第16話:共通の思い出
深夜の首都高速。
タクシーは滑るように、コンクリートのジャングルを流れる光の河を遡っていく。
車内は、深海のような静寂に包まれていた。
運転手は空気のように気配を消しており、聞こえるのはタイヤが継ぎ目を越える低い音と、エアコンの微かな駆動音だけ。
時折、窓の外を流れるナトリウムランプのオレンジ色の光が、後部座席を規則的なリズムで照らし出しては消えていく。
後部座席の右側には、俺。
左側には、優。
二人とも、疲れ果てていた。
卓球居酒屋での熱狂的な「決起集会」は、日付が変わる頃まで続いた。
マネージャーの無茶振りによるトーナメント戦、若手社員たちの容赦ないスマッシュ、そして何より、隣にいる「論理モンスター」の介護。
全てのエネルギーを使い果たした俺たちは、泥のようにシートに沈み込んでいた。
アルコールで火照っていたはずの体も、深夜の冷気と車内の静寂で、急速に冷めていくのを感じる。
酔いが覚めると同時に、少し冷静になった頭が、今日の出来事を反芻し始めていた。
……まさか、あんなに熱くなるとはな
卓球での勝利。
あの瞬間の高揚感は、正直に言えば悪くなかった。
普段は「省エネ」「事なかれ」を信条とする俺が、汗だくになってラケットを振り回し、勝利の雄叫びを上げるなんて、入社以来初めてかもしれない。
ふと、隣を見る。
優は窓の外を流れるオフィスビルの明かりを、ぼんやりと眺めていた。
窓ガラスに映るその横顔は、普段の「氷の女帝」としての武装が解除され、どこか無防備で、少しだけ幼く見えた。
膝の上で上品に揃えられた手には、まだ少し力が残っているのか、指先が微かに震えているようにも見える。
「……」
彼女もまた、今日のことを考えているのだろうか。
それとも、明日の「総合テスト」のシナリオでも脳内でシミュレーションしているのだろうか。
この天才の頭の中身だけは、昔から全く読めない。
「……ねえ、幸太朗くん」
唐突に、彼女が口を開いた。
視線は窓の外に向けたままだ。
その声は、エンジンの振動に消え入りそうなほど小さく、しかし確かな輪郭を持って俺の耳に届いた。
「ん?」
俺は短く応じる。
会話をする気力も残っていなかったが、彼女の問いかけを無視するわけにはいかない。
「さっきの卓球。……貴方、なんで勝てると思ったの?」
またその話か。
相当、悔しかったらしい。あるいは、自分の計算通りにいかなかったことが、気持ち悪くて仕方がないのかもしれない。
「あ?」
「私の計算では、勝率は1%未満だったわ。相手ペアの身体能力、反射速度、過去のスポーツ経験……全てのパラメータにおいて、私たちは劣っていた」
「まあな。田中たちはテニスサークル出身らしいし」
「それに、貴方の運動神経のパラメータも、決して高くはない。平均値の範囲内よ。……なのに、なぜ?」
優がゆっくりと首を巡らせ、こちらを見た。
車内の薄暗がりの中でも、その瞳だけは強い知性の光を宿していた。
納得できない事象に対して、論理的な解を求める科学者の目だ。
「なぜ、あんな不規則で、非合理的な動きで、彼らを圧倒できたの? 私のシミュレーションにはないパラメータがあったとしか思えないわ」
俺はシートに深く体を預け直し、タクシーの天井を見上げた。
変数、か。
そんな大層なものじゃない。
「あのな、優。お前の計算は正しいよ」
「なら……」
「でも、お前は前提条件を間違えてる」
「前提条件?」
俺は視線を戻し、彼女の目を見た。
「お前は『正しく打ち返す』ことばかり考えてただろ。綺麗なフォームで、最短距離で、相手のいない場所へ。……教科書通りの正解だ」
「それは、最適解だからよ」
「卓球は対人競技だ。相手がいる。相手もまた、『お前が正解を選んでくる』と思って動いてるんだよ」
俺は、自分の手のひらをじっと見つめた。
マメの一つもない、サラリーマンの手。
「人間ってのは不思議なもんでな。『正しい動き』には反応しやすいんだ。予測ができるから。……けど、『適当な動き』には反応できない」
「適当……?」
「そう。俺の動きには、何の意味もない。打つ瞬間まで、どこに打つか俺自身も決めてねえからな。……そんなもん、予測できるわけがない」
E加減。
俺の人生のキーワードにして、最大の処世術。
真面目に100点を取りに行くのではなく、60点で合格することを是とする生き方。
それは、見方を変えれば「相手の期待を裏切り、予測を外す」という高度な攪乱戦術(?)でもある。
「……計算外、ということ?」
「まあな。お前の言う『ノイズ』だよ」
優は考え込むように黙り込んだ。
眉間に小さな皺を寄せ、何かをブツブツと呟いている。
おそらく、今聞いた「適当」という要素を、彼女の脳内シミュレータに組み込もうとしているのだろう。
だが、無駄だ。
「適当」とは、計算できないからこそ「適当」なのだから。
「……ふふっ」
不意に、優が笑った。
それは、嘲笑でも冷笑でもなく、心からの楽しそうな笑い声だった。
「適当で、いい加減。……そうね。貴方はいつもそう」
「褒めてんのか?」
「ええ、最大限の賛辞よ。……やっぱり、貴方は凄いわ」
「嫌味にしか聞こえねえよ」
俺は溜息をつき、再び窓の外を見た。
東京タワーの近くを通り過ぎていた。
赤い鉄骨の巨塔が、雨上がりでもないのに滲んで見えるのは、俺の目が疲れているせいだろうか。
俺は、自分が凄いなんて思ったことは一度もない。
今の卓球の話だって、要するに「まぐれ」と「ハッタリ」だ。
実力で勝負すれば、俺は田中たちの足元にも及ばない。
だから、搦め手を使う。
正攻法で勝てないから、奇策に走る。
それを「凄い」と評価されるのは、なんだか居心地が悪かった。
特に、本物の天才である彼女からは。
「高校の時も、そうだった」
優がポツリと漏らした言葉に、俺の心臓が不快な音を立てた。
不意打ちだった。
封印していた記憶の蓋を、無理やりこじ開けられたような感覚。
「……覚えてる? 高1の時の、雨の日」
優の声色が、少し変わった。
先までの分析的な響きが消え、湿度を帯びた、粘着質な響き。
まるで、その瞬間にタイムスリップしたかのような。
「……さあな。毎日雨みたいなもんだったし」
俺は誤魔化した。
思い出したくなかったからだ。
あの頃の俺は、今よりもっと惨めで、もっと未熟で……そして、今よりもっと、彼女のことを直視していた。
「嘘つき。貴方は覚えてる」
優が身体ごとこちらを向いた。
シートベルトが擦れる音が、妙に大きく響いた。
逃げ場のないタクシーという密室で、彼女の視線が俺を捕らえる。
薄暗い車内でも分かる、その瞳の強い光。
全てを見透かすような、それでいて、どこか縋るような視線。
「隠しても無駄よ。貴方のバイタルサインに出てたもの。さっき、心拍数が上がったでしょ?」
「……お前、脈まで見てんのかよ」
「私は、一日だって忘れたことはないわ」
彼女は、祈るように両手を胸の前で組んだ。
その仕草は、普段の冷徹な上司としての彼女からは想像もつかないほど、乙女チックで、そして狂気的だった。
「私に『いい加減』という新たな価値観を吹き込んだあの日のこと」
「……」
俺は何も言えず、ただ流れる夜景を見つめ返した。
否定しても無駄だということは、長い付き合いで分かっている。
彼女の記憶力は絶対だ。
そして、一度思い込んだらテコでも動かないその性格も。
忘れるわけがない。
あの日。
灰色の雨が降り続く放課後。
俺が、凡人であることを受け入れ、彼女という天才に白旗を上げた日。
そして同時に、彼女の心の在り方を決定的にねじ曲げてしまった、全ての始まりの日。
タクシーが首都高を降り、一般道へと入る。
信号待ちで止まった車の窓を、パラパラと叩く音がした。
いつの間にか、雨が降り出していたらしい。
――あの日も、こんな雨だった。
俺の意識は、自然と過去へと引き戻されていく。
匂いまで思い出せそうだ。
古びた図書室のカビ臭さと、湿った制服の匂い。
そして、彼女から漂っていた、押しつぶされそうな孤独の匂いを。
およそ10年前。
俺たちがまだ15歳だった頃。
そこには、今の「氷の女帝」の原型となる、世界を拒絶した少女がいた。
そして、「足るを知る」なんて悟ったような口を利く前の、世の中を舐め腐って、何者にもなれない自分に苛立っていた俺がいた。
これは、俺が「E加減」な人間に成らざるを得なかった、敗北の物語だ。




