87杯目「帰ってきた悪夢」
東京帰りに金華珈琲に寄り道する。
これは璃子の提案である。璃子はお土産を親父とお袋に渡したいのだ。
戦果を報告しに行ったが、マスターが帰宅しており、みんな既に知っていた。
うちの親には東京に何人か知り合いがおり、コーヒーイベントに行くほどのコーヒーファンだ。知り合いからのメールで、昼頃には伝わっていたらしい。
親父は探偵かスパイなのかな?
僕はエスプレッソを飲んで余韻に浸っていた。隣の席では璃子もエスプレッソを飲んでいる。璃子もすっかりとここの味に馴染んでいた。これは間違いなく僕の影響だ。この日はマスターが大会で不在だったのか、親父、糸井川の2人で店の営業を行っていた。マスターは大会後すぐ金華珈琲に戻り、親父と糸井川に合流していた。親父がマスター代理か。余程信用されてるんだな。
――つまり僕は璃子を信用していないってことなのか?
いや、まだまだ実力不足ってだけだ。それに璃子の本職はバリスタではなくショコラティエ。成長が緩やかなのも無理はない。優子が言うには、璃子のショコラティエとしての実力は鰻登りらしい。
「あず君もマスターもお疲れ様。今日はあず君の祝勝会やろうよ」
お袋が金華珈琲主催の祝勝会を提案する。
「それはいいけど、もう東京でやったんじゃないのかな?」
「心配ねえよ。今日は美羽たちもいなかったし」
「美羽さんたちは就活中だから来れなかったんだって?」
「何で分かるの?」
「メール見てないの?」
「あっ、携帯全然見てなかった」
「流石お兄ちゃん」
これ絶対皮肉で言ってるやつだ。目の奥が笑ってない。
『あず君、JCTC優勝おめでとう。就活中で応援に行けなかったけど、あず君が無事に優勝してくれてよかった。流石はあたしのダーリン』
急いでメールの返信しようと、携帯のボタンを素早く操作する。
『ダーリンじゃない。僕は誰のものでもないぞ』
何がダーリンだよ。あの一件から全く反省していないようだ。
「それじゃ、あず君のJCTC優勝を祝って、カンパーイ!」
「「「「「カンパーイ!」」」」」
ここにいる全員が、マスターの奢りで淹れたそれぞれ1杯のコーヒーを持って乾杯し、いつもより小規模な僕の祝勝会が始まった。金華珈琲の常連たちも一緒であり、お袋も蜂谷さんも常連化していた。
マスターが人に奢る珍しい光景だ。ライバルのはずなのに、嫉妬の1つもせず、ここまで祝福できる人は珍しい。それが桂川慶という男なのだ。
おじいちゃんの人を見る目が突出していたことを改めて実感する。
「そういえば、僕がいない時の親戚の集会ってどうなってたの?」
「いつもと変わらないよ。最初はお兄ちゃんの自営業に反対する人が多数派だったけど、お兄ちゃんが優勝を重ねる毎に反対する人が少なくなっていったの。今じゃ誰も反対しなくなったよ。大輔も優太も伯父さんも伯母さんも、今回の優勝で何も言えなくなったんじゃないかな」
「じゃあいつも通りだったんだな」
「あず君の親戚に秘密がバレた時は、僕もどうなるかと思ったよ」
「あー、俺もその話聞きましたよ」
糸井川が話に割って入ってくる。
さっきまで他の常連と話してたよね?
「でも無事に借金は返せたんですよね?」
「ああ、あず君は親戚の一部と仲が悪くなってたんだけどな、今じゃ無事に全員と和解したんだ。昔のあず君だったら、まずできなかっただろうけどな」
「あんなの喧嘩の内にも入らねえよ」
親戚は僕の自営業に懐疑的だったが、年を追う毎に誰も文句すら言わなくなった。
反対するどころか、大会の結果を見守る様にすらなっていった。
「そういえば、お前のチャンネルに企業から依頼来てないか?」
「あー、割と来てたなー。それがどうかした?」
「お前がいつ店を潰しても大丈夫なように、色んな企業にあず君と一緒に仕事をしたり、拾ったりしてくれるように頼んでるんだよ」
「は?」
――いやいや、まるで意味が分からんぞ!
一緒に仕事をしたり、拾ったりしてくれるとか、それじゃ学校と変わらねえじゃねえか。そんなことになってみろ……またこの病気が悪化するに違いない。
企業とのコラボは何度か勧められていたが、全部断っていた。理由は簡単だ。仕事をする相手を選べないからだ。僕とてもう19歳、そんなことしなくても、自分で仕事ぐらい作れるっつーの。
「あのさ、僕をいくつだと思ってんの?」
「19歳だろ?」
「そうだ。来年にはもう20歳だ。19歳がどういう年齢か知ってるか? 余程の事情がない限り、自力で稼げる年齢だぞ」
「うっ……」
「えっ?」
突然、糸井川が頭を抱えて落ち込みキッチンへと引っ込んだ。一体どういうことだ?
「あー、多分、今の言葉でショックを受けてるんだよ」
「何で?」
「ほら、彼ってお世辞にも、自力で稼げてるとは言えないからさ」
「余程の事情があるからじゃねえの?」
「いや、彼の場合は、単に就職以外の生き方が怖いだけだよ」
「怖い?」
「この国ではね、大半の人はリスクを恐れて、仕事を作るよりも、仕事を振ってもらう方がずっと安心するんだよ。自分で仕事を作るのは、振ってもらうよりも責任が重いからね」
マスターが丁寧に糸井川の心境を説明してくれたが、何のことだかさっぱり分からない。
「つまり、日本人の大半は責任能力がないってこと?」
「ふふっ、そうじゃないよ。まあ彼の場合は、良い大学に行って、良い企業に就職するように親からも教師からも言われてきたみたいだけど、就活した時期が悪かったからねー。そうじゃなかったら、普通の暮らしができていたと思うんだよね」
――大輔と同じだ。つまりこういうことだ。彼らの世代は『就職』して生きていく前提の教育を施されたにもかかわらず、就職できなかったために、就職以外の生き方が分からない。だから彼らはその部分で足を見られ、悪い条件で働かされているんだ。
彼らの世代でも就職に依存しない生き方をしている人はうまくいっている。
悪いのは世代でも時代でもない。就職以外の生き方を一切教えてこなかった悪魔の洗脳だ。
全ては奴らが犯した『怠慢』にある。無論、これは氷河期世代に対する個人的な結論だが……。
「生きる力を与えられてこなかったんだな」
「まあそれを言うなら、和人さんもそうだよね?」
「何で俺が巻き添えになってんだよ?」
「だってあず君のプロフィールカードを作って、色んな企業に配ってたじゃん」
背筋が爆走するようにゾッとした。
「全部あず君のためだ。今やあず君は葉月家の貴重な収入源だからな。せっかく才能にも立場にも恵まれてるんだから、これを活かさない手はない。陽子だってそれくらい分かるだろ?」
「うん。あず君のためだもんねー」
まだそんなことを企んでやがったのか。
うちの親は未だに大手コーヒー会社に僕が就職することを望んでいた。親父は大手コーヒー会社に片っ端から僕のプロフィールカードを配っていた。何故そんな余計なことをするのか。
「どうりで僕のチャンネルに、企業からの問い合わせが殺到してたわけだ」
「あず君が就職できるように、俺が色んな企業に宣伝したんだ。保険だよ保険」
「余計なことしないでくれるか?」
「あず君の店がいつ潰れてもいいように、お父さんがアフターケアをしてくれてるんだから、ちょっとくらい感謝してもいいと思うけど」
「店潰れてほしいの?」
「そういうわけじゃないけど心配なんだよ。この会社なんか凄いぞ。正社員で福利厚生もあって、年収500万も出してくれるそうだ。中卒のお前をここまでの待遇で迎えてくれる会社なんてないぞ。安定した収入があった方が、ゆとりのある生活ができるってもんだ」
「いい加減にしろよっ!」
「「「「「!」」」」」
大声で怒鳴りながらお代を置くと、逃げるように金華珈琲から立ち去った。
僕は就職に向いてないって散々言ってるのに、何で親父もお袋も就職ばかり勧めてくるんだ?
企業からの問い合わせは全て断った。他の中卒よりも待遇が良いのは分かってたけど、そうじゃないんだよなー。僕が欲しいのは安定じゃない。好きなことに没頭できる環境だ。就職なんてしたら自由な時間がなくなるし、具体的にどんな仕事をするかさえ分かってないのに就職なんて軽率すぎだ。
親父が勧めた会社だって、就職したら東京に引っ越さないといけないし、値段の安いカフェだ。確実にモンスタークレーマーとぶつかるだろうし、コーヒーを淹れるだけで済むとしても、ただ決まったメニューを作るだけの毎日になる。何度言えば気が済むんだか。
転勤や部署異動もあるって書いてあった上に、最初に就く部署すら選べないし、明らかに中卒の若造だと思って馬鹿にしている契約書だ。こんな適材適所を無視した企業に入ったら、最終的に何の取り柄もない人間になってしまう。企業が部署移動をさせるのは苦手をなくすためだ。そうすることで、どこの部署にも回せる便利な歯車になっていく。具体的な仕事内容も書いていない。入ったら確実に何でも屋として使い捨てにされる。契約書を見てすぐに分かったが、親父は僕を就職させようとするあまり、企業の意図がまるで分かっていないようだった。無論、他の契約書も大差ない。
結局、どこの企業も僕を宣伝に使いたいだけで、僕の生活のことなんて何1つ考えていない。だからこそ拒否してるのに、うちの親は何にも分かっちゃいない。
一足先に自宅へ戻ると、当然ながら僕以外は誰もいない。
――あっ、腹が……減った。そういや昼飯以降何も食べてないんだった。
せっかくの祝勝会も台無しにしちゃったし、なんかもう疲れた。
11月上旬、段々と寒くなってくる。
この時、僕にとって久しぶりの悪夢がやってくる。
2009年11月3日火曜日、この日は文化の日である。
一般の連中はみんな学校も会社も休みだが、うちはいつも通りの営業日だ。日曜以外は極力店を開くようにしている。外国人のラッシュが少し控えめになる。
みんな待つのが嫌なのか、日を改めて来る者まで相次いだ。
午後3時頃、唯一の常連である唯に加え、少しばかり多くの外国人観光客が来ていた。
すると、招かれざる客が来た。あの虎沢龍、長良隆治、筑間凛季のいじめっ子トリオが葉月珈琲にずかずかと入ってきたのだ。黒いボサボサとした短髪に、派手目の高級な革ジャンが、ただでさえ目つきの悪いナチ野郎のガラの悪さに拍車をかけている。正直に言えば怖い。
僕は忘れていた。かつて外の世界で、こいつらに支配されていたことを。
「よお、久しぶりだな」
虎沢は日本人規制法を無視したばかりか、まるで何事もなかったかのように声をかけてきた。
迫害されたことを思い出し、体が震え出す。面倒事になる前にさっさと追い出そう。
「さっさと帰れっ! ここはお前らみたいなのが来ていい場所じゃないっ!」
衝動的に叫びながら退去を訴える。店内は完全に凍りつき、他の客も璃子たちも手を止めていた。
「ああ!? お前客に向かって何だその口の利き方は!?」
「お前らは客じゃない! 平和の敵だっ!」
「は? 平和を乱してたのはお前だろ。あん時はよくも教室中を滅茶苦茶にしてくれたよなー。あれ損害賠償請求してもいいよなー?」
「そうそう、呑気にこんなしょぼい店構えやがって。おまけに世界一のバリスタと呼ばれてちやほやされてるなんて、随分偉くなったもんだなー」
「僕の勝手だろ」
「お兄ちゃん、この人たちって……」
「こいつらは東洋のナチスだ。悪いが1人1人の違いすら許容できない連中は入店お断りだ。分かったらさっさと帰れっ! このナチ野郎共がっ!」
虎沢たちは引き下がらなかった。そればかりか更なる敵意を向けてくる。
「お前、そんなこと言ってただで済むと思うなよ」
「そっちこそ、これ以上居座ると営業妨害で警察呼ぶぞ」
「はぁ? 俺たちがいつ営業妨害したんだよ? 言ってみろよ!?」
奴らの挑発行為に堪忍袋の緒が切れた。
虎沢を威嚇するように目を大きく見開く。
「お前ら日本人の存在自体がハラスメントなんだよっ!」
「「「「「!」」」」」
――しまった! ここまで言うつもりはなかったのに……。
この言葉に周囲が青褪めるように驚いた。外国人観光客たちは日本語が分からないのか、意味が伝わっていないが、物凄い剣幕にドン引きすらしていた。
「……お兄ちゃん……今のは言い過ぎだよ」
悲しそうな顔をしている璃子が僕の横から宥めるように囁く。
痺れを切らした僕は店の扉を開けて奴らの帰宅を促す。さっきまでの明るい雰囲気が台無しだ。全部こいつらのせいだ。昔の同級生って、ほぼロクなのがいないな。
「……悪いことは言わん、さっさと帰れ」
ここでようやく3人が扉から出ようとする。
その時だった――。
虎沢が僕の右手を両手で掴む。
「お前には躾が必要みたいだ」
奴は僕の不意を突き、僕の右手を左手で持ちながら右手で僕の右手小指をへし折った。
「ああっ!」
「「「「「!」」」」」
周囲の人たちは戦場にいるかのように絶句し、僕を心配そうに見つめた。
逃げるようにいじめっ子トリオは立ち去っていく。
「ううっ、うっ、あああああぁぁぁぁぁ!」
床に崩れ落ちて泣き出していた。右手小指からはあの時と同じ激痛が走る。
――いってぇ……今度は右かよ……。
昔は別の同級生に左手小指を折られたことがあるが、右手小指を折られるとは思わなかった。またしても奴らに好き放題されてしまった。一生の不覚。だが以前のようにはいかない。
奴らはもう小中学生じゃないし、狭い学校の中でもない。
「だっ! 大丈夫ですかっ!?」
「……うぅ、痛い」
「酷い……早く病院に行った方がいいですよ」
左手で右手を固定するように支えながら葉月珈琲を出た。
「お兄ちゃん、何しに行くの?」
「第三次大戦だ」
「えっ!?」
璃子たちは僕の言葉にきょとんとしていた。近くにある交番まで歩いて行こうとする。
「待ってください」
後ろから唯が声をかけてくる。僕は泣き顔のまま後ろを振り返った。
「私も一緒に行かせてください」
「……いいけど、その代わり……」
「その代わり……何ですか?」
「会計を済ませてから来い……痛っ!」
「あっ……はい。今済ませてきます」
唯は会計することも忘れて僕を追いかけてきたことを思い出す。唯は苦笑いしながら会計を済ませ、僕と共に近くの交番まで赴いた。唯は僕の代わりに全てを説明してくれた。僕は激痛で説明も覚束ない状態なのに、何で1人で交番まで行こうとしたんだろうか。警察も日本人だし、怖いはずなのに……。
窮状に同情した警察官にタクシーを呼んでもらい、唯と共に病院まで赴いた。タクシー後部座席の右に僕、左に唯が座っている。ここまでついてこなくてもいいのに。
「痛みますか?」
「痛くなかったらあいつらをぶちのめしてた」
「皮肉を言う元気はあるんですね」
「……この頃ずっと怒鳴ってばっかりだな」
「そうなんですか?」
「うん……うちの親が……店が潰れた時のアフターケアとして、色んな企業に僕のプロフィールカードを配ってた。何だかしつこく就職を勧められてるように感じて、つい怒鳴っちゃったけど、今思うと怒る必要なんてなかった。何で僕、こんなに怒りっぽくなったんだろうな」
「最近のあず君は勝つことばかり考えていて、楽しむことを忘れている気がします」
「……」
楽しむことか……大会に勝つことばかりに囚われていたのかもしれない。
それは店の名を広めるためというよりは、僕自身が就職の道から無意識の内に必死に逃れようとしていたのかもしれない。気持ちに余裕がなくなっていたのは明白だ。
病院で治療を受けると、この日の内に退院する。右手小指を包帯でグルグル巻きにされ、しばらくは満足に小指を動かせない状態だ。あの時の記憶が鮮明に蘇ってくる。目の前の日本人が怖かったのか、ずっと目を瞑りながら治療を受けていた。唯は僕につきっきりで心配そうにしていた。
午後7時過ぎ、やっと家に帰ってくる。
唯には帰ってもらったが、あの心配そうな顔を忘れることはできなかった。
家に上がってみれば、璃子が夕食を作ってくれていた。
「それで? 第三次大戦はどうなったの?」
「まだ途中だ。一応警察にはあいつらの実名を伝えておいた。住居侵入と傷害の罪で、絶対に逮捕してもらう予定だけどな」
「お兄ちゃん、何であんなことを言ったの?」
「あんなことって?」
「日本人の存在自体がハラスメントだって言ったでしょ?」
「あれは僕の意思じゃねえよ。気がついた時にはもう言った後だったし……」
「外国人観光客がみんな日本語が分からない人たちばかりだったからよかったけど、一歩間違えば差別発言で報道されるところだよ。お兄ちゃんは有名人なんだから、ああいう言動は慎んでほしいな」
「評判なんかどうでもいい。あいつらは僕みたいな人間が嫌いなんだから、僕にだってあいつらを嫌う権利があるはずだ。こっちだけ気を使うなんて不公平だろ」
その後、虎沢たちが警察に逮捕されるが、全員すぐに釈放された。
あれだけ酷いことをしておいて、何で罪に問われないんだよ?
親父が僕の代理として警察に問い合わせてくれた。警察官の中でもかなり良心的な人から衝撃の事実を聞いた。虎沢グループは岐阜市のあらゆる事業に投資をしており、今そこの御曹司が有罪になってしまえば、虎沢グループの株が落ちるからであると説明された。
どうやら日本人には責任能力の概念がないらしい。だからいつも他者依存のマインドで、何かあれば必死に責任転嫁しようとし、事件が起これば平気で揉み消そうとする。
「ちくしょうっ!」
許せねえ、もう我慢の限界だ。
骨を折られた事実と主犯の名前を、動画を通してインターネット上に公開することに。
プライバシーが何だ。こっちは商売道具を傷つけられてるんだ。かつての教訓を思い出した。物理攻撃が効かないなら精神攻撃、まともに戦って勝てないなら、まともに戦わなければいい。
人を殴ってもいいのは、殴られる覚悟のある奴だけだ。
その後、僕の告発動画は世界中を駆け巡り、多くの人々がこの事件を知った。
動画のコメント欄には僕に同情する声コメントの他、プライバシーの問題を懸念するコメントが寄せられた。仕返しの権利がなければやられ損だ。虎沢グループの株は急降下したが、虎沢本人は平気で大学に行き続けているらしい。良くも悪くも恥知らずってわけか。
小指は損傷しても日常生活に支障は出ないが、店の営業をする時は気をつけないといけない。小指が使えないと握力が半減する。サイドメニューを作る時、食材の入ったフライパンを持つには握力が足りないため、皿洗いも念のためしないことにしたが、これで痛み分けってとこか。
しかし、これを公開した翌日、僕の家に警察がやってくる。
今すぐ動画を削除するように勧告された上で厳重注意を受けた。
――お前らがちゃんと裁かねえからこういうことになったんだろうがっ!
日本人恐怖症は悪化の一途を辿った。骨を折られた日を毎日のように思い出し、当分は外に出られなかった。親戚の集会の時以外での外出は極力避けることになったが、引き籠りには都合の良い理由だ。
「お兄ちゃん、テレビでも新聞でも全国ニュースになってたよ」
「そりゃそうだ。蜂谷さんにもお願いして情報をばら撒いてもらった」
「晒すのもいじめじゃないかな?」
「何で?」
「小指の怪我は時間が経てば治るけど、一度拡散された情報はずっと残り続けるんだよ。これじゃ痛み分けどころか、お兄ちゃんが余分に殴ってる気がするけど」
「あいつらが今までしてきたことを考えれば妥当な裁きだ。あいつらが敵に回す相手を間違えたと思い知るまでは戦い続ける。それだけのことだ」
「……」
11月下旬、僕が店の営業をし続けている頃、外国人観光客が途絶えることはなかったが、彼らがうちを訪れる度、包帯で固定されている小指の心配をしてくれた。
この光景は何度も見た。僕の心配じゃなく、店でゆっくり過ごすことを優先してほしい。
皮肉にもこの事件をきっかけに、璃子は最高のコーヒーを淹れようと奮起するのであった。
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