9.婚約者さまを守ります
青紫の髪を綿雲のようにふわふわと靡かせ走っていた少女は、とある部屋の前で床を滑るように止まる。
ぜぇぜぇと小さな肩を揺らしながらミュウナ・エクォトは思いきり扉を開け放ち、叫んだ。
「――お母様ぁっ! 婚約者って、わたし、エスクォールと結婚するのっ!?」
突然部屋に入ってきて声を荒げる愛娘を気にすることなく、ミュウナの母親であるモモコ・エクォトは丁寧な手つきで紙に折り目をつける。
「わ、わたっ私には勇者さまがっ! 勇者さまと結婚するって決めてて……ううん、お姫さまより勇者さま守らなくちゃいけなくて、それで……!」
ミュウナは、『星になった勇者』という絵本に出てくる主人公――勇者さまと結婚すると四年前から決めていた。
そして五年経ち、九歳になった今もその気持ちは変わらない。
慌てて説明をし出した様子を見て、モモコはやがて手を止めた。
「結婚するかどうかは、大人になった時二人で決めればいいわ」
少しの沈黙の後、ミュウナは太陽に透かしたガラス玉のようなグレー混じりの茶色の目を丸くして何度かパチパチと瞬きをした。
「へっ? いいの?」
「うん」
「な、なんだぁ。びっくりしたぁ……」
一気に緊張がとけてミュウナはぐにゃんとうなだれた。
「ほら、こっちにおいで」
差し伸べられた手に誘われるままソファに座るモモコの膝の上に頭を乗せ、体を丸めて寝転がる。
ふふと愛おしそうに笑う小さな声が上から落ちてきた。
「お留守番ごくろうさま。一人で怖くなかった?」
「う〜ん……」
ゆっくりと伸びてきた細長い手がミュウナの瞼の上をそっと優しく撫でる。
くすぐったくなって思わず瞼を閉じた。
「えへへ。二週間なんてあっという間だったよ」
ひんやり冷たい指先はやがて眉の上を滑り、ふっくらとした頬の輪郭をなぞっていった。
ふと瞼を開くと、ミュウナそっくりな透明感のある茶色の目が柔らかに細められた。
「いい子ね」
心の底から漏れ出たような囁き。
そのたった一言で、リボンの結び目のように固まっていたミュウナの心がシュルシュルと解かれていく。
ここだけ世界から切り離され時が止まっているみたいに感じられて、久しぶりに深く息を吸えた気がした。
するりと垂れた一束の髪を自身の耳にかける何気ない仕草に、ミュウナは目が惹かれる。
(きれい……)
光を帯びると虹色に煌めく不思議で特別な漆黒。
瞳の色よりも、そんな髪が似ればよかったのにと思う。
何か言いた気な視線に気が付いたモモコは再びミュウナの頬を撫でた。
「大丈夫、お父様もすぐに戻られるわ」
ミュウナの父親エシドは、リンデと共に学園へ向かったきりまだ戻っていない。けれどミュウナは距離の関係もあると理解していたため、特に心配はしていなかった。
二人が出発し暫くして、モモコは突然『北に用があるから行ってくる』と出て行っていた。
そして二週間経った昨日、やっと帰ってきた。
ここより北にあるダンケルフ子爵家の四男エスクォール・ダンケルフを連れて。
「お母様の用ってエスクォールを連れて来ることだったの?」
浮かんだ疑問をミュウナが口にすると、肌に触れていた手がピクリと動いた。
朱に彩られた唇が一度開きかけて閉じられる。
モモコの伏せた目に映ったのは、絵本の中の登場人物を助けたいと切実な思いを抱く愛娘の姿だった。
「うん。ミュウには勇者さまを守るみたいに、エスクォールも婚約者として守ってほしいの」
「わかった!」
真剣な眼差しで囁かれた言葉に、ミュウナは一瞬の躊躇いもなく返事をする。
誰かを守ることに理由なんてない。それは『星になった勇者』の勇者リンデがミュウナに教えてくれたことだった。