3・バックヤードにお邪魔します
「いや~、もうちょっとで門閉まっちゃうところだったわよ。危ない危ない、ギリギリセーフ」
と言いながら、アイテム収納用魔法ポーチから猫トイレ用の箱と砂を一袋、「よいしょ」と掛け声を付けて取り出す魔導士。
「普通に街で買い物をしてきたのなら、質問攻めにされたのではありませんか?」
「大丈夫。ほら、例の連絡係の人に協力してもらったから。勇者と仲間の魔導士だって気付かれないように、魔法で細工してくれたよ」
癒術士の言葉に答えながら、勇者は猫じゃらしを取り出した。
「…勇者様、それは…」
「うん。この城なんにもないから、仔猫も退屈なんじゃないかと思って。おもちゃもいくつか買ってきたんだ」
「………」
にこにこと無邪気な勇者に無言で頭を抱える(実際の仕草は額に手を当てる)癒術士。
「本来なら私が気付くべきところ、面目ない。いかほどの出費になったのだ」
「いいわよそんなの。そっちとこっちで通貨が一緒かどうかも知らないし」
「借りを作ったままというわけにはいかぬ。まして魔王様の生活必需品であれば、本来我々が用意して然るべきものだ」
「我々って、あんた一人じゃない」
「ぐっ、そ、それは言葉のあやというもの! それに、いずれは新たな魔王軍がこの城で再編されるのであるし、この城は魔王様と我々魔族のためのものであって…!」
「あ~ごめんごめん、そんなにムキにならないでよ。魔導士も、揚げ足取りしてたら話がこんがらがるから」
「はーい」
完全に面白がっている魔導士と、ストレスマッハな様子の魔族。見ている方は面白い。
「ぐぬぬ…何故私が勇者に宥められねばならんのだ…」
「へっへーん。それより聞けよ勇者。今度は俺がチビスケ見つけてきたんだぜ」
どや、と眉を上げて笑う刀剣士。確かに玉座には仔猫がちょこんと座っている。が、しっぽが。
「…」
ぺちっ。…ぺちっ。…ぺちっ。
と、まだ小さな尻尾が床、もとい玉座の座面を叩いている。
「ちょっとご機嫌斜めっぽいね」
「そうね。あんた引っ掴んで戻って来たんじゃないの?」
「しゃーねぇだろうがよ! こいつ弾丸みたいにビャッ!! ってすっ飛んできやがったんだぜ!? そりゃ反射的にシャッ! って掴むだろうが」
「あんたのその握力で握られたらそりゃ痛いでしょうよ…」
「んな握り方してねえよ! こう、気配を感じてバッ! って振り返ったとこに、シャッと横通り過ぎようとしたのを、両手でこうパッ! と」
「あんた元気ねえ」
「オメーが聞いてきたんだろうがよ!!」
「勇者ぁ、おなかすかない?」
「おなかすいたね。何か買ってきたらよかったな」
「待て。貴公ら、人里には戻らぬのか?」
「とりあえず今日はね」
「勇者が戻らないなら」
「俺らのリーダーは勇者だからな」
「ええ。それに魔王をどうするのか、その問題が解決していません」
うん、と頷く四人。
なんだかな、と微妙な顔になってしまう魔族であった。まさか勇者一行に居座られることになろうとは。
「…とにかく、魔王様の生活必需品については、後で清算させてもらう。勇者に借りを作るなど、あってはならな」
「ねえそれよりさ」
「人の話は最後まで聞かぬか!! 人間の社会では子供の頃そのように教育せぬのか!? そもそも私は勇者に話しているのだ!! 割り込むのもまたマナー違反であろう!!」
「だってあんた話長いんだもん。時間がいくらあっても足りないわよ。そっちじゃ時は金なりって言わない?」
「時間の問題ではない、マナーの問題だ!!」
「まあまあ、わかったよ。そんなに気にするなら後で割り勘にするから。それでさ、この城ってダンジョンになってるとこ以外に居住区みたいなとこあるよね?」
いきなり勇者にさらりと言われ、えっ、と固まってしまう魔族。
「…なっ…何故それを貴公が…」
「さっき魔導士が仔猫を探してた時、明らかにこの城の中にサーチできないエリアがあって、それも結構な広さだったって話を聞いたんだ」
「そうそう。あたしもそれ聞きたかったのよ。ほら、城って基本公共施設扱いになるでしょ? その城の中でサーチできないってことは、ダンジョンか生活空間ってことよね。で、ここはダンジョン判定じゃなくなったんだから、消去法であんたたちが寝泊まりするバックヤードに確定ってわけ」
「ぐ…」
魔導士の言うとおり、魔力探査によるサーチで把握されたのなら、そんなものはないとシラを切っても意味がない。しかし、何故わざわざそれを確認してくるのだと眉を寄せ、そしてはっと気づく。
「おい、まさか…」
「客間があったら貸してほしいなぁって」
にこっと邪気なく微笑む勇者に、魔族は今度こそ顎を外して絶句した。
「………。え、俺そんなに変なこと言った?」
「魔王城に宿泊しようというのがそもそも変といえば変ですが…まあダンジョンキャンプだと思うより他ありませんね」
はぁ、と溜息の癒術士。
「……お、おま、お前ら………どこまで厚かましいのだ………」
「あ…やっぱりダメ? じゃあまあ、仕方ないか」
「どーすんだ?」
「ここでテント張るしかないんじゃない? 火が起こせないから暖かい食べ物は無理だけど、一晩くらい我慢しようよ」
戻りかけた魔族の顎がまた外れた。
「別に、それはいいけど。固定しなくても飛ばされたりする心配ないからラクだし。まぁ正直言えばバトル三昧で疲れたし、あったかいスープ飲みたかったところだけどね」
「四人もいて誰も料理魔法使えないって、こういう時不便だよね。もうちょっと頑張って覚えればよかったな」
「けどよぉ、便所どうすんだ? さすがにチビスケみてぇに服に染ますわけにいかねえだろ」
「当たり前じゃないですか。簡易トイレも携帯しているでしょう」
「ああ、そういやそっか」
「やっぱり忘れてたんだ、まったくもう。野宿の時あんたいっつもそのへんの木の影とかで済ませちゃうから、忘れてるだろうなとは思ってたけどね」
「悪ぃ悪ぃ。いや~、それにしても魔法ポーチ様々だよなぁおい。マジで何でも入るよな」
「正確には収納限界はありますよ。標準的な中流家庭が家財を持って引っ越しするほどの容量はありません」
「一人暮らし一人分くらいが目途だっていうわよね。ついでだからテント張っちゃおっか」
「魔物いないし、寝袋だけでも大丈夫じゃない?」
「いえ、屋内とはいえ、ほとんど何もない広間です。寝袋だけでは風邪をひくかもしれません。ちゃんと張りましょう」
「あ、そっか。魔法で空気あっためても逃げちゃうか」
「よいしょっと」
ぽん!
小気味良い音と共に、大きなテントと小さなテントが魔王の間にぽっこり出来上がった。
「…………………」
何とも言えない気分でそれを見るハメになった魔族と、それを眺めるでもなくちょこんと座っている仔猫。
***
「案内する気あるんならテント広げる前に言えや、片付けんのめんどくせぇだろうが」
「貴様だけ放り出してもいいのだぞ」
「チッ」
結局、謎の敗北感と共に、魔族が折れた。
魔王の間の下の階、つまり地下一階。まさに玉座の真下の場所まで案内される一同。魔族の魔法によって隠されていた転移魔法陣が発動し、瞬く間に小さなホールのような場所へと景色が変わった。すぐに癒術士が現在地を調べる魔法を唱えると、座標的には間違いなく魔王の城の中とのこと。
「へえ、ここが魔王の城のバックヤードか…」
「せめて居住区と言え」
「明るいわね。普通にお屋敷の玄関ホールって感じ。もっと薄暗~いじめ~っとしたとこ想像してたわ」
「そなたは魔族を何だと思っているのだ、失敬が過ぎるぞ」
「お邪魔しまーす!」
「待て勇者、勝手にうろうろしないでもらおう! …客間はこちらだ」
すっかり眉間の皺が様になり始めた魔族が、奥へと歩き始める。
先へ進むと階段があり、二階分上がったところで、扉を開いて中へ。広い廊下に同じ扉がずらりと並んでおり、まるで寮の廊下だ。
「ダンジョンエリアには魔獣やアンデッドもいましたから、腐臭にまみれた汚泥のような場所かと思っていましたが、意外と普通ですね。我々が移住してきてもむしろ快適に過ごせそうです」
「あら、意外。あんたはあたしよりもっとけちょんけちょんに言うかと思ったけど、移住なんて言葉まで出てくるとはね」
「この城を魔族から奪ってもすぐ我々人間側の砦として機能するじゃありませんか」
「…そっちか」
はいはい、と肩を竦める魔導士。
「この二部屋だ」
と言いながら、一番奥とその手前の扉を開く。入ってすぐ横手に扉が四つ並んでおり、奥には書き物のできる机と椅子が四セット。その横にはシングルベッドが四つ、ひしめくように並んでいた。
ベッドは四つあるのに二部屋使えというのは、当然男女は別室でということだろう。
「一番手前の扉が靴箱、その隣の二つはクローゼット、奥の扉はユニットバスだ。適当に使って構わん」
「えーすごい、本当にホテルみたい。福利厚生すごいね魔王の城って」
「おめぇらいい暮らししてんなぁ? 大陸狙う必要ねぇじゃねえかよ」
「大陸侵攻最前線の砦とはいえ城は城、それも魔王の城です。そこに寝起きする配下もまたエリートなのでしょう。福利厚生ではなく選民思想の表れですよ」
「貴様ら、本当に言いたい放題だな…!! 今からでも城の外で野宿させてやるべきか、まったく!」
「お借りしまーす! ありがとう、助かるよ」
「…。一晩だけだぞ。明日には出て行っ」
「俺達の寝床はこれでよしとして、仔猫のトイレとかどこに置く?」
「そうねぇ。どうしよっか」
「貴様ら我が物顔が過ぎるぞ!! 魔王様のことは私に任せ、貴様らはもう休むがいい。明日には人里へ帰ってもらうからな!」
「あ、ちょっと台所は? にゃあこのごはん作らないと」
「なっ、…ま、魔王様のお食事か…」
例年通り人間に憑依してやってきたのなら準備はあるようだが、仔猫の食事は想定外だったようだ。…そりゃそうだろう。
「ついでにあたしたちのと、あんたのも一緒に作ってあげるからさ。魔族って何食べるの? 人肉とか言われたらあたしレシピ全然わかんないけど」
「そのようなもの、我ら高貴なる魔族が口にするものか。食生活は人間と変わらぬ」
「ほう、いいことを聞きました。人間に効く毒なら魔族にも効きそうですね」
「貴様…」
「ちょっとやめてよ、一緒に作るって言ってるでしょ! うっかりにゃあこやあたし達の口に入ったらどうすんのよ!」
「ねえねえ癒術士、魔導士!」
「おーい!」
唐突に割り込んできた明るい声に三人が振り返ると、客間の奥に並んだベッドに腰かけて、もふもふとスプリングの具合を確かめるように動いている。
「魔族の客間とか全然期待してなかったけどよぉ、かなり快適だぜ!」
「枕も丁度いい硬さだし、毛布もふわふわ!」
「刀戦士…勇者様…子供じゃないんですから…」
「ほらほら見て、仔猫も気に入ったみたい!」
「や~ん、ふみふみしてる~!!」
可愛い~! と男二人が座っているベッドの手前に近寄る魔導士。毛布の上にちょこんと座った仔猫が、前足で毛布をふみふみ、ふみふみ。ちょっと座り直して、またふみふみ。
「やだもーほんといちいち可愛い~!」
「可愛いなぁおいィ~!」
「可愛いね~!」
「ま、魔王様、そこは客間でございます! 貴方様のお部屋はちゃんとございますから、ここでお寛ぎにならないで下さい!」
「ぴ」
「あっ、ちょっ」
ひょいと魔族に抱え上げられてしまった。
「ていうか、そうだ! その前にお風呂! この子お風呂入れてあげないと」
「ぴぁ」
それを取り戻す魔術師。
「おい!」
「ごめんね~にゃあこ、お腹空いてると思うけど、その前にちょっと頑張って~」
「貴様! 何をする気だ!」
「ずーっと気になってたの思い出したのよ。この子洗ってあげないと、多分野良だと思うから」
「そういやこのチビ首輪してねぇな」
「でも、それならむしろ良かったかも。どこかの家の猫ちゃんだったら飼い主が心配するよね。あ、でも親猫が心配してるか…」
「そのベッドと、今着てる服とかも清掃魔法かけといたほうがいいわよ。うっかりノミとか持ってたらあんまりよろしくないからさ」
「はっ!!! しまった、歴代魔王様のお召し物がそのままではないか!!」
苦い顔でやり取りを見据えていた魔族が、それを聞いて弾かれたように思い出した。
「ああ、取りに行く? その間にこの子のお風呂しとくからいいわよ、行ってきて」
「何!? 貴様、完全に我が物顔の言い草ではないか!! どういう了見なのだまったく!!」
「あんたさっきからカッカカッカしてばっかりだけど、そんなブチギレてると頭の血管切れるわよ?」
「余計なお世話だ!!!」
「む~~~~~~~」
挟まった妙な声。ん? と勇者達三人が顔を合わせる。
「…」
そして魔族を見る。魔族も同じような顔で三人を見ていた。
「………?」
「いや、あんたが怒鳴るのがうるさいってこの子が唸ってるのよ」
「えっ」
言われてはっと魔導士の腕の中の仔猫を見ると、耳がいわゆるイカ耳状態。そして心なしかむすっとした顔で睨まれているような気がする。
「…ま、魔王様…」
「む~~~」
「……も、申し訳ございません…」
そして唐突にあくび。
「ああ、おねむみたい。とろんとしてる間にパパッとお風呂しちゃおう。こっちのバスルーム使わせてもらうわよ」
「……くっ………魔王様のご入浴すらお手伝いできぬとは………」
さっさと自分に宛がわれた部屋に入ってしまう魔導士と、しょんぼり項垂れてとぼとぼ歩き去る魔族。そして取り残された勇者達。
「…えっと、俺達どうしようか」
「魔導士任せにしちまって悪ぃけど、猫の世話とかメシとかわっかんねぇもんなぁ」
「さっき魔導士がこの大きさなら離乳食って言ってたよね。…仔猫の離乳食…」
「猫どころか赤んボの離乳食もわかんねぇぞ」
「うん、俺も。あーさっきペットショップで買っておけばよかったのか~、しまった」
「中身は魔王なんですから、適当に生肉でも与えておけばいいんじゃありませんか」
「オメーん中の魔王って一体どういうイメージなんだ? 今時生肉ってよぉ」
「とりあえず清掃魔法かけちゃおうか。借りた部屋あんまり汚してもいけないし、俺達の服にノミとかダニとかついちゃってても困るし」
「まあどちらにしろ洗濯はしないといけませんからね」
「そういや派手にバトったんだっけな。あちち、思い出したらあちこち痛くなってきた」
「魔力も回復しましたし、治癒魔法をかけますよ」
「おう。サンキュ。つか自分も回復しとけよ」
「大丈夫ですよ、私は最後で」
勇者が手早く全員の服に初歩生活魔法『ランドリー』を掛け、そのままベッドにも同じ魔法を。癒術士は刀戦士に治癒の魔法を。
「勇者も掛けてもらっとけや」
「うん」
「すみません勇者様、本来なら真っ先に貴方を回復しなければならないのに…」
「また出たよ。ったくおめぇブレねえなぁ」
「癒術士。今度そういうの言ったら完全に怒るよ」
「!」
びくっ! と肩を震わせる癒術士。言った本人はいつもの流れでさらっと言っただけのような様子だが、癒術士は青白い顔色になって「…すみません」と小さく答えた。
「落ち着いたらちゃんと話、しようね」
「…はい」
「うん。あ、ごめん、ちょっとトイレ」
ユニットバスの扉の向こうへ勇者が去ったのを見送って、「………オイ」と声を掛ける刀戦士。
「勇者、怒ってもそこまで怖くはねえだろ。んなにビビんなくても」
「………怖いですよ。本当の本気で心底怒った勇者様は」
「………マジか」
「大マジです」
ひそひそひそ。
なんとなく声を潜めてしまう二人であった。
***
「いたたた、先に治癒魔法かけてもらっとけばよかった」
誰もいないのをいいことにぽぽいっと装備や服など身に着けていた衣服類をすべて脱ぎ去った魔導士は、それに加えて靴や鞄にも初歩生活魔法『ランドリー』をかけ、結局寝てしまった仔猫を抱いてユニットバスの扉を開けた。目の前に現れた備え付けの鏡に映るグラマーな肉体には、あちこちに先代魔王との戦いで負った傷や打撲、火傷の跡が。
「戦いながらちょいちょい回復してくれたからそんなに酷くはなってないけど、やっぱり後できちんと治癒しといてもらったほうがいいわね」
これは結構沁みるだろうなと思いつつ、ユニットバスを見回す。いわゆる普通の、トイレ、洗面台、浴槽の三点ユニットである。みちっと詰めて作られており、洗面の流し台も必要最低限といったサイズだ。
予想はしていたが、いくら仔猫が小さいといっても、さすがにこの流し台のサイズでお風呂は厳しいと判断。泡で出てくるタイプの仔猫用シャンプーを浴槽の角の縁に置き、仔猫を抱いたまま水のない浴槽の中に入る。自分達にかからないようにシャワーの角度を変えてお湯を出すと、温度を調整し、シャワーヘッドを手のひらで覆って水量と勢いを調整しながら、仔猫の体を流していく。自分の体にもぬるま湯が流れ、傷や火傷にじわりと沁みた。
「いてて。…ほんとはまず獣医さんに診せたほうがいいんだけど。出たら相談してみるか」
「………んみゃ」
「あ、起きちゃった?」
とろんとした目を前足でしゃかしゃかしようとして、ぽよぽよしたまま自分の顔ではなく魔導士の胸をふにっ。
「…」
ふにふに、と軽く押している内に、弾かれたように目を開き、全身の毛がぶわっと逆立った。
「み゛っっ!!?!? ぴーっ、ぴーっ、ぴーっっ」
「あ~はいはいはい、もうちょっとだけ辛抱してね」
「び―――っ!!!」
「はーいはいはい、大丈夫だから」
濡れるのを嫌がって暴れ始めるのも想定済みですとばかりに仔猫を豊満な胸の谷間へ押し込むと、片手で器用に仔猫用シャンプーのポンプを押して同じ手で泡を受け止め、丁寧に仔猫を洗っていく。すると当然、シャンプーの泡も傷に沁みてしまうわけで。
「いっ…たたたたた、あ~覚悟しててもやっぱり沁みるもんは沁みるわね」
「ぴ、……ぴぃ…」
じたばたと暴れていた仔猫が、その様子を見てはたと動きを止めた。
「あら。賢いわね~、そうそう、大人しくしててくれたほうが私も助かるし、早く終わるからね」
「…ぴぃ…」
ぺしょりと耳もヒゲも垂れていく。そんな仔猫の様子に、思わず笑ってしまう魔導士。
「考えてみればあんたに付けられた傷ってことになるんだっけ。ほんと変な感じ」
「ぴ…」
「しょぼくれちゃって。魔王の意識があるんだかないんだか、まったく」
***
「……ああ…まったく」
ざぶざぶ。
目の前の水球の中では、魔王のローブが洗われている。『ランドリー』よりも丁寧に衣服を洗う生活魔法だ。聖剣で貫かれた時に破れたはずの場所はいつの間にか塞がっていた謎素材の逸品だが、さすがに猫のオシッコの吸収を防ぐ仕様までは備わっていなかったようで、魔族が魔王の間に戻って来た頃にはほんのりシミができ、臭いを放っていた。
はあぁぁぁぁ、と重苦しい溜息をつくのも無理はない。
「どうなってしまうのだ、これから…私は一体どうすればよいのだ」
本来ならば、人間の体を乗っ取って再び顕現した新魔王と共に地底へ戻り、魔王軍の再編に取り掛かっていてもおかしくない頃合いだ。勇者に討たれ肉体を失った衝撃によって直近の記憶しか持たない上、新しい肉体はまだ魔王としての魔力を使いこなすことができないとはいえ、魔王の魂が宿った時点でその肉体が有していた今までの記憶はすべて塗りつぶされてしまう。当然、早速魔王として新体制を築き、采配を振るっていたはずで、自分はそれを補佐しているはずだったのに。
仮にあの仔猫に魔王の自覚があったとしても、ぴぃとかみぃとしか言ってくれないのでは、意思の疎通すら図れないではないか。
「………いっそ地底にありのままを報告して助力を仰ぐか…いや、しかし…」
魔王様仔猫になっちゃいました、などと報告しては、本国も混乱するに違いない。
とはいえ、勇者がこの城に乗り込んできた時点で伝令を飛ばしてあるし、有力者がこの城に注意を向けていれば、地底からでも魔王の魂が新たな肉体を得たことを察知しているだろう。今夜中には何かしら連絡をしなければ、違う意味で混乱を招いてしまう。
「…せめて魔王様だけなら、お連れして帰ることも考えるのだが…」
城に勇者が居着いちゃいました、などと報告しては、より一層混乱するに違いない。
ぶおおおおおお。
いつの間にか水球は消え、宙に浮いたローブは乾燥工程に入っていた。温風に吹かれてはためくローブ。
はあぁぁぁぁぁ。
風の音に紛れてくれない、憂鬱な溜息。
「うう、胃が痛くなってきた…せめて内密に、奴にだけ連絡が取れれば…」
「何をしている」
「うおっ!!」
突然背後から声を掛けられ、飛び上がってしまう魔族。そこにはつい今“奴”と思い浮かべた人物が立っていた。
「お、お前か…! 驚かすな! いつの間にこちらへ来たのだ!?」
「周囲の気配も読めぬほどの考え事か? 常であれば、私がこの城へ入ったことに、ましてここまで近づいていることに、気付かぬお前ではあるまい」
「う…」
「一体どうしたというのだ。本国では皆、新たな魔王様のお戻りを待ちくたびれているのだぞ。何故ここに留まっておいでなのだ?」
「う……」
ぶおおおおおお。
問い詰められる魔族の背後、中空で洗濯魔法によりはためかされているローブ。
両者を交互に眺めた第二の魔族は、思いっきり眉間に一本皺を刻む。
「…いや、ほんま何しとんねんお前」
「~~~っっ」
魔族はがっくりと、言葉もなくその場に崩れ落ちてしまった。




