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ピタゴラスイッチを毎日見れば支援してくれるんだな。いいでしょう!

 空はある日、この大地に落ちてきた。

 どうしてこうなった。

 溢れる異界の命、砕け散る弱い命、そして新たに訪れる無垢な命。全ては《グシスフィドの落日》などと呼ばれるその日に始まったのだろう。

 だろう。

 そう、あくまでそれは暗澹たる推量に過ぎない。どんな神話も本当はいつからそこにあったか誰も知らないように、この世界が厳密にいつから始まったのかなんて一体誰に分かるというのだ。今は皆、生存していくためにどうすべきか、それだけで手一杯なのに。

 ところで最近の人々が関心を持つのはとある一つの地下洞窟だ。

 その全貌は誰も知らない。まさにちょうど神話が生まれたのがいつかなんて知らないのと同様に、その地、《エベラ》はいつしか人が知る所となった悠久の洞なのだ。攻略されたのは既に七十四層にも及ぶが終わりの見えない道を行く者は数知れない。

 どこまでも続く平凡と洞窟。余りに極端なその天秤は傾き知らずで、今宵もその矛盾はまた平和に引き継がれていく。

 ――そのはずだったのだ。


 ◇


「まず、ゆっくり呼吸してみてください」

「……」

「呼吸ですよ、分かりますか?」

「……ごひゅ」

 咳き込んだ俺がゆっくり目を開くと、そこは知らない天井だった。なぜか強く握り締めていた拳をそっと開けると血が滲んでいて俺は思わず目を逸らした。

「とんだ無茶を。以後お気をつけて、しばらくは安静にしていてください」

 眼前の白衣の男は銀縁眼鏡をくいと上げてニヤリと微笑んだ。医者、それはすんなりと言葉として概念として浮かんだ。だけど肝心な何かがすっぽり抜け落ちているという気持ちが先ほどから、なぜだか胸から離れない。

「ブリゼックさん」

「……誰だそれは」

 聞きなれない名前で呼ばれたのは俺だ。ブリゼックという言葉は確実に今、眼鏡の医者からこちらに対して発せられた。

 それに気になることは他にもある。

 明らかに違和感のある色とりどりの複数の線分。それらはどこを向いても常に視界の左下にあり上は緑色、下は青色でそれぞれ視認可能な程度にはほっそりと描かれている。

「ジルト。ジルト・ブリゼックって俺の名前か?」

 何かを思い出したわけではない。というか、その意味深な二つの細線の下に記されているのがその《ジルト・ブリゼック》という文字列であるのを見ただけだ。

 そしてそこから逆接の働きで、欠落しているのは記憶であることを俺は発見した。

 名前。

 俺は自分がなんという名前だったかを知らない。

 辺りの景色も妙だ。目を凝らすと分かる程度に過ぎないけれど明らかに現実に存在する環境ではない。つまり――精密にモデリングされてはいるが全てはCG。人間である白衣の眼鏡男ですらポリゴンなのだ。

「キミ、なんてことだ。まさか記憶喪失?」

 ポリゴンの医者はそのようにあくまでリアルな心理で俺を気遣っている。

 そんな時に不謹慎ではあるが、彼の口の動きは立体映像とは思えないほど台詞に合わせて正確に動く。

 医者の名はセイムスと言うらしい。ひとまず肯定を示すため俺は軽く頷いた。

「俺が誰か知っているか?」

「いや、すまない。ボクは急患として運ばれてきたあなたを、あくまで診察しただけなんだ。だけどボクにも分かる。あなたは間違いなくジルト・ブリゼックさ」

「つまり……どういうことだ」

 矛盾している答えに俺は戸惑ったが、要するに医者にも俺が見ている線と文字は見えるようなのだ。

「システムメニュー。いわゆるメニューなんだけど、そのコマンドなんだ。でも、もしかして」

「ああ、すまない。何を言っているのかさっぱりだ」

 セイムスは値踏みするように俺を見た。おそらく確かめているんだろう。俺が信頼に足る人間かどうか、その度合いを。

「うん、悪い人には見えない。いや、悪い人だとしても……ボクは医者だ。あなたを助けてあげたい」

 彼は決心し、俺にメニューの開き方を教えてくれた。神経を集中し、脳のどこかにあるその画面を引き出す細胞にアクセスする。

 記憶がないからか思ったよりは大変だったが、数分ほどで目の前に青い画面が現れた。

「青い四角に白い文字が浮かんでる。これが《メニュー》か?」

「オフコース。さあ、場違いのチュートリアルを始めようか」

 メニュー画面には《アイテム》、《スキル》、《ステータス》、そして《その他》の文字が整然と並んでいる。そこでセイムスは俺に《ステータス》を選択するように促した。

「読み上げれば良いか?」

「いや。この世界では、基本的に人間同士ならお互いのステータスをいつでも確認出来る。右上に星マークがあるだろう。そこに集中してみてよ」

 無意識に出来てしまっていたが、画面の《コマンド》とやらを選択するにはその項目に集中すれば良いみたいだ。俺は《ステータス》を選んだ時のように星マーク(☆)に集中した。

「なるほどな。キミはセイムス・シャーロップ。医者で……ほう、中々の強さを持っているな」

 名前が一番上にあり、レベルやHPなどそれこそゲームで見たことのある《パラメータ》が数値として表示されている。シャーロップ医師はレベルが34。おそらく強者の領域だろう。

「何度か星マークを押すと、表示モードが変わる。一番便利なのは《近辺簡易表示》で自分や近くにいる人間の名前、HP、SPを出すモードさ」

 ちなみに星マークの右にあるバツ印に集中すると最初のメニュー画面に戻るらしい。まるでパソコンのウィンドウだ。他にもパーティーを組んだ時用の表示など、数種類の表示形式が《ステータス》にはある。

「分かったよシャーロップ医師。もう《ステータス》についてはバッチリだ」

 俺はそう告げ、ベッドから――当然、入院しているので俺はベッドの中だった――足を投げ出して立ち上がろうとした。

「ぐあっ!?」

「だ、ダメですよ急に立ち上がっちゃあ。ブリゼックさん、しばらくは車椅子を使ってください」

 ひとまず俺はベッドに戻った。車椅子なんて、ゲームの世界だとしても妙に現実的でなんとなく恐い。

「膝をやられている。モンスターでも倒そうとしたんだろうか?」

「さあ。先ほども伝えたように、ボクはあなたを診察しただけだ。もっとも手術の必要はないみたいだから、そこは安心してくれ」

 抗生物質で炎症を抑える程度の一般的な治療。それで一週間ほど安静にしていれば大丈夫らしい。

「誰か面会には?」

「いや、あなたの付き添いは誰もいなかった。《僧侶》でもいれば《回復魔法》でなんとかなるだろうけどね」

 この世界はやはりどこかゲームのような概念がある。《魔法》なんて、どう考えてもファンタジーでしかない。

「しかし痛覚がオンなのをどうにかすれば、あるいは」

 少しだけ記憶が戻った。VRMMOと巷で呼ばれる、仮想現実大規模多人数オンライン。その中では確か痛覚設定という項目が存在し、オフにすれば痛みを感じる機能がカットされ多少の怪我なら歩けたはずだ。

 VRMMOの中ではここと似たようなポリゴン世界が写実的に精密に表現され、まるでゲームの中にいるような感覚を経験することが出来た。

「いや、もしかしなくても、ここもまたVRMMO……?」

「ブリゼックさん。よく分からないけど、しばらくゆっくり休んでください。もしボランティアの《僧侶》さんがいれば、すぐにでも退院出来ますし」

 この世界では《魔法》はそれなりに力を持っているらしく、治療の大部分に医療を必要とすることのない病院は基本無料という夢のような仕組みだ。

 俺はシャーロップ医師に礼を言い、助言通りおとなしく横になった。一日中寝ていても尿意も便意もなく、そこはゲームみたいな世界で本当にありがたい部分だ。食事も満腹になるという意味合いは皆無で単なるステータス回復手段、あるいはバフと呼ばれる一時強化手段のため任意で栄養摂取すれば充分。

 ただ違和感があるとすれば、俺の記憶にあるゲームの中とこの世界とはすっかり違うということだ。何もかも――たとえば病院なんて俺の知るVRMMOには実装されていない。

 しかし今はそんな事は割とどうでもいいって気分だ。親切そうなのはシャーロップ医師だけでなく看護師やリハビリ担当など病院のスタッフ全般。彼らが与えてくれる快適な入院生活で、煩わしい悩みは軽くなる。なんでも軽ければ軽いほうが良い。たとえば空に浮かぶ雲は、軽いからこそ我々に恵みの雨をもたらし田畑を潤してくれる。

 スタッフに誘われ俺は何度かリハビリ用の仮想モンスターと戦ってみた。看護師の中年女性がマシーンを動作させると同時にヴヴン、と小気味良い静かな動作音が戦闘訓練室に染み渡る。

 仮想世界で仮想モンスターとは滑稽だが、仮想と銘打ってあるだけに明らかに角張った輪郭をしているトカゲ兵士がグーンと下から順に組み立てられ、高度なプロジェクターで質感を伴い空気中に投影されていく。あくまでリハビリという名目なので貸し出されるのも安全な一メートルほどのゴム製の固すぎない棒だ。

「はい。じゃあよーい……始め」

 気だるそうなおばさんの合図でトカゲ兵士は動き出した。安っぽすぎて緑色であるとしかトカゲらしき特長が見当たらないヤツの顔は、ぬうっと急激に接近して来た。俺は咄嗟にゴム棒で防ごうとしたが頭にポリゴン剣が的中しダメージと判定されてしまった。

「兄さん、弱いね~」

「まあレベル3ですし」

 1でなく3と言うのはなんとも半端だが実際、俺の《レベル》、つまり大まかな戦闘技能の高さの目安はまだゲームを始めたての初心者である、たったの3という事実は取り消せない。それこそ俺がかつて凄腕の戦士だったのに、能力も含めた全てを取り上げられでもしていない限りはそうだ。

 それからもトカゲ兵士とは何度か戦ってみた。許可さえ貰えば一人ででも訓練室を利用出来るのが性格上合っていて助かった。

 だが勝てないものだ。仮想敵のAIはそれなりに高度に組まれているらしく、奇をてらって背後から打とうとしてさえ察知して反撃される。戯れとしては面白くはあるが訓練にしては少しばかり強すぎる。

「そう言えば、ジルトさんは《スキル》、持ってないんですか?」

 シャーロップ医師にそう聞かれて、俺は回答に窮した。記憶の片隅にそんな概念があるような気はしても、《スキル》とは何だったか俺はいまいち覚えていないのだ。

 たとえば《槍使い》なら槍を扱うため、《僧侶》なら回復系の《魔法》を扱うためにゲームシステムに仕込まれている要素。平たく言えばそれが《スキル》というものらしい。

「ボクの場合は剣を扱うんだ。冒険の時はね」

 使い続けさえすれば専用の職業でなくともある程度は後天的な才能として身に付くらしい。その辺りのリアリティーはいかにもVRだ。

「俺にオススメの武器はあるか」

「あいにくボクは医療が本分なのでね。武器のことなら、武器屋にでも聞いてみては?」

 すげなく告げられ退院を待ちぼうける日々を送りながら、いずれ戦いに明け暮れるのを空想して俺は心を保った。

 記憶はまだ戻らない。うっすらとも何も浮かばないあまり俺はもしかしたら病室で目を覚ましたあの日この世に生を受けた、かりそめの命なのかとすら疑った日もあった。

 確かめるすべはなく、ただかりそめにしては俺という人間は思考能力を随分と備えているだけに余計に混乱してしまう。普通ならそんなものなのかさえ似たような境遇、つまり記憶を失った他者に会わないがために知りようのない話だ。

 病室の窓から見えるのは、平凡な町並み。二階にある俺の病室からは意外に美しいその景色は心の憩いとなった。そして町の向こう側に広がるのは果てない平原。

 遠目にもモンスターらしき獣がちらほらいるが、遠い上に大した禍々しさを持たないだけに平和そのものと同義だ。ただしそんなのは俺の目に映る平和であり、平原のどこかでは悲劇もあれば茶番劇もあるだろう。それはどんな戦場も遠い地の民には現実の甘さ厳しさと大して違わないのに似ている。

「……《アップル・ハート》」

 おもむろに呟いたその言葉に他からぬ俺自身が驚いた。意味が分からないのにその言葉には不思議な魔性が満ちているような、そんな感覚が俺の体内を走っていく。

 謎に満ちた《アップル・ハート》。一体何を意味し、何を要求しているのかすら想像も付かないその言葉の意味を知る日は来るのだろうか。世界の意味が分かる日が来るとも分からないのと同様に。

 または神話と同様に。どんな神話も本当はいつからそこにあったか誰も知らないように、この世界が厳密にいつから始まったのかなんて一体誰に分かるというのだ。

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