手紙
中学生のころ、同級生に絆創膏を渡したことがあった。当時の僕はじっとしていられない質で、毎日のように遊び回ってはよく怪我をしていて、だからいつも絆創膏を持ち歩いていたのだ。なんて素敵なやんちゃエピソードを持つ人間とは最も離れた場所にいるのが僕という人間で、絆創膏についてはただ昔母親に渡されたものをそのまま鞄に入れていたというだけだった。怪我をした彼とは特に親しいというわけでもなかったが、僕は特に深く考えることもなく純粋に善意でその絆創膏を渡した。感謝の言葉を期待しての行いではなかったのだが、でも心の何処かではそれを期待してしまっていたのかもしれない。
「お前女子力高いな~」
実際に彼から帰ってきたその言葉は、怪我をしてしまった恥ずかしさから来る照れ隠しのようなものだったのだろう。だから、そこに悪意など含まれていないことなんて今考えれば当たり前に理解できる。が、当時の僕は何と言っても男子中学生、他人の気持ちどころか自分の気持ちすら分かっていないくせして一丁前に深読みだけはしてしまう哀れな生き物だった。だから、感謝の言葉がなかったこと、彼が薄い笑みを浮かべながらこちらを見ていたこと、「女子力」という言葉を男の僕に対して使ったこと、そんなどうでもいい事ばかりが気にかかってしまった。改めて思い返してみれば本当に取るに足りない、心底どうでもいいようなエピソードだが、そんな出来事も男子中学生の想像力を持ってすればその後の価値観を揺るがす大事件になりうる。その日から僕は、一度だって絆創膏を持ち歩くどころか使ったことすらない。
さて、「男子中学生」をこんなにも意識し、バカにしていることから分かる通り、高校生になった今の僕も中身は結局「男子中学生」のままだ。だから、今でもそれなりの頻度で取るに足りない大事件を生み出し続けている。本当はそれら全てを書いてやりたいところだけれど、それをするには用紙も時間も足りないだろうし、取り敢えず今回はその中の1つについてだけ書こうと思う。
あれは、高校の入学式の日だった。中学の友人が誰もいないことを理由にわざわざ隣町の高校に進学した僕は、入学式の日、当然のように一人で登校しようとし、そして当然のように道に迷った。入学初日ということもあっていつも以上に緊張していた僕にとっては、ただの遅刻がまるでこの世の終わりかのように思えた。けれど、希望の光っていうのはもうだめだと絶望したときに初めて見えるもので、なんて表現は少し大げさだけれど、とにかく今回の僕も例に漏れず時間ギリギリでなんとか学校を見つけることが出来た。校門前では腕章を着けた生徒達が「あいさつで良い一日を始めよう」と書かれたのぼり旗を片付けており、高校生になってもこんな事をするんだ、と最早感心すら覚えるレベルで呆れながら、僕は校門までの坂を駆け上った。そこで、あまりにステレオタイプな出来事で何だか恥ずかしいくらいなのだけれど、反対側から同じく走って来ていた生徒とぶつかってしまった。こんなのアニメでは何度となく見てきた光景であり、そうやって画面越しに見ていた時はその状況に対して疑問を抱くこともなかった。しかし実際にそうなってみて気づく事というのはいくつもあり、それは例えば本当に急いで走っていた場合人とぶつかったらそれなりに痛いということであったり、アスファルトの上で手をつくと当然怪我をするということであったりした。
「ごめん!大丈夫?」
自分も痛かったはずの彼女は、まず真っ先にこちらを心配し、僕と同じく血がにじみ始めている手で自分の鞄を漁り始めた。
「これ絆創膏!時間やばいから私もう行くね、ごめん!」
こちらが何か言葉を発する間もなく、絆創膏をなぜか箱ごと僕に押し付けると、彼女はあっという間に走り去ってしまった。時間がなかったから箱を開けている余裕もなかったのかもしれないな、などと考えていたら入学式はいつの間にか終わっていて、それから教室に戻ってこれからの一年間を共に過ごす「仲間」との初対面を済ませた後も、僕はずっとどこか心ここにあらずといった風であった。当たり前だけれど、教室に行ったら今朝の彼女が隣の席だったということもないし、ましてやその彼女が転校生として先生から紹介されるなんてことも無かった。そもそもこれから入学なのだから転校生などいるはずは無いのだが、つまり僕はそんなことを考えてしまう程度には浮足立っていたということだ。言ってしまえば登校中に人とぶつかったというだけのことで全くもって取るに足りないどうでもいい出来事なのだけれど、僕にとってそれは十二分に大事件であった。それは憧れてきたアニメで何度となく見た光景であったからかもしれないし、女の子と関わること自体が特別だったからかもしれないし、自身の怪我には目もくれず僕の心配をしてくれた彼女の優しさに惹かれていたからかもしれない。現実に運命の出会いなんてものはないことくらい僕にだってわかっているけれど、その取るに足りない出来事は、僕にとってもはや運命的ですらある大事件で、だから当然僕の高校生活を大きく変えてしまったのだった。
絆創膏を貰ったはいいものの、僕にはのっぴきならない理由があって絆創膏を使うことは出来なかったので、その30枚入りの絆創膏を持て余すことになってしまった。その絆創膏を、僕はなぜだか返さなければいけない、預かり物であるかのように感じていた。なぜそう思ったのかと考えた時、そう思うことで彼女に再び会う口実を作りたかっただけ、という見方も出来るな、なんて思ったりもした。ただ、1つ言っておきたいのは少なくとも彼女に会いたいが為に自覚的に口実作りをした訳ではないということで、何ならそもそも理由なんてものは結果に納得するために後から付け足すものなのだから最初から理由なんて存在しなかったのかもしれないし、まあとにかく実際に僕は預かりものを返さなければという使命感のもと彼女を探し回った。いもしない友達を探すふりをして他のクラスを見に行ったり、放課後部活動をしている生徒たちを眺めてみたり、僕なりにできる限りのことはしてみたつもりだが、結局彼女を見つけることは出来なかった。流石に上級生の教室まで覗きに行くような勇気はなくて、けれどあの時の彼女はずっと僕の心の中にいて、そうして悩んだ末に僕が見つけた解決法こそ校門前での「あいさつ運動」だった。高校生にもなってこんなことをしているなんて、と自分の高校を恥ずかしく思うほどにバカにしていたこの活動だったが、人探しという目的を果たすためにはこれ以上無いほど適した活動であった。僕のような人間が風紀委員に立候補したということでクラスメイトからは好奇の目を向けられたが、僕は彼らとの間にその好奇の目を向けるという行為以上の踏み込みを許すような関係を築いていなかったので、特に何か言われることもなくすんなりとその役職に選出された。
風紀委員としての活動は苦痛の一言であった。そもそも僕は彼らの行う大抵の活動を冷笑していたような人間であったので、何をするにしてもどこか嫌そうにしている、というのが態度で伝わっていたのだろう。自分から立候補したくせに全く積極性がない、そのくせして挨拶活動に対してだけはなぜか意欲的という気味の悪い人間がいたら、僕だって関わりたくない。だから、委員会内で疎まれ、端的に言えば嫌われてしまったことだって、当然のこととして僕は受け止めることが出来た。そんな犠牲を払ってまで行ったあいさつ活動もとい人探しだが、なかなかうまく行かなかった。「あのときの彼女はずっと僕の心のなかにいて」などと気取ったこと言ったものの、入学式から委員会活動が本格的に始まるまでの一ヶ月ほどの期間のうちに、僕の頭の中で彼女の記憶は少しずつ朧気になってきていた。そもそも顔を見たのだって10秒にも満たないほどの時間であったし、いくら自分の中でその存在が大きなものだったとしても顔を忘れるくらいは仕方のないことと言えよう。その結果どうなったかと言うと、毎日5、6人は彼女かもしれない、と思う生徒を見かけることになった。もし人違いだったらと思うと彼女ら全員に声をかけるわけにもいかないし、かといって何も行動を起こさないままであればただ毎朝意味もなく苦痛を味わっているだけということになり、僕には任期満了までの一年間それに耐えることなど出来ないという確信があった。もう風紀委員などやめてしまおうか。そう思い始めるのは自然な流れだったと思う。不審ではあるものの、校門前で生徒を探すという行為自体はあいさつ活動などしなくても出来ることだ。委員会の人間も僕のことを嫌っているから、風紀委員を辞めると言えばきっとすんなり受け入れてくれるだろう。もしかしたら先生は認めてくれないかもしれないが、少なくともあいさつ活動に関しては生徒が自主的にやっていることだし、僕は明日からは参加しない、とするだけなら簡単に出来るはずだ。のろまな僕はそう決意するまでに実に半年もの期間を費やし、ようやく委員長に「話したいことがあるので明日の放課後時間を取ってほしい」と声をかけた、その次の日であった。希望の光というのはいつだってもうだめだと絶望したときになって初めて見えるものなのだ。そして、また、希望とは、いつも絶望と紙一重であるのだった。
その日委員長の腕時計は少し時間がズレていて、いつもの活動終了時間を5分ほど過ぎてしまった。そのことに予鈴が鳴って初めて気付いたあいさつ活動中の面々は、焦って教室へと向かい出した。僕はといえば今日でようやくこの活動を終えられるという開放感から奇妙な余裕のようなものを感じており、遅刻すると分かっていながらゆっくりと歩いて下駄箱へと向かった。すると、後ろから激しい足音が聞こえてきた。遅刻ギリギリで焦っているのだろう、と入学式の日を思い出してどこか懐かしさを覚えたところで、とある予感がした。考えてみれば、初日から時間ギリギリに登校していたような人間が、時間に余裕を持って学校へ来るはずはなく、であるならばあいさつ活動が行われている時間帯では彼女と会えるはずもなかったのだ。振り返ろうとしたその瞬間、彼女は僕の横を颯爽と駆け抜けていった。その一瞬に見えた横顔だけで、僕は、毎朝見てきた有象無象の生徒達とは明確に異なる確信のようなものを持つことが出来た。
「あ、あの!」
果たして、その声は彼女に届いた。一瞬立ち止まってこちらを振り返ると。
「わたし?」
と自身を指さしながら彼女は答えた。
「ばんそうこう!あの、入学式のときの」
緊張でしどろもどろになりながら、なんとか声を出した。そして今度は僕が、カバンを漁って例の絆創膏を取り出す。
「これ!使わなかったので、お返ししないとと思って」
走って彼女に追いついた僕は、いつも持っていたその箱を彼女の前に差し出した。
「え?わたし怪我してないよ?」
彼女は、何が起きているのかわからない、という表情だった。僕が言葉に詰まっていると、その静寂を埋めるように本鈴の音が鳴り響いた。
「やば!うーんと、心配?してくれてありがと!じゃあね!」
彼女は少し困ったような顔をして、あの日と同じように、僕が言葉を発する間もなく去って行ってしまった。
考えてみれば、というか考えるまでもなく当たり前のことだったのだ。僕自身彼女の記憶は朧気になっていたし、半年前に一度会っただけの人間を、半年前に一度起こっただけのありふれた出来事を、覚えていられるわけがない。僕はその出来事を特別なものだと勘違いしてしまったから勝手に覚えていただけで、そもそもあの時のことも自分で「取るに足りないどうでもいい出来事」と言っていたではないか。そんな、誰に対してか分からない言い訳のようなものを考えながら、僕はしばらくその場で立ち尽くしていた。やがて通りかかった教師に声を掛けられて、教室に戻った。そこには僕の居場所なんてなくて、それはこれまでと変わらないはずなのに、なぜだかいつもは感じないはずの孤独を強く感じた。
気がつくとその日の授業は終わっていて、委員会の時間になっていた。ここでもやはり僕は孤独で、会議中も周りからの視線がいつもよりも痛いような気がした。この頃には、というか本当は最初から、その孤独の正体は分かっていた。それは、最初からそこにあったのだ。それなのに、僕はそれを認められずに現実から目を逸らし、勝手な妄想をしていただけだった。運命の出会いなんて信じないなどと嘯きながら、孤独で弱った僕の心は、どこかでそれを期待してしまった。そして、致命的なことに、妄想に過ぎないそれを現実に持ち込もうとしてしまった。だから、当たり前のようにその妄想は打ち砕かれた。何のことはない。この孤独は突然生じたものでは無く、僕がずっと目を背けてきたものだったのだ。まったく、なんて愚かで、なんて惨めで、なんて恥ずかしく、そして、なんて救いようのない結末なのだろうか。全ての理由が後付けに過ぎないというのなら、この惨めな孤独の正体だって僕の自意識が勝手にでっち上げた虚像に過ぎないのかもしれない。けれど、ここまでの説得力を持っているのならその虚像は僕にとって最早実像よりも真実なのだ。このクソみたいな真実を認められてようやく、僕は始まってもいなかった高校生活を終わらせることが出来たように思う。
ここから先は終わりの続き、所謂蛇足というものになる。ようやく終わったなどと言ってもそれはあくまで僕の中での話であって、現実の高校卒業課程は続いていく。もう全ては終わっているのだけれど、それでもせめてもの抵抗として、孤独でも毎日学校に行ってやるし、嫌われても委員会は辞めないでいてやるし、嫌な顔しながら校門前で毎朝元気にあいさつをしてやる。過去にとらわれていても意味がないだとか、もう終わったことに拘っていても仕方がないだとか、ただ正論であるだけの妄言に付き合ってやる義理はないのだけれど、それでも敢えてそれに答えるのであれば、僕が拘っているのは僕が僕であることであり、更に言えば男子中学生であり続けることなのだ。それはつまり考えたって意味がないことに対してそれを理由に思考を放棄しないことで、仕方がないという結論を認めないことでもある。だから、意味がないことこそがそれに拘る意味なのだ。例えばもし今後仮に僕が絆創膏を使うことがあれば、僕はそんな僕のことを、取るに足りない大事件を「終わったこと」として処理できるようになってしまった僕のことを心底軽蔑するだろう。だから、そんなことにならないよう、僕には、これまで生きてきた僕の為に、僕を失望させない責任がある。過去の自分から預かった「終わったこと」を終わらせずに積み重ね、未来の僕に託し続けている限り、僕という存在そのものは終わらないはずなのだから。
さて、ここまで読んだあなたはどんなことを考えているのだろうか。ちゃんとこの大事件のことを理解してくれただろうか。もしかして「この程度のことを大げさに」などと馬鹿にしてはいないだろうか。もしくは、他人事のように「若かったな」だとか「恥ずかしい」だなどと的外れな感想を持ってはいないだろうか。そうでないことを祈ってはいるが、この手紙は仮にそうであった時のために書いたものだから、なんだか少し複雑な気持ちだ。僕は、この出来事を含めた全ての苦悩を、風化させるつもりはない。そんなこともあったな、と笑い飛ばすことを許さない。未来の自分だからといって、今の僕を下に見るようなことは絶対にさせない。だから、これは保険であり呪いだ。万が一にもこの気持ちを忘れることの無いようにする保険であり、今後一生この苦悩と向き合い続けさせる呪いだ。もし仮に、何かの間違いで既に僕という存在を終わらせてしまっていたのならば。謝罪は要らない。だって、されたってもう手遅れなのだから。その代わり、この手紙を読んで、少しでも苦しんで欲しい。しっかりと責任を果たせていた僕に、自分より年下の僕に引け目を感じながら、責任を放棄し、預かり物を次に託し損ねた自分を反省して欲しい。今の僕は、そうならないことを切に願っている。
今更だけれど、最後に一つ言い訳をさせてほしい。僕だってさすがに仮にもタイムカプセルに入れる手紙がこんな内容なのはどうなんだろうと思わなかったわけではない。だから一応、最後に少しくらい、それっぽいことも聞いてみようと思う。
10年後の僕へ。あなたは今、幸せですか?