8.婚約者さまができました
母親のモモコに連れられ来客用の部屋に入ると、そこにはミュウナと同年代の少年と老人がいた。
氷のような水色の短いボブの髪に、気弱そうに見える垂れた薄紫色の瞳。すこし高い鼻に印象の薄い唇。
青白い肌も相まって、冷たく凍えてしまいそうにさえ見える。
「さあ、ご挨拶なさい」
一年前と似た言葉でモモコに促されたミュウナは、藍色のドレスの裾を掴みながら片足を後ろに下げ軽く膝を曲げる。
「はじめまして。ミュウナ・エクォトです」
一度視線を下げてから彼を見ると目が合った。
「初めまして。エスクォール・ダンケルフと申します」
何も感じないような無気力な表情が初めて会った時のリンデに重なって見えた。
ただ今まで出会ってきた人とひとつ違うのは、彼が棒を握りしめて立っているということだった。
「それはなんですか?」
ミュウナが指をさして疑問を口にすると、エスクォールの後ろにいた年老いた男が表情を強張らせながら口を開いた。
「これは……」
「ミュウ、これは杖と言うの。体を支えるのに使う道具よ」
(つえ、つえ……そんな道具があるのね)
被せるようにモモコが話した言葉を頭の中で復唱していると、いつの間にか二人きりになっていた。
「……あれ。みんなは?」
「大人だけで話すことがあるって別の場所に行きました」
不愛想にそう言い放ったエスクォールが背を向けた瞬間、ミュウナはひとり雪の中にいるような感覚に蝕まれた。
あの嫌な金属の当たる音が頭の中で聞こえてくる。
(待って!)
離れていこうとした彼の服を必死に引っ張った拍子に二人はバランスを崩し床に倒れた。
「からかって――」
怒りに任せ勢いよく顔を上げたエスクォールの目に見えたのは涙を流す小さな少女の姿だった。
透明感のある茶色の瞳から溢れてくるいくつもの雫が頬を伝い落ちていく。
「……な、なんで泣いてるんですか」
エスクォールの震えた声が部屋に響く。
「何の音っ!? ……っミュウナ!」
大きな音が聞こえ慌てて戻ってきたモモコが小さな体を抱き上げると、ミュウナはすぐに意識を失った。
突然のことに驚くエスクォールに穏やかな声でモモコは語りかける。
「大丈夫、眠っているだけ。エスクォールは怪我してない?」
「あ……おれは……痛っ!」
「公子! いつまでも座っていないでお立ちください!」
呆然としていたエスクォールの付き人は二人のやり取りにハッとし、床に座り込んだままだったエスクォールの細い腕を掴んで引き上げる。
気が済んだのか不意に腕を離され、杖もない状態で無理やり立たされた足では踏ん張ることもできず再び転びそうになった。
「――エクォト夫人!」
間一髪のところで体を支えてくれたのはモモコだった。
片手で自身の娘を抱きかかえながらエスクォールの腹部に回した腕に、より一層力がこめられる。
「先程の話、必ずダンケルフ子爵へ伝えて」
ミュウナによく似た透明感のある茶色の瞳に陰が差す。
有無を言わせない鋭い眼光がエスクォールの付き人である老人へと向けられた。
「……何を突っ立っているの。今すぐ行きなさい」
付き人が部屋を出て行くと、モモコはそっとエスクォールをソファへと座らせた。
「お、おれは大丈――」
「エスクォール・ダンケルフ」
柔らかく、それでいて芯のある呼びかけにエスクォールの小さな背中がしゃんと伸びる。
「我が家へようこそ。我々エクォトは貴方を歓迎します」
温かな眼差しが真っ直ぐにエスクォールへと注がれる。
「来てくれて、ありがとう」
「っ……」
それは今まで住んでいた場所では滅多に見られないほど貴重な晴れた日の太陽のように眩し過ぎた。
一度零れた涙は止まることを知らず、エスクォールの服の袖は濡れて冷たくなっていった。
◇
[リンデへ]とだけ書かれた手紙を机の上に置いたまま、ミュウナは天幕のついたベッドに寝転る。
ぼんやりとした意識の中で三本勝負を思い返していた。
勝敗がつかなかったせいか、学園へ行ってから一ヶ月以上は経っているのにリンデからの連絡は何ひとつなかった。
廊下から聞き覚えのある微かな足音にミュウナは部屋を飛び出す。
「――リンデっ!」
「わぁっ!」
揺らめく火を思い起こさせる金赤、ではなく水色の髪が目に入った。
そこにいたのはエスクォール・ダンケルフだった。
昨日、母親が連れてきた客人だ。
「あ……エスクォール…………」
エスクォールは薄紫の目を細め、そう呟いたミュウナをじっと見た。
期待に満ち溢れ嬉しそうな声色から一転し、とても残念だとでも言うような表情をしている。
エスクォールは一度大きく短い呼吸をした。
「昨日のことからも淑女なのはよく分かりました。でも浮気はバレないようにしてください、婚約者さま」
そして思いきりにこりと笑いながら毒を吐いた。
「ごっごめ……え? こん、やくしゃ……さま?」
ミュウナはエスクォールの言葉に耳を疑った。