失われるのだ。
それは、平穏な日常の回復であると同時に、確実な衰退をも意味していた。
「……全力を尽くします。完璧な移行を」
優は短く答え、すぐに視線をPCの画面に戻した。
センチメンタルな感傷に浸る時間は、彼女の辞書にはないらしい。
あるいは、そう自分に言い聞かせているだけなのかもしれない。
◇
会議のあと。
俺と優は、エレベーターホールで呼び止められた。
「やあ。順調そうだね」
聞き覚えのある、洗練されたバリトンボイス。
西園寺玲央だ。
相変わらずの高級仕立てのスーツに身を包み、革靴の音さえ優雅に響かせている。この薄暗くて薄汚れた子会社の廊下には、あまりにも似つかわしくないオーラだ。
「西園寺マネージャー……」
優が足を止める。
西園寺は、まるで美術館で絵画を品定めするような目で、俺たち二人を交互に見た。
その目は、以前よりも少しだけ敬意を含んでいるようで、しかし根本的な冷たさは変わっていなかった。
「日程は聞いたよ。2月14日。ロマンチックな日付を選んだものだ」
「……業務上の最適解です。連休を利用できるので、万が一の障害発生時にも48時間のリカバリ時間が確保できます」
「ふっ、相変わらず現実路線な回答だ。だが、そこがいい」
西園寺は優しげに微笑んだが、その目は笑っていなかった。
彼はゆっくりと優に歩み寄る。
「佐藤チーフ。君が戻ってくる席は、既に用意してある」
彼はあえて俺にも聞こえる声量で言った。
それは、周囲への宣言のようでもあった。
「今回のプロジェクトでの君の働きは、本社でも高く評価されているよ。特に、先日のデータ移行リハーサルでの判断……あれは君らしくない泥臭い手だったが、結果として会社を救った。君は一つ『殻』を破ったようだね」
「……それは、私の判断ではありません。現場の協力があったからです」
「謙遜はいらない。現場を動かしたのも、君の実力だ」
西園寺は、優の肩に手を置こうとして、寸前で止めた。
触れることすら必要ないと言わんばかりの、絶対的な所有感。
「君はこの現場で、現場の泥臭さを学んだ。その経験は貴重だ。だから、次は経験を活かさなければならない」
「……」
「さらなる会社の発展のために、最もパフォーマンスを生み出せる場所に配置されるべきだ」
こんなところにいるのはもったいない。
そう言われた気がした。
いや、実際に彼はそう思っているのだろう。
悪意などない。ただの事実の確認として。
彼女はエリートで、空を飛ぶ鳥で、俺たちとは住む世界が違う。
この数ヶ月が「異常」だっただけで、春になれば全て「正常」に戻るのだ。
「……分かっています」
優は静かに頷いた。
否定も肯定もしない。ただ決定事項として受け入れている顔だった。
「期待しているよ。……ああ、それと井伊くん」
不意に話を振られ、俺は背筋を伸ばした。
「は、はい」
「君のサポートにも感謝している。君がいなければ、彼女の論理は現場と摩擦を起こして擦り切れていただろう。いい『緩衝材』だったよ」
緩衝材。
プチプチかよ、俺は。
割れ物を守るための、使い捨ての。
言いたいことは山ほどあったが、俺はただ曖昧に笑って誤魔化した。
反論できないのが悔しかった。事実、俺はずっと彼女のフォローをしていただけで、彼女のように何か新しい価値を生み出したわけじゃない。
彼女が空へ帰るための、ただの滑走路だ。
「では、健闘を祈る」
西園寺は優雅に片手を挙げ、踵を返した。
高級な香水の残り香だけが、その場に漂っていた。
◇
「……行きましょう、幸太朗くん」
沈黙を破ったのは優だった。
彼女は西園寺の背中を見ることなく、スタスタとデスクに戻っていく。
その背中はいつも通り凛としていて、揺るぎないように見えた。
ヒールの音が、廊下に乾いたリズムを刻む。
だが。
俺の足は、なぜか重かった。
2月14日のカットオーバーを乗り越え、3月のクロージングを終えれば、彼女は本社へ帰る。
あと2ヶ月ちょっと。
桜が咲く頃には、彼女はいなくなる。
隣の席から聞こえる、高速のタイピング音。
「非効率よ」と俺を叱る、少し甲高い声。
時折見せる、年相応の無防備な笑顔。
そして、二人で見下ろした花火や、冬のイルミネーション。
それらが全てなくなる日常。
元通りの、適当で、平和で、退屈な日々。
俺はずっと、それを待ち望んでいたはずなのに。
「……寂しい、のか?」
自分の口から出た言葉に、俺自身が驚いた。
まさか。ありえない。
俺はE加減なあぶれ者で、彼女は将来を約束されたエリートだ。
住む世界が違いすぎる。これまで通り「通りすがりの関係」で終わるのが、お互いにとっての最適解だ。
彼女は空へ行き、俺は地べたに残る。それだけの話だ。
そう言い聞かせようとしても、胸の奥に刺さった小さな棘は、抜けそうになかった。
ズキズキと、鈍い痛みを主張している。
窓の外では、白い雪が、本格的に降り始めていた。
街の喧騒を白く塗りつぶしていく。
この冬一番の寒気が近づいているらしい。
俺たちの「最後の季節」が、静かに始まろうとしていた。




