第21話:契約
「ねえ、幸太朗……くん」
「ん? なんだよ、急に」
「……ふふ。なんでもないわ。ただ、あなたの友達と同じように呼んでみたかっただけ」
そんな、いつかの放課後の記憶。
夕日に染まる図書室で、二人並んで座っていた時の、何気ないやり取り。
それはあまりにも温かくて、心地よくて――。
◇
「――お客さん、着きましたよ」
運転手の低い声で、俺は現実に引き戻された。
まどろみの中で見ていた長い夢――いや、記憶の旅が終わる。
高校時代の、甘酸っぱくもほろ苦い「勘違い」と「共犯」の日々。
それらが、タクシーのドアが開く音とともに、夜の闇へと溶けていく。
窓の外を見ると、そこは港区の閑静な住宅街にある、低層の高級マンションの前だった。
エントランスにはホテルのような車寄せがあり、守衛が立っているのが見える。
庶民の俺が住むアパートとは、空気の密度すら違う気がする。
「……ん。……幸太朗くん?」
隣で、優が小さく身じろぎした。
彼女はまだ、夢の続きを見ているようだった。
無防備な寝顔。
会社で見せる「氷の女帝」の仮面は、完全に外れていた。
「……着いたぞ、優」
「……あ……」
俺の声で、彼女の意識がゆっくりと浮上してくる。
彼女は、どこか遠い場所にいたような、ぼんやりとした目で俺を見た。
「……私、今……貴方の名前を……」
「ああ。寝言でな」
俺は苦笑して誤魔化した。
心臓が少しだけ、跳ねていたけれど。
「ああ。ここだろ? お前の城は」
「……ええ。ありがとう、送ってくれて」
彼女はシートベルトを外した。
カチャリ、という金属音が、深夜の車内に響く。
すぐには降りようとせず、彼女はフロントガラス越しの夜景をじっと見つめていた。
雨は上がっていた。
濡れたアスファルトが、街灯の光を反射して黒く光っている。
「……ねえ、幸太朗くん」
彼女は、窓の外を見たまま、ポツリと言った。
その声は、かつて放課後の図書室で「取引」を持ちかけた時と同じ、静かで、しかし熱を孕んだトーンだった。
「あの時の『契約』……まだ、有効よね?」
ドキリとした。
酔いは完全に冷めているようだった。
彼女の左手――かつて俺が握ったその手が、今は膝の上で強く握りしめられている。
契約。
互いの得意分野を提供し合い、世界を最適化するための、天才と凡人の共犯関係。
高校卒業と同時に「中断」されたはずの、そのプロトコル。
俺は、シートに深く身体を沈めたまま、天井を見上げた。
「……中断したはずだろ。お前が最強になるまで」
「私は今、最強の環境を手に入れたわ。貴方の『分散投資』戦略に従ってね」
彼女は少しだけ恨めしそうに言った。
やはり、あの時の俺の屁理屈を、彼女はまだ真に受けているのだ。
「俺はまだだ。……まだ、地盤が固まってねえよ」
それは本音だった。
彼女は東大を経て、親会社のエリート街道を突き進み、誰もが認める「最強」になった。
対する俺はどうだ。
中堅私大を出て、子会社に入り、のらりくらりと「適当」に生きているだけ。
プロジェクトが終われば、また元の「下請け」に戻る身だ。
お前の隣に立つには、まだ実績が足りない。
そう自嘲すると、彼女はふふ、と笑った。
「謙遜は非効率よ。……今日の卓球の連携、覚えていて?」
「……ああ。まぐれだけどな」
「いいえ、まぐれではないわ」
彼女は断言した。
「さっき頭の中でログを解析したの。貴方のポジショニング、私の打球予測、そして私のミスをカバーする貴方の反射速度。……全てのパラメータにおいて、私たちの同期率は 99.8% を記録していた」
「……酔っ払いの卓球を真面目に解析すんなよ」
「事実は事実よ。……リハーサルは完了したと見なしていいかしら?」
彼女は振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
18歳の頃、中庭で見せたあの「勘違い」の笑顔と重なる。
俺はため息をついた。
この女には勝てない。
理屈でも、感情でも、俺はいつだって彼女の手のひらの上だ。
「……さっさと降りろよ。メーター上がるだろ」
「肯定と受け取るわ。……おやすみなさい、私のパートナー」
彼女は軽やかにタクシーを降りていった。
高級マンションのエントランスに消えていく背中を見送りながら、俺は運転手に行き先を告げた。
「……すみません、このまま国道沿いに、税務署のところまで」
「へい」
「あ、その手前のコンビニに止めてください。……アイス食いたい気分なんで」
タクシーが再び走り出す。
遠ざかる彼女の城を見ながら、俺は苦笑した。
契約有効、か。
とんだブラック契約を結んじまったもんだ。
だが、不思議と悪い気分ではなかった。
窓に映った俺の顔が、自分でも引くくらい、ニヤけていたからだ。
◇
翌日。
プロジェクトルームの空気は、少しだけ変わっていた。
「おはようございます、井伊さん! 昨日はありがとうございました!」
「おう、飲みすぎなかったか? 午後から眠くなるなよー」
若手社員たちが元気に挨拶してくる。
決起集会の効果は覿面だったらしい。チームの士気は明らかに上がっている。
空気の循環が良くなったオフィスで、俺は自分の席――佐藤優の斜め後ろ――に座った。
さっそく、最初の「仕事」が舞い込んできた。
「あー、佐藤チーフ、ちょっといいかな?」
ヌッと現れたのは、営業部の小山田部長だ。
声がでかい、話が長い、そして絶妙にピントがズレているという、典型的な「ノイズ」発生源である。
「例の画面デザインの件なんだけどね、お偉いさんから『もっとインパクトが欲しい』って言われちゃってさー。ここ、赤字で点滅とかできない?」
「……は?」
モニターを見ていた優の手が止まる。
彼女の眉間がピクリと動いた。
まずい。
『業務システムで赤字点滅はエラーと誤認されるため非推奨であり、色彩心理学的にも……』という正論マシンガンを発射する気だ。
それをやれば、部長の機嫌を損ね、会議が1時間延びる。
俺は、すかさず椅子を回転させて割り込んだ。
「あー、部長! おはようございます!」
「お、井伊くん。なんだね」
「その件、さっき僕も確認したんですけど、実はシステム基盤の制約で、点滅処理を入れると全体のレスポンスが0.5秒遅れる可能性があるんすよ」
「えっ、遅れるの? それは困るなぁ」
もちろん、そんな制約はない。俺の口から出まかせだ。
だが、「レスポンス」という言葉に弱い部長は、とたんに渋い顔になった。
「じゃあ、代わりにヘッダーの色を少し濃くして、重厚感を出すってのはどうすか? これならコストゼロで対応できますし、お偉いさんにも『高級感を出した』って言えますよ」
「おお! なるほど、高級感か! いいね、それ採用!」
部長は単純だ。
「じゃあよろしく!」と機嫌よく去っていった。
所要時間、わずか45秒。
完璧なフィルタリングだ。
俺が椅子を元の位置に戻すと、優がこちらを振り向くことなく、モニター越しに言った。
「……今の嘘、バレても知らないわよ」
「仕様書には『視認性の向上』って書いとけばいいんだよ。実害はない」
「……感謝するわ。今の状態で思考を中断されたら、リカバリに20分はかかっていた」
「どういたしまして」
彼女は、キーボードを叩きながら、小声で付け加えた。
「その代わり、貴方がメールで投げてきた『例外処理の仕様緩和案』……承認しておいたわ」
「おっ、マジ? 助かるわー。あれ厳密にやると工数倍になるからさ」
「バーター取引よ。……今後も、私の防壁としての機能を期待するわ」
彼女はニヤリと笑い、エンターキーを強く叩いた。
共犯関係のリブート(再起動)。
俺たちの見えないホットラインは、7年の時を経て、再び接続されたのだ。
さあ、ここからは本当の勝負だ。
「会計営業システム」の刷新という、泥臭いプロジェクト。
敵はバグ、仕様変更、そして切迫する納期。
だが、今の俺たちなら。
「最強の矛(天才プログラマー)」と「最強の盾(適当ネゴシエーター)」が揃った今の俺たちなら。
あるいはこの地味で面倒臭いプロジェクトすら、少しはマシに「最適化」できるかもしれない。
窓の外では、木枯らしが吹き始めていた。
季節は冬へと向かっている。
プロジェクトの正念場と、彼女との別れの期限は、刻一刻と近づいていた。




