鼻下、上白唇部、戦闘。
俺たちが大ガラスに乗ってから、空を進んで15分ほどが経った。
その頃にはすっかり太陽は沈んでいた。代わりに空には月が浮かび、青白い光で巨神の大地を照らしていた。
明度が低くなったので、上空から見下ろす巨神の大地は、樹林で黒い部分と、雪原の白い部分にはっきりと分かれた。景色は白黒写真のようになった。
陰影が際立って、輪郭がはっきりしてきたせいか、巨神がより不気味なマネキンじみてきた。
俺はまた怖くなったので、なんとなく、俺の隣で、ナギに一緒に抱えられていたリーズを見た。
「巨神よ! どうしましたか! まだ何か質問でも!?」
リーズは向かいくる強風にその長い黒髪をたなびかせながら、俺の方を見て言った。
少女の放ったハイテンションな明るい声に、俺はいくらか安心した。しかし同時に、少女の、どこまでも光のなく黒い瞳を見て、俺は不安になった。
リーズの言ったことは図星だった。
俺の股間の事情以外にも、リーズに聞きたいことはまだいくらでもあった。当然だ。俺はこの世界に来たばかりなのだから。
何故この世界の大地は巨神なのか。何故眠りについていたのか。どうやって覚醒させたのか。
戦争とはなんなのか。誰と誰が戦っているのか。何故俺が巨神となって目覚めた直後に始まったのか。
何故リーズは人間を滅ぼしたいのか。
何故俺は巨神になったのか。この世界に来たのか。
これだけじゃ俺のナゼナニは止まらない。まだまだこの世界は俺のわからない事ばかりである。
だから、俺の心は、リーズに疑問をしこたまぶつけたい気持ちでいっぱいだった。
しかし今は、それらの質問をしたい気持ちをぐっと抑えた。
今はまだ、それらの答えを知る時期では無いと思ったからだ。
なぜそう思ったのかは上手く言語化できない。
それを考えつこうとすると何故か、生前の俺が電車に轢かれたグロテスクなシーンが頭によぎる。
直感が言っている。リーズ達、特にリーズは、“人類を滅ぼしましょう!”という爆弾発言の裏に、何か俺に秘匿すべきものを隠している。
あと、これは実体験だが、大部分のチビは性格が悪いのだ。善良なチビはメタル○ライム並みに出現率が低いのだ。リーズを信用するのはまだ早い。
……というか今から人類を滅ぼそうとしている集団の一人に、背が小さいというだけで親近感を持って、協力しようとしていた俺がおかしかった。
死んだテンションでアドレナリンが出まくって、頭が正常に回らなくなっていたのだ。
彼女達から、股間の痒みの原因を聞き出せたことだけでもよしとしよう。かわいい女の子二人に、自分の股間の異変を真剣に考えてもらうというシチュエーションを、体験できただけでも満足だ。
銀世界の空の寒い空気に触れて、深夜テンションで変な事を考えるぐらいには、思考が少々現実よりに戻った。
この世界で俺は痒みや寒さなどの体の感覚を、同情や疑惑などの心の動きを感じている。俺は生きているのだ。もっと慎重に行こう。
この世界では、まだ俺は二人しか人間を知らない。
ひとまずリーズとナギ以外の人間に触れてみよう。それから、その人と話すなり、自身で世界の様子を窺ってみるなりしよう。
そうすればリーズ達に頼らなくても、この世界での一般常識的な知識は自然に得られる。
だから、今は質問をする必要はない。
そんな思案を1分ちょっとしている間も、リーズはじっと、俺の真意をはかるように、俺のことを見続けたままだった。
リーズ達への不信感を悟られないように、俺は、大学で金魚の糞をしていた時代に会得した、困ったらとりあえず気温や外見の話をすればいいという、対友人以下の対象限定スキルを発動した。
「リーズは、こんなクソ寒い中、そんな格好で大丈夫なの?」
大ガラスに乗って強風に撫で付けられることで、元々寒かった体感温度はさらに下がった。おそらく、氷点下を下回っただろう。
しかしそんな寒い中でも、リーズの装備品は霊媒師的な巫女服一枚だけなのだ。すかすかな胸元から地肌が直接見えるので、ヒートテックも着てなさそうだ。
ナギはワイルドな毛皮を羽織っているし、俺は何着も重ね着している。さらに言えば俺は道産子なので、この程度の寒さは慣れっこだ。
それに比べてリーズは防寒対策を完全に怠っているのに、身震いひとつもしない。また何かの魔法なのか?
「巨神よ! あなた様は寒いのですか!?」
リーズは俺からの質問に、俺への質問で返してきた。
「あーうん、まあね。寒いよ!」
俺は心の内の正直なところを伝えた。寒かった。
いくら慣れているとはいえ、道産子でも寒いものは寒い。というか北海道民の冬は基本暖房つけっぱなしで、仕事と雪かき以外は家にこもりきりなので、他県の人よりも寒さに弱い気がする。個人的な感想だが。
「ならば巨神殿、これをお使い下さい。」
上から俺とリーズの問答を聞いていたナギが、自らが着ていた毛皮を大胆にも脱いで、俺の体に羽織らせた。
俺にとって、毛皮はかなりのオーバーサイズだったので、口元から足下までが外界の空気からカバーされる。あったけえ。
「えっ!? いいんすか!?」
「……また新しく、鹿でも狩ればいいだけの事です。」
毛皮を羽織った俺を抱え直すと、ナギは何事も無かったかのように、大ガラスの操作に注意を戻した。
ひゃだ!? この娘男気溢れすぎ! ワタシちょっと惚れそうになっちゃったじゃないの! ナギ殿ったらもう!
「巨神よ! そんなに寒いのだったら! わたしの袖もありますよ!」
リーズは自らの白い袖を付け根からブチブチ引きちぎって、俺の頭にすっぽり被せた。袖は風圧の力で顔を通り過ぎて、首に回り込んでネックウォーマーみたいになった。うーん、オシャレ!
「えぇ……。あ……うん。ありがとね……。ウレシイナ……。」
リーズのことを性格悪いって思ってごめんね。俺が間違ってた。悪いどころかネジがとんでるよこの子。やべえって。
そんなこんなで俺たちを乗せた大ガラスは、闇夜に紛れて、深緑の針葉樹林の生い茂る、巨神の鼻下、上白唇部をの上空を進む。
このまま順調に、南に見える唇の山脈にそって、口角横の地倉の集落とやらに、封印の楔を解きに行くのかなと思っていた時だった。
突然、大ガラスがぐぎゃあと鳴いて身をよじった。背中に乗っていた俺たちは、大きく身を揺さぶられる。
驚いて振り返ると、カラスの右翼部には鋭く尖った氷柱みたいなものが、いくつも突き刺さっていた。
それだけではない。遥か下から、追加で氷柱が矢のように向かってきているのが見える。
「姉様! 南西、下方向からです!」
ナギはそう言って、腰に携えていた長剣を抜き、飛来した氷柱を一振りで薙ぎ払う。
闇夜に長剣の切っ先は三日月型の軌道を描き、氷柱は星屑のように砕け散った。
「な、なにがムグッ」
緊急事態と分かった俺は、二人に状況を尋ねようとするも、開いた口は早々にリーズの手によって塞がれてしまった。
さらにリーズは、さりげなく俺から、せっかくナギにもらったあったかい毛皮を剥ぎ取った。なんで!?
「烏墨を地面に落としておとりにして下さい! わたし達は近くの木々に一旦逃げましょう!」
ナギが剣を持ったことで、ナギの傍から放り出されたリーズは、月夜にこだまする大声で叫んだ。
それを聞いたナギは頷く。
一時、空中に放り出されていたリーズは、ナギによって体を捕まれ、近くの針葉樹に投げ飛ばされた。
リーズが針葉樹林の幹に着地したらしい衝撃で、葉っぱにつもっていた雪が落ちる。
一方、烏墨と呼ばれた大ガラスは、針葉樹林の中にぽっかり開いた、月光差し込むわずかな空隙に、身を畳んで墜落していく。
大ガラスは雪の地面に激突した。大気中に極小の氷の飛沫が舞い上がって、大ガラスの黒い影は、キラキラした粉雪に包み隠された。
「お前ら! カラスは囮だ! あのトドマツの巨木を狙え!」
木々の闇の中から、一人の青年らしい声が飛び出した。
するとすぐに、俺たちを襲撃したらしい、藍色のフードを被った集団が、月光の下にぞろぞろと現れた。
集団のそれぞれがぶつぶつと呪文を唱えると、大気中に小さな氷の粒が現れた。粒は凝縮して、先ほど俺たちを攻撃した、鋭利な氷柱がいくつもでき始めた。
集団は、リーズが飛ばされていった巨大なトドマツに向かって、出来上がった氷柱を勢いよく発射した。
無数の氷柱がトドマツに突き刺さり、数本の枝が折れた。雪が振り払われて、トドマツの幹部分が露わになった。
しかしそこにリーズの姿は無かった。視界を遮る枝や雪が取り除かれ、見えるようになったのは、梢に引っかかっていた毛皮だけだった。
「な、毛皮だけだと……!」
先ほど周りに指示をしていた青年が、驚いて声を上げる。動揺は一瞬だが、フードの集団全体に広がった。
その一瞬の隙をついて、大ガラスが落ちてきた地点から、人々の間をつむじ風のように駆け抜けてきた人影があった。ナギだった。
「ぐおおおお!?」
ナギは青年に近づくと、そのフードを強引に掴みとる。青年は雪の上に跡を残しながら、高速で引きずられて、集団から外れてしまった。
ナギは青年を後ろ手にして拘束し、あのトドマツの巨木を背にすると、周りの集団を睨み回して威嚇した。
ナギの強烈な眼光を浴びせられ、集団の中には誰一人として、動こうとする者はいなかった。
「お前が首領か。」
青年の耳の後ろでナギがささやく。
「仲間を引かせろ。ならば見逃してやる。」
ナギは青年の首に、冷たい剣先を突き立てる。
「クソ……!」
まんまと拉致されて、人質となってしまった青年は、とても悔しそうな顔をした。自分の失態を恥じて、先の言葉を詰まらせる。
なかなか集団に降伏の命令をしない青年に、痺れを切らしたナギは、ついに青年の首に剣先を触れさせる。
剣先が薄皮をかき分けて、そこから赤い雫が一滴だけ垂れた。
「早くしろ。さもなくば……ッ!?」
突然、ナギの背後の、大木の幹の一箇所からミシミシという音がなり、そこから一本の筋骨隆々の腕が勢いよく飛び出した。
強襲に気づいて避けようとしたナギの首根っこを、大木をぶち抜いて現れた分厚い掌が、乱暴に捉え、力強く握りしめる。
「ア……ガッ……!?」
丸太のような太い腕に後ろから首を締め上げられ、ナギの足が宙に浮いて、じたばた空を蹴った。
ナギは思わず青年を手放してしまい、剣を逆手に持ち替えて、自らを持ち上げる背後の腕に突き刺そうとする。
しかしその直後に、腕は巨木の中に引っこんだ。そのせいで剣は腕ではなく、巨木に突きささった。
腕に掴まれていたナギは、引っ張られたいきおいで巨木に後頭部をぶつけ、そのショックで剣から手を離してしまう。
腕はナギの首を掴んだまま、巨木の繊維に逆らって、横方向にメキメキと突き進み、巨木を破り出た。
トドマツは幹の片側の部分が30センチほど欠けて、伐採する前にオノ目をつけられたような姿になった。
そして、巨木の後ろからいかつい大男と、大男の片方の手に逆さ吊りに持たれて、口をリーズの袖で縛られ、まさかだるまさんが転んだにこんな攻略法があったとは、と驚くばかりの俺が現れた。
「ったくなあ、スドウ。敵に聞こえるように言う作戦なんてブラフに決まってんだろ……仮にもオレん弟子なら、こんなもんに騙されんなよお……。」
「くっ……すみません……先生……。」
先生と呼ばれた白髪混じりの大男は、スドウと呼ばれた黒髪の青年を叱る。
その後、自分の両手にそれぞれ持っていた、ナギと俺をちらりと見た。
「んで、お前ら何? 女と子供だな。ここら辺じゃ見ない背格好だけど、胴体界の密偵か?」
「……。」
ナギは質問に答えなかった。俺も口を縛られていたので質問に答えられなかった。というか縛られてなくても答えられなかったと思う。
「はぁ……無視か? だったら、美人と、まだしょんべん臭えガキだがしょうがねえ。まあ、殺すしかねえわな!」
大男が悪魔的な笑みを浮かべながら、俺たちを握る力を強めた瞬間だった。
夜空から、リーズが無音で落下してきた。
リーズは空中で落ちながらに、左手で、俺を掴んでいた大男の手首をチョップした。それとほぼ同時に、ナギを掴んでいた方の手首も、今度は右手でチョップする。
大男の手首がメキメキと凹んだ。握力がふっと緩み、俺たちは大男の手から離された。
「お?」
大男は、やっと自分が攻撃を受けたことに気づいたのか、すっ頓狂な声を上げる。
その声も終わらない内に、続けてリーズは空中で素早く、風車のように体を回転させる。そして右足で大男の顔面を蹴った後、流れるように顎に左の膝蹴りを入れた。
つまりリーズは空中に居ながら、その四肢全てを使って、大男に四撃入れたのだ。
大男は白目を剥いて、雪の中に倒れ込んだ。その時地面がどしんと音を立てると同時に、リーズの足につけてた鈴飾りがジャリンとなった。
長い滞空時間をへて、ようやくリーズが地面に着地した。
リーズがこの一連の動きをするのに1秒とかからなかった。
しかし青年も集団も俺もナギも、片袖の巫女服の少女による、一瞬の華麗な曲芸技が、フィルムのように目に焼き付いて、時間が止まったようになってしまった。
リーズは大男が気絶したのを確認して、周りを見渡す。そして堂々と叫ぶ。
「私たちは! あなたたちと戦いにきたのではありません! 地倉の民よ! あなたたちの首長に会いに来たのです! さあ! 集落まで案内して下さい!」
リーズの声と、冷たい山おろしが樹林に吹いたのをきっかけに、俺たちは、はっと意識を取り戻した。