第17話:邂逅
俺たちがまだ、15歳の高校1年生だった頃の話だ。
俺が通っていた高校は、県内でも有数の進学校だった。
「文武両道」を掲げ、多数ではないけれど毎年東大合格者を何人かは輩出する程度ではあった。
自慢じゃないが、俺、井伊幸太朗は、中学時代までは「神童」と呼ばれていた。
勉強も運動も、少しやれば人並み以上にできた。
テスト勉強なんてしなくても90点は取れたし、部活でもレギュラーになれた。
周りの大人たちは「井伊くんは地頭がいい」「要領がいい」と褒めそやし、俺もまた、自分には特別な才能があるのだと信じて疑わなかった。
「俺は選ばれた人間だ」
「本気を出せば、世界だって変えられる」
そんな、今思い出しても顔から火が出るような全能感(と書いて黒歴史と読む)を抱いて、俺はこの高校に入学した。
だが、その勘違いは、入学してすぐに粉砕されることになる。
4月の実力テスト。
俺の結果は、学年2位だった。
「……惜しいな」
掲示板の前で、俺は唇を噛んだ。
1位との点差はわずか数点。
ケアレスミスさえなければ、俺がトップだったはずだ。
俺はまだ余裕をぶっこいていた。「まあ、入学直後だしな」「俺、ノー勉だったし」と、謎のマウントを心の中で取っていた。
そして迎えた、5月の中間テスト。
俺は、人生で初めて「ちょっとだけ」本気を出した。
「ガリ勉」なんてダサいと言いつつ、家では隠れて参考書を何周もした。
俺の才能に、少しの努力を足せば、1位なんて余裕だ。
学年トップの座を奪い取り、華々しい高校デビューを飾る。そのための布石だった。
結果は――また、2位だった。
しかも、1位との点差はこれっぽっちも縮まっていなかった。
いや、むしろ開いていた。
1位の生徒は、全科目満点に近い、異常な数字を叩き出していたのだ。
その名前は、『佐藤 優』。
俺のクラスの隣、1年B組に在籍している女子生徒らしかった。
――なんでだ?
俺は「神童」のはずだろ?
なんで、本気を出したのに勝てない?
疑問と、焦りと、そして初めて味わう「敗北感」が、俺のプライドをじわじわと蝕んでいった。
◇
6月の雨の日。
俺は放課後の校舎を、逃げるように彷徨っていた。
教室にはいたくなかった。テスト結果で盛り上がるクラスメイトたちの声が耳障りだったからだ。
かといって、家に帰れば教育熱心な母親の「次は1位取れるわよね?」というプレッシャーが待っている。
どこか、誰もいない場所でサボりたかった。
「……チッ、最悪だ」
頼みの綱だった体育館裏は、耐震補強工事とかで立ち入り禁止になっていた。
行き場を失った俺が、消去法でたどり着いたのが、校舎の隅にある図書室だった。
本なんて読む趣味はない。
ただ、あそこなら静かだし、人も少ない。
昼寝でもして時間を潰そう。
そんな不純な動機で、俺は重い扉を開けた。
カビ臭い空気と、本の匂い。
テスト期間が終わったばかりの図書室は閑散としていた。
俺は受付の図書委員に見つからないように、一番奥の窓際の席を目指した。
そこなら書架が目隠しになる。
だが、その「特等席」には先客がいた。
「……」
一人の女子生徒が座っていた。
窓ガラスを背にして、山積みにされた本に埋もれるようにしている。
一瞬、息が止まった。
美しい、と思ったからではない。
いや、確かに彼女は美しかった。
透き通るような白い肌。
長い黒髪は、湿気を含んだ空気の中でもサラサラと揺れている。
まるで、そこだけ空気が澄んでいるかのような清潔感。
だが、俺が足を止めた理由は、その美貌ではない。
彼女が纏う、あまりにも痛々しい「緊張感」だ。
背筋を定規で測ったように伸ばし、瞬き一つせず、活字を追っている。
その姿は、まるで千年前からそこで修行をしている彫像のようだった。
半径3メートル以内に誰も寄せ付けない、張り詰めた空気。
そして何より、彼女が読んでいる本だ。
高校生向けの参考書じゃない。
背表紙に見えたのは、英語のタイトル。
『Quantum Algorithm...』?
なんだそれ。大学の専門書か?
机の上には、ノートが広げられていた。
そこには、俺が見たこともないような数式や図形が、恐ろしい密度でびっしりと書き込まれていた。
シャーペンの芯が折れるほどの筆圧で、鬼気迫る勢いで思考を叩きつけている。
――あいつだ。
直感で分かった。
こいつが、佐藤優だ。
俺の上を行く、学年1位の正体だ。
俺は、天才というのはもっと涼しい顔をして、軽々と結果を出す人間だと思っていた。
俺みたいに、要領よく、スマートに。
でも、違った。
目の前の彼女は、誰よりも苦しそうで、誰よりも必死だった。
世界の全てを理屈でねじ伏せようとするような、凄まじい執念。
それを見た瞬間。
俺の中にあった「悔しさ」や「嫉妬」といった感情が、音を立てて崩れ去っていった。
代わりに湧き上がってきたのは、自分でも驚くほどの、圧倒的な「安堵」だった。
『ああ、よかった』
本気で、そう思った。
天才じゃなくて、よかったんだ。
世界には、こういう本物のバケモノがいる。
息をするように努力し、孤独に耐え、世界の理と戦い続ける人間がいる。
なら、俺が頑張る必要なんてないじゃないか。
世界の平和とか、科学の進歩とか、日本の未来とか、そういう重たい荷物は全部、彼女のような人間に任せてしまえばいい。
俺ごときが、対抗しようとしていたなんて、おこがましいにも程がある。
バカバカしい。
俺は「神童」なんかじゃない。
ただの、運が良かっただけの凡人だ。
その瞬間、俺の肩から憑き物が落ちた。
これからは、無理をするのはやめよう。
1番なんて狙う必要なんてない。
そこそこの努力で、そこそこの結果(2位とか3位で十分すぎる)を出して、あとはのんびり生きよう。
それが、俺の身の丈に合った、一番コスパの良い生き方だ。
そう悟り、回れ右をして帰ろうとした時だった。
「……そこの貴方」
背後から、冷ややかな声が飛んできた。
鈴を転がすような美声だが、温度は絶対零度だ。
「……え、俺?」
「貴方以外に誰がいるの? ……そこに立たれると、採光が変わって気が散るわ。座るか、消えるか、どちらかにして」
彼女は、本から目を離さずにそう言った。
まるで、羽虫でも追い払うような口調だった。
「……悪いな。サボり場所を探してたんだ。すぐ消えるよ」
俺はヘラヘラと笑って答えた。
もう、彼女と張り合おうという気は失せていた。
むしろ、この「台風の目」に関わったら面倒なことになると、俺の危機管理センサーが警告していた。
だが、去り際にふと、余計なことを言ってしまった。
彼女の眉間に刻まれた皺が、あまりにも深かったからだ。
「……でもさ、そんな暗い顔して勉強して、楽しいのか?」
「……は?」
「機械だって、遊びがねえと焼きついちまうだろ。人間だってもっと適当でいいんじゃねえの」
彼女が顔を上げ、俺を睨んだ。
「適当……? 不真面目ということ?」
「そっちじゃなくて……ほら、適切、の方」
俺は咄嗟に、今さっき自分の中で思いついたばかりの言い訳を口にした。
「100点なんて取らなくていい。60点で合格なら、残りの40点分の労力はサボるために使う。『いい加減』ってのは、そういう『良い加減』のことだろ」
俺は肩をすくめた。
「俺はもう降りたからさ。お前も、ほどほどにしとけば?」
それは、俺なりの敗北宣言であり、自分自身へのただの甘えの肯定だった。
どうせ、理解されないだろう。
こんな高尚な天才様に、俺のような凡人の、逃げの思考など通用するはずがない。
だが。
彼女は、固まった。
大きく見開かれた瞳が、まばたきもせずに俺を捉えている。
「……いい、加減……?」
「Efficiency(効率)……Entropy……いや、Essential(本質)……? 『良い加減』とは、リソース配分の最適化……?」
彼女はブツブツと何やら高速で呟き始めた。
やばい。
変なスイッチを入れてしまったか。
「……あー、じゃあ俺、行くわ」
「待って」
逃げようとした俺を、彼女の声が引き止めた。
今度は、さっきのような拒絶の声ではなかった。
まるで、未知の数式の解を見つけたような、熱っぽい響き。
「貴方の名前を聞いても?」
「……井伊。井伊幸太朗」
「井伊……」
彼女は俺の名前を、大事なデータとして脳に刻み込むように復唱した。
そして、真っ直ぐに俺を見て言った。
「私は……佐藤優よ」
それが、俺たちのファーストコンタクトだった。
外はまだ雨が降っていた。
俺は逃げるように図書室を出たが、背中に突き刺さるような視線を感じていた。
あの時、俺は気づいていなかった。
「もう頑張らない」と誓ったはずの俺が、逆に「人生最大の難問」に捕まってしまったことに。
これは、天才による「全体最適」と、元・神童による「省エネ最適」が衝突事故を起こした、その最初の記録だ。




