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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第4章 有名バリスタ編
88/500

88杯目「自ら選択した道」

 しばらくは怪我のせいか、指が重く感じる。コーヒーしか淹れられない。


 璃子たちからはコーヒーを淹れることさえ控えるように言われた。


 治療に専念してほしいことが見て取れる。結局、実名告発動画は削除することにしたが、テレビや新聞では実名こそ載せられなかったものの、ネットを見る人もそこそこいたため、あっという間に主犯の実名が拡散されていた。削除したとは言っても、あいつらからすればもう手遅れだ。


 ここで仕返ししなければまた同じ過ちを繰り返すだろう。いじめをやめられない人間になるとどういうことになるのかを思い知るべきだ。全国中、いや、世界中のいじめっ子がこの動画を見ていじめの抑止になればそれでいい。インターネットの登場で、いじめっ子を告発しやすくなったのは良いことだ。


 今回ばかりは全国中が僕に味方した。今までは僕を差別主義者として煽るアンチもいたが、この事件によって、誰も僕に対して日本人規制法を撤廃しろとは言えなくなったのである。


 12月上旬、僕は来年の世界大会に向けてカッピングをしていた頃、少しばかり傷が治ってくる。


 幸いにも小指の損傷は影響しなかった。完治が間に合わなくても世界大会には出られそうだ。


 競技と全く同じ形式で練習をしてしまうと、多くのコーヒーを無駄に消耗することになる。8セット使っていたカップは1セットに限定している。これなら正解となる赤いシールをコップにたくさん張らずに済むし、赤いシールも必要最小限で済む。


 ある日のこと、久しぶりに小夜子がうちへとやってくる――。


 この季節は寒く、厚着にマフラーまで巻いていた。


「あず君、久しぶり」

「お、おう……」

「パナマゲイシャ1つ」

「あー、それもう今年分は売り切れちゃった」

「あちゃー、もっと早く来れば良かったぁ~」


 小夜子がカウンター席に顔をつけて落ち込む。


「指は大丈夫なの?」

「うん。世界大会までには治ると思う」

「日本を背負って戦っているあず君の骨を折るなんて……酷いことするね」


 小夜子は僕の小指を見ながら険しい表情だ。毎日こんな良心的な人に囲まれて暮らしていたら、僕は日本人を嫌いにならずに済んだかもしれないと思うと、どこかやるせない気持ちになる。


 不機嫌そうな顔をしていたのか、小夜子はすぐ異変に気づいたようだった。


「気分悪そうだけど、どうかしたの?」

「うちの親父が就職しろってうるさくてな」

「あー、機嫌が悪いと思ったら、就職のことだったんだ」

「親父は倒産してからずっと正規雇用を求め続けてさ……だから今でも正社員への就職に拘ってるんだ。しかもその思想を僕にまで押しつけてくる。ようやく諦めたかと思ったらこれだよ」

「私はあず君のお父さんの気持ち分かるなー」

「えっ? あんな堅物の気持ちが分かるの?」


 小夜子は何故親父が僕に就職を勧めるのかを説明してくれた。安定のない時代だからこそ、安定を望む人が多いとのことらしい。安定した就職というのは、将来の夢がない人、もしくは同調圧力に負けた人がするものだと思ってる。やりたいことが明確で、その過程に就職がないならしなくてもいい。


 就職はあくまでも生活するための手段にすぎない。小夜子は一度親父と話し合いをした方がいいと至極真っ当なアドバイスをくれたが、僕と同じくらい親父も頑固だ。


「小夜子さん、進路はどうしたんですか?」

「今は美容学校に通ってるの。親からは凄く反対されたけど、自分の人生は自分で決めないと、責任を取れない人間になるって言ったら、渋々認めてくれたの」

「それ、お兄ちゃんにもよく言われてました」

「えっ、そうなの? ……実はこの言葉、あず君からの受け売りなの」

「そうだったんですね」


 この言葉で昔を思い出す――自分の人生は自分で決めないと、責任を取れない人間になる。


 確かに僕はこの言葉を身内の他、何人かの知り合いにも言ったことがある。


 僕は数多くの選択を『自分』でしてきた。自分の決断に責任を負うくらいどうってことないが、大半の日本人は、自分ではなく『世間』が判断基準だ。


 みんなが通学や就職をしているから自分もするべきという思考の刷り込みだ。


 自分で考えて判断していないのだから、当然何かあれば責任逃れをするようになる。昔のテレビで今の自分は過去の選択の結果であると豪語する人を見たことがある。だがそう思っている人は何も分かっていない。確かに人生は選択の連続だ。だが自分で考え選択してきたことが数多くある一方で、選択の余地がないことも数多くあったはずだ。学生生活に関して言えば、僕が望んだ道ではなかった。


 義務である以上は自分で選べないし、その結果が今の日本人恐怖症であり、それが過去の選択による結果であると言われたところで、全く腑に落ちないのだ。


 選びたくても選べず、逃れたくても逃れられず。


 それでも自己責任と思っている人は、拒否権のない『地獄』という概念がないのだろう。


 だからこそ思う。同調圧力や不可抗力によってもたらされた結果を自己責任とは言わない。自ら考え行動した上で、結果の責を全て背負うことで、初めて選択と呼べるのだ。


 今歩いているバリスタの道、これは紛れもなく僕自身の選択だ。努力不足で店が潰れたとしても文句は言わない。だが拒否権のない地獄は別だ。これを選択、もしくは自己責任と呼ぶのであれば……交通事故も……災害事故も……全部被害者が自分で選択した道なのか?


 あいつらが無責任なのは、間違いなく世間を判断の基準とし、本当の意味で選択をしてこなかったからだ。僕だって世間や外部からの理不尽によってもたらされた結果を自分の選択とは思わないし、それに対して責任を取りたくもない。日本人はこの状態に慣れすぎたのだ。僕には日本人が拒否権のない地獄までをも、過去の選択であると刷り込まれている哀れな連中であるとしか思えない。


 全てが選択の結果であると言うなら、せめて自分の意志を貫かせてもらいたい。


 だから僕は……世間が嫌いだ。


「小4の音楽会の時、もしあず君にピアノ担当を譲っていたら、あず君は集団リンチされずに済んだのかなって思うことがあるの」

「あー、あれか。小夜子は何も悪くない。そもそも僕は参加したくなかったし、参加させられた時点で最初から負け確のゲームだったし、ロクな展開にならないことが目に見えてた。僕が音楽会に参加させられる破目になったのは馬鹿担任の選択だ。僕は他人の選択によって被害を被ったから他人のせいにしているのであって、自分から進んで参加して、それで最下位にでもなってたら、僕が責任を取ってた」

「あず君の言いたいことは分からなくもないけど、優秀な人間は環境に不満を言わないものだよ」

「小夜子にとって僕はポンコツか?」

「ポンコツではないけど、年相応の対応とは言えないかなー」

「年相応の生き方なんてしなくていいだろ。たとえ20歳(はたち)を過ぎたってさ、子供向けアニメが好きだったらずっと見続けたっていいんだ。子供向けアニメが好きなのに見ない人が多いのは、大人なのにそんなの見るのーとか言われて、世間に屈したからだ」

「「あー言えばこーゆー」」


 璃子も小夜子もジト目になりながら塩対応になる。


 大人になんてなりたくない。でも酒は飲みたい。これが大半の青年一歩前の本音ではなかろうか。


 小夜子とはピアノ担当の一件からずっと知り合いだが、悔いているとは思わなかった。


 ――済んだことは悔やんでも仕方ねえよ。


 日本人恐怖症以外で過去を引き摺ったことはない。昨日負けたことを悔いるよりも、今日勝つことを考えた方が建設的だ。今年はこれ以上の大会はないからこそ、店の営業に集中できる。


 小夜子と知り合ったのは小4の時で、小5の時から話すようになったわけだが、モテる女子であったが故に他の男子の嫉妬を買ってしまった。結局岩畑に譲られたが、僕には勿体ないくらいの才色兼備である。小夜子が言うには、美咲は紗綾と同じ大学に入学し、コーヒーサークルに入ったらしい。しかも僕の影響でメンバーが急速に増えているとのこと。香織はミュージシャンを目指してライブハウスで歌わせてもらっているらしい。美容学校の時はいつも僕の話題ばかり。


 小夜子が僕の元同級生であることもあり、毎日のように僕のことを聞かれたようだが、真っ先に心配したのは、彼女がストレスを感じているかどうかである。


 12月下旬、今年の終わりが段々と近づく。


 相変らず1日1回のカッピングをする。暇な時は動画を作ったり他人の動画を見たりしていた。雪は毎年の如くあまり降らないが、それでも寒いため、冬の季節感はあった。


 今年の内にやり残したことが1つだけある。金華珈琲の件だ。


 ある日のこと、閉店間際の金華珈琲を訪れた。


「おっ、久しぶりだねー。いらっしゃい」

「この前はうちの親が原因であんなことになって済まなかったな」

「あー、あれねー、別にいいんだよ。あず君は何も悪くないよ。和人さんも陽子さんも自分なりに考えてしてくれたことだから、責めないであげてね」

「呆れて責める気にもなれねえよ」


 店内には僕とマスターしかおらず、閉店間際特有の殺風景が金華珈琲を支配している。親父も糸井川も帰った後だ。マスターがキッチン側にある椅子に腰かけた。


「あず君が帰ってから、2人ともしょんぼりしてたよ」

「あれで懲りてくれたらいいんだけどな」

「もしあず君が一生分稼いだら、もう何も言わなくなるんじゃないかな。心配しているのは、食べていけるかどうかの部分だけだと思うし」

「一生分か……じゃあ今よりもっと稼げるようにならないといけないわけだ……ったく拝金主義の親を持つだけで、こっちまで大変だ」

「うちもつい最近まで赤字との戦いだったからしょうがないよ。昭和の頃は稼ぐほど豊かになれるっていう神話すらあったんだよ」

「もはや化石だな」

「みんなそういう教育を受けてきたから仕方ないよ。応援してるから、世界大会頑張ってね」

「……うん」


 この年もクリスマスがやってくる――。


 僕、璃子、吉樹、柚子、リサ、ルイ、レオ、エマ、大輔、優太、唯、鈴鹿、蓮、静乃というメンバーでクリスマスが行われた。小夜子たちは忙しくて来れなかった。


 今回はみんな進路がバラバラだったからなー。大人になるにつれて忙しくなってきたんだろう。だがこの時、初めていとこ全員が揃った。この年のクリスマスからは店を貸し切り状態にはせず、一般枠にも開放することに。もちろん、スペシャルメニューも用意している。


 元々こんな習慣は設けないはずだったのだが、いつの間にか習慣化されていた。


 部屋にはクリスマス特有の飾りつけが施されており、これらは全て璃子たちが自主的に飾りつけをしたものである。外にはクリスマスツリーが置かれている。店が狭くて中には置けなかった。


 来る予定のメンバー全員が揃うと、リサが仕切り始めた。大輔たちはワインを持ってきており、大人たちだけで分け合うことに。来年の誕生日を迎えれば、日本でも酒が飲めるようになる。アルコール自体は何度かヨーロッパにいる時にアイリッシュコーヒーを何度か飲んだが、今度はあの味を自分で再現できるようになりたい。僕はコーヒーのプロだが、コーヒーカクテルはほとんど未知の領域だ。


 来年にはバリスタオリンピックの日本代表を決める選考会がある。


 コーヒーカクテルも課題の1つだ。どうしても習得しておく必要がある。


 あぁ、早く飲みたい。もう年齢制限とかなしにして、自己責任で飲ませてほしい。


「それじゃ、メリークリスマス!」

「「「「「メリークリスマス!」」」」」


 午前12時、乾杯を済ませてからは大忙しになる。


 いとこたちが仲良しそうに話しながら過ごす中、調理が一段落したところで、唯に声をかけられる。


 この時の唯は赤を基調としたクリスマスの衣装を着ている。寒くないのだろうか。


「今年も終わりですね。来年はどう過ごすか決めてますか?」

「とりあえずWCTC(ワックトック)で優勝だな。JCTC(ジェイクトック)は楽勝だったけど、油断するつもりはない」

「確かロンドンで行われるんですよね?」

「ああ。確か唯の故郷だったよな?」

「はい。私はそこで生まれたんです。しばらくはロンドンで暮らしていました。お父さんが仕事の都合で日本に移住するようになって、それからはずっと日本暮らしです。最初に日本に来た時にお母さんと出会って、思い切ってロンドンまで一緒に来てから結婚式を挙げて、それからすぐ私が生まれたんですけど、また戻ることになるとは思わなかったみたいです」

「また戻る……か」

「今のところはそうなるかもしれないっていうだけで、まだ確定したわけじゃないんですけど、うちって本当に引っ越しが多いんですよ」


 やっぱりおかしい。他の人が引っ越す時は特に何も感じなかったのに……。


 唯がいなくなると……寂しくなるな。


 いとこたちは僕の過去を振り返っていた。璃子と柚子は僕と一緒にケルンまで旅行した話や、僕と一緒に働いた時の話だ。うちの労働環境は最良と言っていいものらしい。時給に加えて出来高まで設けるような職場はそうそうない。僕はある意味経営者には向かないのかも……。


 経営者は労働者を馬車馬のように働かせるのが基本であり、よくよく考えれば、サイコパスにピッタリな職業だ。労働者を過労させて、入院や死に追いやっても加害者が捕まらない国だし。真由と拓也にも来てほしかったな。唯と鈴鹿は初対面であったが、まるで何度も会っているかのように仲良く話している。僕という共通の話題が頼もしく思えるようだ。


「じゃあ、鈴鹿さんはあず君にピアノを買ってほしいんですね?」

「ええ。早く広い店に引っ越してくれないかなって思ってるけど、なかなかそうはいかないらしくて。でもずっと待ってる。あず君との約束だから」

「確かにお客さんの多さの割に店が狭いですもんね」

「私としてはあず君のために大きな店を買ってあげたいのだけど、私がそれを提案したら、自分で手に入れたものじゃなきゃ意味がないって言うの」

「お兄ちゃん特有の変な拘りですね」

「変な拘りじゃねえよ。そんなことしたら一生鈴鹿に頭が上がらなくなるだろ。僕は誰にも頭を下げずに生きていきたいから、この道を選んだんだ」

「誰にも屈することのない道?」

「そうだ」


 自信に満ちた顔で答えた。誰かにペコペコ頭を下げるのは好きじゃない。頼るべき時は頼るが、そのために頭を下げるのはめんどくさい。相手に懇願する時は頭を下げるのではなく、相手の望みを叶えた上で懇願する。インターネットビジネスなら顔を合わせる必要もない。取引が成立すればそれでいい。


 信頼関係なんてものは無理に築く必要はない。自然に出来上がっていくものだ。バリスタとして誠意あるコーヒー作りに取り組んでいれば、分かる人は必ず出てくることを知った。


「私もあず君の下で修業させてほしいなー」


 静乃の突然の思いつきに唯が動揺する。


「何でそうなるんだよ?」

「私の家は両親がカフェの経営とコーヒーの焙煎をやっていて、私もコーヒーが大好きなの。特に故郷のウクライナは『ジェズヴェ』が人気なの」

「ジェズヴェ?」

「コーヒーの歴史上最も古い抽出器具だ。トルコの場合はジェズヴェ、ギリシャの場合は『イブリック』と呼ばれていて、この両国は仲が悪いから、表記が2つあるわけだ」

「詳しいね……」

「おじいちゃんが使ってるところを見たことがある。でも何でうちなの?」

「葉月珈琲は私が見てきたカフェの中でも世界最高峰のお店だし、身近にある最高のカフェってここしかないんだよねー。それに――」

「それに……何?」


 静乃が真面目な顔で一瞬黙る。何かを覚悟しているかのようだ。


「私、あず君のことが好きなの」

「「「「「!」」」」」


 静乃が急に顔を赤くしながら告白をする。


 周囲は口を開けたまま絶句する者が多数派だったが、鈴鹿と柚子は冷静な表情だった。


「あら大胆」


 鈴鹿は机に肘をつき、片手で顎を支えながら僕と静乃を面白おかしく見つめる。


「クリスマスに告白なんて、ロマンチックだねぇ~」


 リサが最近始めたブロンドのポニテの毛先を手で触りながら、相手をいじりたそうなニヤけた表情で静乃を形容する。営業中ならまずしない行為だ。うちの店では営業中は首から上は絶対に触ってはいけないことになっている。触った場合は念入りに手を洗うのがルールだ。


 首から上は常に外気に晒している分、菌が溜まりやすい。元々は寿司屋で用いられていたルールだ。合理的かつ衛生的であるという理由で創業以来、ロングヘアーのスタッフが多くいるうちでも採用されている。髪の長さと清潔さは関係ないが、清潔感を出すために、ポニテで出勤することも少なくない。


 リサはここで始めたポニテがお気に入りであるとのこと。


「つまり、僕のファンになりたいってこと?」

「違う、恋人になりたいの」

「……恋人は勘弁してほしいな」

「えっ!」


 静乃が当然困り果てた表情になりながら僕に擦り寄ってくる。


「どうして駄目なの?」

「人生が重くなるから」

「重くなる?」

「あず君が言いたいのは、失うものとか守るものとかが増えるほど、身動きが取り辛くなるってこと」


 柚子が僕の言葉を静乃にも分かるように解説する。


「まあ、そういうことだ。僕はいかんせん人嫌いだからさ、友達も恋人もいらないっていう発想で生きてきたし、今のところは知り合いが限界だ」

「そう……私、最初はあず君のことを誤解してた。物凄い日本人嫌いだと思って、璃子に誘われてここで初めて会った時も、あず君と話すようになってからも、一方的に心を閉ざしてるって本気で思ってた。それが友達も恋人も作りたがらない理由なんじゃないかって。でも実際に接してみたら、あず君も普通の男子なんだって思えるようになってきたの」

「普通の男子?」

「あず君にも常識的なところがあったんだなって……案外あず君が1番まともな感覚を持った人間なんじゃないかなって思ったの」

「僕には普通とか常識みたいな概念は全くないし、単純に自分が良いと思ったことを貫いてきただけだからさ、その形容は的を射てないと思うぞ」

「お兄ちゃん、せっかく褒めてくれてるのに議論してどうすんの?」

「僕を知っているのは僕だけだ。少なくとも、今のところは友達も恋人もいらないし、僕なんかよりずっと良い相手がいると思うぞ」

「……分かった」


 静乃は力ない声で言葉を返すしかなかった。今はバリスタの頂点を目指すことに集中したい。それに僕は稼ぎも地位も不安定だし、僕の実態を知ったらすぐに幻滅されるのが目に見えてる。世の女は安定して稼げる相手を求めている。これは婚活市場に詳しい柚子から話を聞いたことで知った。普通でいいよなんて言う人ほど理想が高いし、世の中の人はみんな普通の人のふりをした変人だと思ってる。


 僕らのクリスマスが終わった。午後6時を過ぎたあたりで解散していく。


 静乃は唯たちと一緒に帰っていったが、店の中から外で唯が後ろ姿のまま泣いている静乃の頭を撫でながら慰めている光景を見てしまった。さっきまであんなに笑顔でみんなのムードメーカーだった彼女が泣いたことには驚いた。何で外に出てからそんなに泣くんだ?


 璃子に理由を聞いても、お兄ちゃんの鈍感男と冷たい声で言われ、いなされてしまう。


 考えれば考えるほど訳が分からなくなる。今年もよく働いた。この年は最初からずっとラッシュ続きだったし、あまり休めなかったけど、体調管理をしていたお陰か、無病息災で過ごせたのは進歩と言えるだろう。学生をやめてからは風邪1つ引いていない。また年末年始がやってくる。売り上げは今まででダントツだったけど、その分支出も多かった。収入は少し上がった程度だ。


 親の借金を返して資金不足になったこともあり、この年の法人化は諦めた。


 波乱続きだったこの年も、除夜の鐘と共に終わりを告げるのだった。

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