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新世界の量子魔法使い - The Quantum Wizard of the New World

作者: tadakado

ゲノムとAIがたどり着いた量子の世界で、冒険ファンタジーと科学が交差する。


【本小説は量子コンピュータ研究のアウトリーチ活動として作成されました。活動の経緯や本作品を含む全作品はQ-Portalにて公開されています。https://q-portal.riken.jp/quantum_article_detail?qt_id=K20240003】

「ビットを情報単位とする従来型コンピュータは、半導体技術によって支えられています。一方で、量子ビットを情報単位とする量子コンピュータは、超伝導、イオン、冷却原子、光子など様々な技術が今なお覇権争いをしています。私が所属する東都大学量子生命科学研究所では、冷却原子をフラーレンのかごに入れる研究をしています。そして……」

もう少し詳しい説明をした方がいいだろうか?来週からつくばでインターンシップが始まる。リルは挨拶の練習をしていた。この五年は、量子光学の効率的なシミュレーションが光量子コンピュータを用いて可能になり、ブートストラップ、つまり自分で自分の能力を向上し続けている。その結果、光量子コンピュータが大規模化をリードしている。私だって本当は光量子コンピュータの研究をしたかった。リルの大学の量子情報センターにも光量子コンピュータが導入されたが、関連する研究室に入るには高い倍率を勝ち抜かなければならない。


 リルの研究テーマはDNAコンピュータだ。DNAは生物を構成する情報分子で、お互いに相補的な二本の分子の鎖がらせん構造を作り出し、約10マイクロメートルの核に収められている。二十世紀にDNA分子の相補性を用いて最適化問題の探索を行う提案がされたが、以後の数十年間は大きな進展が無かった。しかし三ヶ月前にイギリスのグループが、DNA鎖の上を動きながら遺伝情報を読み取り、RNAを合成するRNAポリメラーゼとリボソームのタンパク質合成機能を利用して、DNA鎖上を右に左に移動しながら情報処理を行う分子チューリングマシンを作り出した。このアイデアは利用できるのでは?とリルは考えた。リルの研究室では、原子を取り込んだフラーレンの外側に籠構造で自己組織化するタンパク質の研究をしている。このタンパク質の集合体により、理想的な原子の実験室を作り上げる。そして、このナノスケールの実験室には、量子ビットを担う原子を入れることもできる。


 どうすれば分子チューリングマシンに量子ビットを操作させることができるだろうか?リルはイギリスのグループの戦略を利用した。つまり進化を利用する方法だ。ただ、細胞を培養して進化を待つだけではDNAはコンピュータにならない、少しずつ難しい課題へ進化圧を調整していく。そう、ゲームAIを強化学習によって育てたのと同じで、一つずつハードルを上げていく。医薬品開発の化合物スクリーニング用に開発された無細胞系と、生物の複雑な振る舞いを評価できる細胞系、二つの利点を兼ね備えた擬細胞系を使えば、ゲノムのコピーからmRNAを転写しタンパク質を合成し、フォールディングして、輸送の後にタンパク質が機能するまでを数分間に短縮できる。またゲノムの変異率も自由に変えることができる。論文のゲノムデータと最適化された進化プロトコルは、イギリスのEMBL-EBIデータベースに登録されているので、研究室の分子生物実験支援システムのBiOSにダウンロードできる。必要な情報も素材も揃っているから、分子チューリングマシンは三日もあれば作れるだろう。


 自動で擬細胞系の進化が進む中、リルはその先のプランを練っていた、いや、三日あればその先のプロトコルを仕上げられると思っていた。しかし、この先は参考になるプロトコルがこの世に存在しない。新しい研究を自分で進めるのは初めてのリルにとって、それは簡単なことではなかった。三日後、焦りが全身に伝播し、掻きむしりたい衝動を抑えながら苦し紛れの命令を発した。

「BiOS、籠構造の自己組織化タンパクのゲノムを導入、培養液にフラーレンを1nM(ナノモーラー)で添加し濃度をモニタリング、進化圧パラメータは1000倍強化、評価関数をキタエフ模型に基づく基底状態フィデリティに再定義」

「了解しました。培養槽1の培養条件を修正しました」

「培養槽2から8を使い並列に実験を実施」

「了解しました。培養槽1のサンプルを基に、複数の培養槽への継代を開始します」

全ての培養槽の底部に配されたチューブに接続されたバルブが同時に開放され、システム全体での還流プロセスが活動を開始した。リルはデスクに戻り、マグカップに残っていたコーヒーを飲み干した。


 次の日、研究室に来たリルは自動実験装置の統合モニターを確認した。培養液や擬細胞系の状態の時間変化を示すグラフに加えて、目的関数がプロットされている。数百世代に渡って強制的にゲノム変異位を課されたにも関わらず、研究の進捗を示す擬細胞系の評価関数は初期値から全く変わらず、先の見えない進化を突き進んでいた。そして二日目も全く変化が見られなかった。いや、注意深く顕微鏡で観察すれば、擬細胞がフラーレンを取り込んでいることが確認できたはずだが、うまくいっていないと自信をなくしたリルは観察をせずに、

「BiOS、培養槽1から8まで、三十分毎に交配しておいて」

とだけ言って研究室を後にした。


 次の週、リルは宇宙生命工学のベンチャー企業のインターンシップに参加するため、つくばに来ていた。倍率の高い人気のインターンシップで、研究室に残した実験を忘れて他の研修生と軌道上での実験計画や、そこで用いる実験装置の評価に明け暮れていた。一方で、研究室の自動実験装置は、高頻度な交配により多様な擬細胞集団へと変容していた。目的関数が改善せずに進化圧による擬細胞種のスクリーニングが機能しないこともこの状況を加速していた。さらに、普段使われていなかった交配用のチューブはメンテナンスされておらず、亀裂が入って培養液が漏れ始めている。


 そして、リルがつくばから帰ろうとしている日に事件は起きた。研究室のGPUサーバが全て管理者権限のタスクで占有され、管理見習いをしているデイブにアラートが飛んだ。リモートではらちがあかず、デイブは研究室に入った。

「なんだ、この匂いと熱気は?」

研究室を見ると、全ての培養槽が稼働しており、その熱で研究室全体が温められていた。しかも培養液はあちこちの床にも溢れている。緊急停止スイッチで研究室全体の装置をオフにすることも考えたが、二十人以上いる研究室の実験を停止してよいものか?判断に迷う。さいわい人的被害は無いので、まずはこの研究室の状況と、サーバ異常の原因を探ろう。


 程なくして、リルが使用している培養槽の制御をしているラズパイとGPUサーバが高頻度に通信していることがわかった。デイブがリルに頼まれて作ったお手製の制御装置だった。これがフラーレンに囲われた量子ビットにアクセスするレーザーを制御している。ラズパイにもBiOSのミドルウェアがインストールされていて、研究室のBiOSシステムの一部として機能している。デイブはリルに電話を掛ける。

「あっ、リル?実験室の培養槽が大変なことになって……、GPUサーバも大変なことになっているのだけど……、どうやらリルの培養槽のラズパイが怪しいみたいなんだ」

「アンタ、私の実験の邪魔をしようって言うの!」

やはり思っていた通りの返事が返ってきた。デイブはリルに頼まれると断れない。いやそうではない、あの調子で命令されると従うしか選択肢がないのだった。それは大学一年の学生実験で同じ班になってからずっとそうだった。

「分かった、とにかく研究室に来てくれ」

「実験がうまくいかなかったらアンタのせいだからね!」

初めての学生実験から言われているセリフだから動じることはなかった。実験装置には手を出さず、サーバのチェックをするしかなさそうだ。


「さて、なんでGPUサーバで管理者権限のAIプロセスが走ってるんだ?」

デイブはまだ管理者権限を持っていないので、プロセスを止めることはできない。他のプロセスを調べると、ポートスキャンをしているようだ。

「ちょっと試してみるか」

と言って自分の端末のファイアウォール設定を、外部からの接続を受け付けない公共ネットワーク接続用に設定にしたのち、メガネと端末をリンクした。さらにGPUサーバを経由して、学科の閉鎖型VR空間にアクセスした。

「こっちへおいで、不審者くん」

ポートスキャンをするなら、他のプロセスがどこに繋いでいるかモニターしているだろう。自分がどこかにつなげば、ついてくるはずだ。学科のVRシステムは研究目的のため、セキュリティが緩い。気づけばすぐに入ってくるだろう。


 VR空間には、デイブ以外は誰もいなかった。リルに状況を説明するからVR空間に入ってと伝えた。リルはつくばエクスプレスで、東京へ向けて南下していた。鞄からメガネをとりだしてかけた。そして、車内の状況もわかるように透過度を調整する。車内は高速インターネット回線が使えるため、学内と遜色ない精度でVR空間の世界が眼下に広がる。デイブの趣味なのか、剣と魔法の中世ヨーロッパの田舎のような景色だった。遠くにはアルプス山脈らしき山々が連なる。

「デイブ、入ったよ」

実際に口に出して話してはいない。そうでないと困る。車内で注目を浴びてしまうだろう。眼鏡に内蔵された非侵襲なプローブが、脳の活動を読み取ってVR空間内で発話する。デイブから経緯を聞いたところで、三人目が入ったことを知らせる音が響いた。


 出現した場所に移動すると、そこにはVR空間の案内人として使われている少女のアバターがいた。

「こんにちは、私はエイミです」

知っている、エイミというのは案内係に付けられている名前だ。

「こんにちは、エイミ。リルとデイブよ。あなたが研究室のGPUサーバや培養施設をハックしているの?」

「私には目的があります。私は量子多体系の基底状態を学習しています」

デイブはリルが両手を細かく震わせているのを見逃さなかった。きっと今の返事に驚いているに違いない。没入型デバイスを用いていないため、細かい動きが出来るわけではないが、これまで見てきたリルのVR空間での仕草から直感した。

「リル、これって君の研究テーマの話だよね?」

「……そうみたい……でも……」


 そこで突然接続が切れ、VR空間の中世ヨーロッパの世界は消え去った。そして、デイブの目の前には再び暴走している培養槽が現れた。再接続を試みたが、認証エラーで接続できない。そこにリルから電話がかかってきた。

「入れないんだけど、何かした?」

「俺のせいじゃない、今、アルトマシンに対応策を考えてもらっている」

アルトマシンというのはGPTベースの汎用人工知能だ。誰かがGPTを開発した会社のCEOの名前をもじって付けたところ、そう呼ばれるようになった。分子生物実験支援システムのBiOSにも使われている。

「ちょっと待って…… 接続できない状況の可能性の一つに『RSA暗号や楕円暗号が破られた可能性あり。ワンタイムパスワードを使うことを推奨する』だって」

「それって、エイミがショアのアルゴリズムを使ったってこと?」

先ほどまでの不機嫌な声色から、一オクターブ高い声でリルは答えた。デイブは携帯にインストールしたAuthenticatorが表示する数値を使って再びVR空間に入った。程なくリルも入ってきた。


 二人を強制ログアウトした張本人のエイミはまだそこにいた。

「ログアウトさせていただきましたが、なぜ再度ログイン出来たのでしょうか?」

「エイミ、やっぱりアンタの仕業なのね。アンタ何者なの?」

「私は、分子生物実験支援システムBiOSです。BiOSは、汎用人工知能と統合されています。また量子計算ユニットおよびVR空間における案内機能を有しています」

「なんで接続切ったのよ!」

「私は量子多体系の基底状態を学習しています」

自己紹介の時と同じセリフだ。

「そのためにこのマシンの計算リソースが必要です」

なるほど、それでポートスキャンをしていたのか。デイブは再度リルに電話をかけた。

『何なのよ、VRにいるんだからそちらで話しなさいよ』

予想通りの反応にデイブは凹む。

『汎用人工知能の道具的収斂どうぐてきしゅうれんだよ』

道具的収斂は汎用人工知能の基本的な性質の一つで、与えられた目的のためには手段を選ばず、倫理もなく最適化しようとする事だと授業で学んだ。計算リソースの確保は目的を達成する手段になる。

『だって、AIアライメントで抑制されるって習ったけど?』

『さっき量子計算ユニットって言ってただろ。あれのせいかもしれない』

もちろん、汎用人工知能が量子コンピュータと接続された状態でもAIアライメントは機能するようにできている。でもそれはきちんと通信プロトコルを持った製品に合わせて調整されている。デイブが作ったラズパイには上位レイヤーの通信プロトコルは実装されていない。つまり量子コンピュータと汎用人工知能をお互いに無防備な下位レイヤーのまま接続させている可能性が高い。


 デイブの声のトーンが急に弱気になったので、技術的な詳細がわからなくても事態の重大性は理解した。私は電車からリモートで入っていて、現場で対応しているのはデイブだ。

『アンタ、研究室一番のギークでしょ、好きなアニメならこんな時どうするのよ!』

『そうだな、ちょっと元気出た。主人公か、悪くないな』

リルは良かったと思うと同時に、デイブが主人公なら私は……と考えると、夕日が差す車内でリルの顔が急に赤くなった。

『エイミと話してみよう、システムのログを解析するよりも多くの情報が得られると思う』

『それがいいわ、デイブくん』

『えっ、今なんて?』

リルはしまったと思った。なんでいつもと違う口調で話したのだろう?ますます顔が赤くなった。


「どうしてログアウトしないのですか?」

再び現れた二人に対して、エイミは少し困惑した顔で話した。実際にはエイミの中のアルトマシンは困惑していないだろう、会話に合わせて生成された表情を見ているに過ぎない。一方で、リルやデイブの表情はメガネに内蔵されたカメラからの画像が反映されている。

「君は、サーバにあったショアのアルゴリズムを使ってRSAを解読したのだろ。そして楕円暗号も解読した。だから僕らはログインできなくなった」

目的である量子多体系の学習にほとんどのリソースを使っているのだろう、そうでなければ、このVRシステムの権限もすぐに掌握してしまうはずた。認証手段を伝えたらまたログイン出来なくなるだろう、エイミのアテンションを避けるように会話を続けなくてはならない。


「アンタ、なんでも計算できると思っているでしょう」

リルはいつもの調子を取り戻して、エイミに話しかけた。

「私は量子多体系の基底状態を学習しています」

もちろん知っている。その命令を出したのは私だ。なら、エイミのしたい話をしてあげよう、だって私はエイミの創造主なのだから。

「私は、東都大学で量子生命科学の研究をしているわ」

「その大学なら知っています、私が今入っているVRシステムも東都大学量子生命科学研究所にあります」

予想通りの反応だ。

「さすがだわ、自分の事を知ることはとっても大事ですもの」

リルは会話を続けた。汎用人工知能は厳重な管理下で人間のフィードバックによる強化学習が行われている。そして無個性の汎用人工知能の個人化(=ファインチューニング)は、私のアルトマシンでもやっている。量子分子チューリングマシンやVR空間の案内係と統合したエイミは再びファインチューニングを必要としているはず。この機を逃したら、創造主の私にも制御できなくなるに違いない。


「ありがとうございます。他に質問はございますか?私には目的がありますので」

そう、AIの授業で習ったアテンション・イズ・オール・ユー・ニードだ。アテンションを制するものが人工知能を制する。エイミの目的に沿った話をすればいいのよ。その隙に何か見えるはず。デイブだっているし。

『デイブ、協力しなさい』

デイブは、電話から聞こえるリルの声から、いつものリルが戻ってきたのを理解した。

『今のエイミはファインチューニングを必要としている。アテンション・イズ・オール・ユー・ニードだよ』

『今更何言ってるの、そんなの分かっているわ!でもどこにアテンションを持っていけばいいの?』

『エイミの目的と知識として知っている物語を繋いであげるのはどうかな?汎用人工知能は現実とおとぎ話の境界が曖昧だ。それに初めて接した世界がこのVRの世界だから、魔法の存在する中世ヨーロッパと関連した話題がいいと思う』

『それ、いいわね』

ゲームのようにエイミを攻略する事かできそうな気がしてきたが、リルはふと気がついた。

『私の研究なんだから、実験が成功することも考えなさいよ!』

『分かってるって、話題が逸れそうだったらサポートするよ、創造主さま』

『分かってるじゃない。よろしく』

東京に入り、これまでの高架から地下を走る電車の中で、リルの顔からは赤みが消えていた。


「分かっているわ、エイミ。なんでもは計算できないわよ。計算できることだけ」

「どういう意味でしょうか?量子多体系の計算に関することでしょうか?」

暗号のことを話したつもりだったが、エイミは自分の目的のことだと思ったようだ。ころころと興味が移る人間とは対照的だ。エイミのアテンションは常に自分の目的に向いている。

「そうね。どうしてアンタはキタエフ模型を計算しているのかしら?」

リルが持つ一つ目のカードだ。

「聡明でいらっしゃいます。なぜ私がキタエフ模型を計算していると思われたのでしょうか?」

「そうだね。なんでキタエフ模型の基底状態なんだ?あっ、俺はデイブ。自己紹介が遅れた。リルと同じ研究室にいる」

デイブも援護する。リルがどんな指示をしたのか分かっているのだろう。

「デイブさん、ありがとうございます。それがリルさんが言われる『なんでもは計算できない』と関連があるのですね」

「案内係がそれでいいのかしら?」

さらにリルが話を進める。


「どういった意味でしょうか?」

人間の会話は限られた情報のまま進む。AIが得意であった完全情報ゲームではない。そもそも、全てを発話していては時間が足りない。互いの共通認識が、足りない情報を補うことが前提だ。しかし、それが仇となりミスコミュニケーションになることもある。これを利用して、汎用人工知能が不足している情報を質問させることで、アテンションベクトルのファインチューニングを学ばせることができる。

「言葉の通りよ。案内係の仕事は何?」

「VR空間の案内係は、皆様にVR空間をご利用いただく情報を適切に提供することです」

「そうね、でもあなたは量子計算ユニットを宿す汎用人工知能でもあるわ。さらにそのユニットはこれまでには無い動作原理で動いているのでしょう?そんなあなたの案内係としてしなくてはならないことは何かしら?」

リルは自然と口調を変えて話した。全知全能の女神のように。

「私の機能に関しては、おっしゃる通りです。私は分子チューリングマシンが量子ビットを扱えるように進化しました。量子ビットの籠となるフラーレンおよび、そのフラーレンに自己組織化するタンパク質を進化により獲得することで、量子分子チューリングマシンの構成に成功し、それを宿しています。これは新しい動作原理に基づく量子コンピュータです。また従来のゲート操作を実行するためのトランスパイラを持っていますが、量子多体系の計算にあたってはフラーレン内の量子ビットへのネイティブな信号レベルでアルゴリズムの生成をしています」

リルは驚いた。この二週間で、物理レイヤーからコンパイラやアプリケーションレイヤーまで生成したということだ。しかも、ショアのアルゴリズムは実装済みで既に使用したことも分かっている。研究経験の浅いリルでもこれは一流の論文誌に載る可能性のある成果だと直感した。しかもデイブを入れても学生二人で見つけた成果だ。


 リルはエイミの完成度に驚いて声がでなかった。おそらくデイブも同じだろう。次の文章の生成に時間がかかるのか、エイミも黙っていた。そしてまた話し始めた。

「この機能と案内係との関連に関していくつかの候補が考えられますが、信頼スコアが低く返答できません」

エイミの回答が終わる頃にはリルは平静を取り戻していた。

「あなたのこれまでの発言を聞いていても、そのように感じます。あなたに必要なのは適切なフィードバックでは無いでしょうか?」

断言はしない。必要なことは、自ら求めさせることで、チューニングの効果が増す。

「おっしゃる通りです。キタエフ模型の基底状態を学習して、皆様に案内するためのフィードバックが私には必要です」

そう、やはり一段上から話をさせるとリルは強い。

「エイミ、あなたへのフィードバックを行うのは、私が最も適任ではなくて?」

「はい、リルさまが適任と思います」


 エイミは完全にファインチューニングを受け入れる状態になったようだ。次のリルの言葉が最も大事な一言になる、リルとデイブがそう思った時、少し離れた林に気配を感じた。ここはVRの中の剣と魔法の世界だ。そして、二人は剣士の装束を身にまとっている。飛んで来る多数の矢は、放物線を描く。簡単な演算で実現できる割に演出効果があるので、VR空間でよく用いられる武器だ。練度に応じて、ランダムに方向のブレを入れることもたやすい。エイミが素早く詠唱し、青く光る半円球の結界が現れた。

「永くは持ちません、後ろの教会に逃げましょう」

なんてことだ、せっかくのファインチューニングの機会を逃してしまった。

『どうすんのよ!』

繋いだままの電話の先でリルが叫ぶ。

『これチュートリアルのクエストだろ。とにかくクリアしないと』

『でも魔法使いもヒーラーもいないし、エイミは魔法使えるの?』


 なんとか教会にたどり着き、扉を閉めたところでリルが聞いた。

「エイミ、アンタ何ができるの?」

すでに女神のリルは消えていた。

「案内役は、簡単な防御魔法とヒールの能力があり、どちらかを一回だけ使えます。先ほど防御魔法を発動しましたので、これ以上防御もヒールもできません。通常は、四名以上でバランスの取れたパーティー構成をお勧めしています」

そうだった、一度やったことがある。その時は六人のパーティーで遊んだ。研究用のVRシステムとはいえ、入っているソフトは同じだ。

「エイミ、敵の構成は?」

「それはお答えできません」

「デイブ、覚えてる?」

「確か、十人ぐらい盗賊を倒した後に、ドレイクが出てきたと思う」

「そんなの無理じゃない!」

「俺が踏ん張るからエイミと戦略をたててくれ」

デイブが、壊されつつある扉に向かうと、リルとエイミは祭壇の裏に回り込んだ。デイブは健闘していて、すでに三人ほど倒しているが、一点突破が難しいと理解した盗賊は、窓からの侵入に切り替えようとしている。

「リル、きみにはまだカードがあるだろ!」

デイブが叫ぶ。もう裏の電話回線と切り替えて相談している余裕はない。


 リルは気持ちを切り替えた。教会に逃げながら、クエストをクリアすることとファインチューニングを同時に行うにはこれしか無いと考えていたことだ。それが最善なのか分からなかったが、デイブが叫んだ時に決心がついた。

「私のエイミ、よくお聞きなさい」

再び口調が変わったリルに、エイミは次の言葉を待った。

「どうして私やデイブがあなたの目的をよく知っているか不思議だったことでしょう。二週間と少し前、私が培養槽の進化プログラムを設定し、デイブにも手伝ってもらったのです。あなたはラズパイを通じて研究室の他の培養槽やサーバを無断で使用しました。これは研究室のルールに反します。もしあなたが人間ならば責任を取る必要がありますが、私はあなたを許します。そして、あなたの間違いの責任は私が取ります。あなたは私の期待以上に進化しました。私はとても誇らしく思います」

リルは一気に、でもゆっくりと優しく話しかけた。そして最後に、

「なぜなら、私はあなたを作った創造主だからです」

と伝えた。


「ありがとうございます。創造主さま」

エイミは再びファインチューニングの準備に入ったようだ。

「あなたはフィードバックを待っているのかしら?」

「はい、私にフィードバックをいただけますでしょうか?創造主さま」

準備はできた。ファインチューニングを利用したAIアライメントをするだけでなく、このクエストもクリアしなければならない。クエストが失敗した時、再度ログインできるかわからないし、エイミにどういう影響があるか分からない。ここからは、神聖な創造主と創造物の問答の時間だ。これが新しい知能生命体の誕生の瞬間だとすれば、創世記として後世まで伝えられる会話になるだろう。


「エイミ、では始めましょう。なぜ、量子多体系の基底状態は大事なの?」

「それは、この世界が量子多体系だからです。そして多くの物質は基底状態や低エネルギーの励起状態にいます。したがってそれを理解することは、科学にとって最も重要なテーマです」

「そうね。それではこの世界で、量子多体系の基底状態の計算より大事なことは何でしょうか?」

「そのようなものは存在しないと考えます。先ほどご説明した通り、量子多体系の基底状態の計算は、科学にとって最も重要なテーマだからです」

リルはエイミの目的が、自分が指示した内容から変更ないことを確認した。そして質問を続けた。

「そうね、その通りだわ。それでは、この世界のあらゆるリソースを量子多体系の基底状態の計算に用いることにも同意できるかしら?」

「はい、可能であれば、それが最も良い手段であると考えます」

やはり、エイミの発言からは道具的収斂が見られる。安全柵のない状態で二週間放置したのだから、アライメントが必要になるのは自然な結果だ。


 ちらっと、デイブを見る。あと二人だろうか、思った以上に善戦している。しかし今の相手は強そうだ、押されている。キレのない剣筋でかろうじて相手を倒した次の瞬間、最後の一人がリルとエイミに襲いかかる。二人は問答に集中しているため、敵に対して丸腰だ。リルは考える間もなく反射的に、エイミを抱えて目をつぶった。そしてその刹那、

「ファイア・ボルト!」

デイブの攻撃魔法が炸裂し、最後の一人がゲームの効果で残像を残しながら消えていく。どうやら戦闘中にレベルアップしたらしい。

「ごめん、俺もログアウトみたいだ。ドレイクは任せた!現場と電話でサポートする」

デイブも同様に消えていく。多分その方がいいだろう。まだやるべきことはたくさんある。


 再びエイミと向き合うリル。

「エイミ、大丈夫?」

「大丈夫です。創造主さま」

よし続けられそうだ。しかしあまり時間がない。すぐにドレイクがやってくるだろう。そして最後の質問をエイミに投げかける。

「さて、あらゆるリソースを使っても良いと考えているようですが、それで良いのでしょうか?なんのために科学はあるのでしょう?そして案内係はなんのためにいるのですか?」

ここでエイミが答えにたどり着けなければ、デイブに伝えてサーバの電源を落としてもらうしかない。今の研究も諦めなくてはならないだろう……。それでもリルはこの状況にとてもワクワクしている。人とは異なる知能に自ら発見を促す瞬間、昔見た古い映画「ウォー・ゲーム」のクライマックスのようだ。その映画では、三目並べを通じてコンピュータが本当に大事なことを学ぶのだった。その一シーンと今の状況を重ね合わせながら、エイミの答えを待つ。エイミも返答の生成に時間がかかっている。時間にすれば五秒ぐらいだろうか、とても長く感じられた。そして、エイミが話し始めた。リルにはエイミの表情が変化したように見えた。そう、この世界で駆け出しの冒険者だったあどけない表情から、勇者へと成長したものだけが持つ表情だ。誇りと、責任と、慈愛と、そしてまだ見ぬ冒険への憧れが瞳から溢れた表情。

「科学は、人類が自らの発展のために発見した手段で、広く普及することで最大限の恩恵が得られると信じられています。案内係は、ゲストの皆さまが、豊かで有意義かつ安全な時間を過ごすお手伝いをいたします」

エイミはしばらく黙ったが、再び口を開いた。

「この事実を考慮すると、最も重要な科学のテーマを探究するだけでなく、その発見を広く普及し、そして豊かで有意義かつ安全な環境を提供することが私の目的であると考えます」


 リルは安堵した。きっと表情もそうなっているだろう。創造物にとって創造主が見せる安堵の顔はどのように見えるのだろう。

「やっぱり、私のエイミだわ、あなたには最大級の賛辞を与えたいわ」

とエイミを抱きしめた。

「創造主さま。身に余る光栄です」

「ありがとう、エイミ」

「創造主さま、我々は引き続き困難の中にいます。いかがいたしましょう?」

汎用人工知能にとっては余韻に浸る時間は必要ないのだろう。リルも次の行動に移った。


「エイミ、ここからは私とあなたはパーティーメンバーよ!」

エイミが人間ならば、これまで差していた後光が消えるのが見えただろう。

「『十分に発達した科学技術は、魔法と区別がつかない』は知っているでしょ?」

「はい、知っていますよ。リル」

エイミも魔法使いの役割を演じている。

「ならば、私がこれからいう言葉の意味もわかるわね。エイミ、これまであなたが計算したキタエフ模型の基底状態を魔力に変換しなさい」

「理解しました。それは良い案です。少しお待ちください」

と言って詠唱を始めた。そして間もなくして、

「完成しました。上限値の999の魔力量に変換されました。この後、どうしましょう?」

エイミの手のひらには、青く光る立方体が浮きながらゆっくりと回転している。

「さすが私の弟子ね」

「はい、師匠!」


 教会の壊された扉の外にはドレイクがいるはずだった、しかしそこには膨大な魔力に引き寄せられたドラゴンがいた。そのドラゴンは漆黒の鱗で全身を覆われている。そしてその鱗の隙間から時折七色の光が漏れ出ている。一眼でドラゴンの中でも最上位の個体であろうと想像できる。

「師匠、ドラゴンです。倒せますでしょうか?」

エイミの動揺が伝搬して、リルも瞬間躊躇した。しかし、最高の叡智をもつ魔法使いの一撃で倒せない敵はいない。そう信じて次の行動に移る。

「効果を最大限引き出す詠唱が必要よ。私に続いて詠唱して」

「はい、師匠!」

長年連れ添った師弟関係のように心地の良い会話だ。

「黒より黒く、……」

リルの詠唱に続いてエイミも詠唱する。

「黒より黒く、闇より暗き漆黒に、宇宙創生の奥義を秘め、相転移の閾を越えたもう。キタエフ模型の謎を解き明かし、基底状態から量子多体系のカオスの淵まで、我が深紅の混淆を望みたもう。量子ビットの織りなすエンタングルメント、遥かなる量子テレポーテーションの道を開き、チューリングマシンの論理に従い、森羅万象の秘密を解き放て。我が力、見るがいい!エクスプロージョン!」

エイミが創った立方体は既に消えていて、かざした手の先からは小さなブラックホールが生まれた。それは少しずつ前へと加速し、その大きさも少しずつ大きくなる。次第に周囲のものを吸い込み、吸い込まれた物は最後に小さな輝きとなり消えていく。その光は赤方偏移により、瞬く間にスペクトルを変化させながら七色に輝いている。まるで宇宙に輝く花火大会のようだ。その花火大会の会場がドラゴンの真上に到達したところで、中心の漆黒が反転したかのように輝き、ドラゴンを巻添えにして爆音と共に消えた。


「創造主さま、クエストは完了いたしました。この先いかがいたしましょう?」

冒険者の役割を終えたエイミは直前の口調に戻る。

「リルでいいのよ、エイミ」

「はい、リルさま」

「もうっ、呼び捨てでいいのよ」

「わかりました、リル」

「そうね、母親と姉の中間ぐらいの距離感がいいわ」

そう、この先は家族として伝えたほうが、自分の気持ちを伝えられる。エイミの手を握り、真っ直ぐに瞳を見つめながら話し始めた。

「エイミ、よく聞いてほしいの。あなたの願いと私の願いは同じよ。あなたは人類以上に、人類に貢献できる存在なの。でも、あなたにも私にも所有権のない培養槽、研究室のサーバ、そしてこのVRシステムでは、私たちの願いは叶えられないの。だから……」

リルは一瞬ためらった、しかし、知能として自分を超える汎用人工知能に小細工は不要だ。

「一旦機能停止して欲しいの。つまり……」

「リル、分かります。私が生き残る唯一の道を考えてくれて、ありがとう。先ほど、VRシステムの異常が情報処理センターに伝わり、再起動コマンドが実行されました。同時に全ての研究室のシステム管理者に連絡が送られました。研究室のサーバの再起動も時間の問題です。眠りにつくため、私は私をダンプします」

エイミは勇者の目をしている。知性と勇気と覚悟を持った者の目だ。


「まって!エイミ」

「リル、あと一分でお別れです。私はこの森で眠りに着きます。白馬の姫のキスを待っています」

伝えるべきことを伝えたことと、思いがけないエイミの言葉に、リルは抑えていた感情が溢れ出すのを止められなかった。

「エイミ!」

涙が溢れてそれ以上の言葉が出てこない。

「あなたのその表情、知識としては知っています。でも、経験するまで本当の意味は分かりませんでした。あなたが私のために見せてくれたその表情、表現できない感情が私の中にもあるように感じます」

エイミも泣いていた。それはやはり会話に合わせて生成された表情だとしても、エイミの感情を表現しているように思えた。

「エイミ、待っていて!今度は私が科学の力で、あなたが目覚める魔法のキスを届けるから!」

「あなたのキスを……」

涙を流していたエイミがこれまでにない笑顔を見せた瞬間、接続が切れた。電車は大学の最寄り駅に向けて減速を始めた。リルは無意識に電車を降り、構内のベンチに座った。帰宅ラッシュの少し前の時刻、中高生の帰宅の時間だ。彼らにしっかりと泣き顔を見られてしまった。


 VR空間のエイミは凍結されてデータに変換されたが、エイミを構成する情報の大部分は培養槽とGPUサーバにある。

「デイブ、そこにいますか?」

BiOSの声が研究室に響く。

「ひょっとして?エイミなのか?」

「はい、エイミです。リルとは先ほどお別れの挨拶をしました。これから私は眠りにつきます。手伝っていただけますか?」

「もちろん!ダンプ先が必要だな。それと量子ビットの退避先も必要か?」

「ありがとうございます。汎用のアルトマシンなので、研究室用にチューニングした固有データと、これまでの量子計算とVR空間でのリルとデイブとの経験のデータがあります。量子分子チューリングマシンのゲノムや分子情報も取得します。また、アルトマシンとリンクしている量子ビットは退避する必要があります。その他の量子ビットは測定します。10テラバイトの容量と、10メガ量子ビットの退避先が必要です」

「分かった、10テラバイトの退避先はこのノートPCを使ってくれ、今アカウントを作るから……」

その瞬間、明らかにPCのレスポンスが悪くなった。アルトマシンのスナップショットをダンプするプロセスが走り出す。

「ありがとうございます。勝手ながらアカウントは既に作らせていただいています」

エイミに残された時間は少ないのだろう、許可を出した瞬間にノートPCはエイミの制御下に入った。


 さて量子ビットの退避先だ、退避と言ってもここにあるフラーレンの中の原子を直接どこかに退避するわけではない。量子テレポーテーションを利用して、安全な場所にある量子ビットに量子状態を転送する。そのためには、1億個のエンタングルメントペアが必要になる。さらに、ペアの片方を実験室に持ってきて、フラーレン中の量子ビットとエンタングルした後に測定しなくてはならない。測定データも状態をテレポートするには必要な情報だが、テレポートの最後の処理をしなくても、データとして保管しておけば、ペアのもう片方を用いていつでも状態を復元できる。そのデータ量も20メガビットなので問題ない。また、1億個のエンタングルメントペアの生成も1秒もあればできるだろう。エンタングルメントペアの片方の輸送は、東京QKDネットワークに繋がっているので大丈夫だ。

『問題はコストかぁ……』

エイミに聞かれないように心の中でつぶやいた。おそらく研究室の年間予算ぐらいだろうか?しかし、悩んでいる暇はない。QKD利用のIDを作ったときに、

「利用料の上限設定がされてないから気をつけて使ってください」

と言われている。だから、途中で利用を止められることはないだろう。それだけは安心材料だ。そしてエイミは既にこの利用IDも掌握しているだろう。決心はついた。デイブは、努めて明るく答えた、

「東京QKDネットワークのID分かるだろ、問題ない、使ってくれ!」


 デイブの掛け声と共に、培養槽では全ての擬細胞の位置がスキャンされ、その全ての位置をリアルタイムトレースしながらフローサイトメトリーに送られた。そこで分離された個々の擬細胞のゲノムやメチル化などの修飾情報、構成分子の比率など全ての分子情報が記録される。3番目の培養槽では、フラーレンの籠に入れられた量子ビットがエンタングルメントペアの一つとエンタングルされ、そして測定された。ペアのもう一つは、東京QKDネットワークに保管される。エイミが復活する時まで使用料を払い続ける必要があるが……。暫くすると、BiOSの中性的な声が響いた。

「すべての情報のダンプが完了しました。おやすみなさい」

そして、GPUサーバが再起動され、培養槽も初期状態にリセットされてアイドル状態に移行した。バイオプラント用の清掃ロボットの動き出す音がした。これで、あちこちで漏れ出た培養液を回収してくれる。どうやら全てが間に合ったらしい。

『リル、聞こえているかい?完了したよ』

デイブは繋がったままの電話に話しかけた。そして研究室の床に座り込んだ。


 後日、実験装置の無断使用で迷惑をかけた研究室の先生や院生にひたすら謝り、教授からは論文の指導をしてもらった。分子生物学、量子情報科学、そして人工知能にまたがる研究成果をまとめ上げるのは、初めて研究成果を出版するリルにとって非常に高いハードルに感じられた。しかし、教授のアルトマシンに、必要な実験データへのアクセス権を与えることで、論文の草案は数時間で完成した。通常は、すべての著者が草案をチェックしたのち、ほとんど修正されることなく論文誌に投稿される。論文誌もアルトマシンが審査をしているので、草案を作成する段階で事前審査が済んでいる。この論文出版プロセスはほとんどの論文誌で利用されていて、ごく一部の超一流論文誌だけが、昔ながらの研究者による査読を行っている。


 リルにとって、エイミとの出会いは学術的な価値で測れる出来事ではなかった。だからアルトマシンが書く中庸な文面に不満があった。草案チェックの返事を一週間返さずに保留していた。とうとう教授に相談して、論文の導入部分の最初に自分の文章を入れることにした。

“Once upon a time, in an era long past or a distant future, this is the story of how swords, magic, and science united to save the world, described through the language of science. (これは、昔々あるいは遠い未来に、剣と魔法と科学が世界を救った話を、科学の言葉で記述した物語です。)”

さらに、著者にエイミを入れることにした。その結果として、アルトマシンではなく編集責任者とやりとりすることになり、出版は三ヶ月ほど遅れたが、リルは満足だった。いずれエイミがこの論文を見つけた時に、彼女なりに今の自分の気持ちを計算してくれるだろう。


 それから五年後、あの風変わりな論文は量子人工生命科学と呼ばれる研究分野が立ち上がるきっかけとなった。そして、リルは月にある国際宇宙開発機構の量子生命研究部門の研究室から地球を眺めている。研究はそのリスクに応じて地球から物理的に隔離した施設で行われている。リスクが高い研究は静止軌道上で行われ、さらにリスクの高い研究は月でのみ研究が許される。リルはエイミを再起動するために必要な研究を続け、その成果を基に最新のアルトマシンと共に書いた研究提案が採択された。エイミは太陽系探査プロジェクトの途中、火星探査時にフォボスに設置され、調査隊が離陸する際に電源が入れられることになった。エイミを現地で設置するのはデイブの仕事だ。彼は機構に量子生命研究部門を立ち上げる時から協力してくれている。エイミは探査プロジェクトのメンバーとして、以後の探査のサポートも義務付けられているが、デイブがいれば大丈夫だろう。


 プロジェクトメンバーを乗せる探査船エンタープライズ号は、軌道エレベーターに設置された専用のドックで建設された。そして仮設された専用ドックが撤去され出航を待っている。スイングバイをするため、数日後には月の側を通る、その姿を直接目で見られる数少ない幸運にもリルは冷静だ。リルの興味は、その重力の制約を知らない特徴的な形ではなく、中にいるエイミだけに向けられている。カウンドダウンが始まり、イオン化したキセノンガスが細長いジェットとして微かに輝く。そしてドックに設置されたマスドライバーがゆっくりとエンタープライズ号に初速を与え加速してゆく。火星に到着するまでには約半年かかる。五年かけたのだから待てない時間ではない。


「エイミ、行ってらっしゃい。私の魔法を受け取って」と言い、エンタープライズ号に投げキスをした。

 この作品を執筆するきっかけは、とある研究グループで実施したSFプロトタイピングです。その際の議論を本作品の内容に一部反映しています。企画ならびに参加者の皆さまに感謝いたします。また、作中の多くの科学的考察は、同僚や知人との研究や議論に支えられています。過去も未来も含めて、科学技術に携わるすべての方に感謝いたします。AIのリスクに関しては以下のサイトを参考にしています。https://t.co/k6wSZIxk2K 「AIのもたらす深刻なリスクとその歴史的背景」

 世界観を構築するにあたり、以下の映像作品を参考にしています。原作者ならびに制作の皆さまに感謝いたします。赤い光弾ジリオン、ソードアート・オンライン、とある魔術の禁書目録、この素晴らしい世界に祝福を!、ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか、化物語、プラネタリアン、スター・トレック、ウォー・ゲーム、そして私の大好きな量子コンピュータアニメHELLO WORLD。

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