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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第20章 第一人者編
499/500

499杯目「安寧秩序のために」

 バールスターズでの死闘から数週間が過ぎた――。


 桜子とも結ばれ、唯からも歓迎され、一緒に住むことになった。


 これ以上彼女を作ることはないと断言したが、どうも信用されていない。というかこれ以上夜の営みの相手が増えたら体力が持たないし、僕に群がっていた女性たちは、すっかり僕のことを諦めている。


 子供たちにとっても大きな刺激になったようで、紫も雅も将来はバリスタを目指すとのこと。みんなは僕のバリスタ競技会での戦いを見続けてくれた生き証人だ。僕が経営者である内に、子供たちが無益な戦いを強いられることのない社会の基盤として、葉月グループの礎を築き、盤石なものとする必要がある。かつて旧杉山グループと対決せざるを得なかったのは、力がなかったからだ。創業者である僕の責務でもある。コーヒー業界の地位向上に十分な貢献をした。僕が何もせずとも、コーヒーファンは着実に増え続けるだろう。大会後、家に帰ってからは祝勝会兼引退祝いを行い、多くの身内が集まってくれた。葉月グループは大きな賭けに勝った。これで杉山派の連中とも戦える。


 クリスマスがやってくると、子供たちはプレゼント交換で大燥ぎだ。


 予算の範囲内で買ってきた物をみんなと交換する。葉月家と楠木家の子供たちのみで参加し、リボンで飾られた色違いのプレゼントボックスを曲に乗せて時計回りに渡していき、音楽が止んだらストップだ。プレゼントが気に入らない場合は後で商品券と交換し、葉月珈琲塾に寄贈される。


 誰のプレゼントが当たるか分からないため、心躍らせながら交換すると、開けたプレゼントに、子供たちは一喜一憂する。葉月家の子供たちは黙ったまま受け取る大人の対応だが、反応が素直なのが楠木家の子供たちだ。早くも自律を失いかけている兆候が見られ、感情のコントロールさえできなくなっている。自律を失った子供は、サービスに対して文句を言うようになり、自分がうまくいかないことを人のせいにする。プレゼント交換は将来飯を食えなさそうな子供を炙り出すためのイベントでもある。葉月珈琲塾でも実施されており、クリスマスの予定がない子供たちも同様、プレゼント交換をしているはずだ。予算1000円以内ではあるが、サービスに文句を言う子供は、飯を食えない大人予備軍として監視する。吉樹と美羽の子供が、プレゼントに文句を言い出した。


 美羽が子供を咎めた後、吉樹が子供を庭に連れて行き、プレゼントを渡した雅に美羽が駆け寄った。


「ごめんねー。うちの子、思ったことをそのまま言っちゃう癖があるの」

「いいのいいの。誰かにアプローチをする時は断られる覚悟をしてからやるもんだし」

「――ず、随分大人だね……あの子には、あたしからちゃんと言っておくね」


 美羽が心配そうな顔でため息を吐いた。母親になってからも気苦労は絶えない。


 僕はそんな彼女を戦場へと駆り出していたのだ。やはり決着をつける必要がある。


 杉山派の残党は、葉月グループへのネガティブキャンペーンを一向にやめようとはせず、徹底抗戦を主張する始末だ。結局、裁判には敗れ、杉山派グループの独立が認められた。旧杉山グループの約1割程度を占めていたグループ企業ではあるが、うちがクビにした連中を引き入れ、再び勢力を拡大しようとしている。放っておけば大きな癌細胞となることは目に見えていた。ブラック企業の元凶とも言える連中だ。吸収合併してから大粛清を行うのが理想的だが、苦戦を強いられることは想像に難くない。今ここで決着をつけなければ、子供の代になっても戦い続けることになる。雅は後を継ぐと言っているが、グループを継ぐのは簡単じゃない。ハードルを少しでも下げて希望を託す。


 美羽はリビングから離れ、廊下の壁に手をついた。


「はぁ~。何でなんだろ……」

「今じゃ立派な問題児だな」

「うちの子、段々自分から何もしなくなってるの。この前は運動会を拒否して家に引き籠ろうとしたの。それでゲームを取り上げたら、今度は家出する始末。なんか昔のあず君みたい」

「おじいちゃんも子供の頃は問題児だったし、隔世遺伝じゃねえか?」

「他人事みたいに言うけど、あず君の子供はちょっと大人しすぎじゃない?」

「うちの子供は最初からホームスクーリングだ。落ち着ける場所にいる安心があるからこそ、勉強にも運動にも遊びにも精が出るし、他人を気遣う余裕もできる。まだ通学させてるんだってな」

「――あたし、間違ってるのかな」

「美羽、学校は周りに合わせることは教えてくれるけど、社会に出て活躍することは何1つ教えてくれないぞ。むしろ今の社会で生きていくのに必要な主体性を削ぎ落とす致命的な副作用すらある。権力に従順忠実で、上の言うことだけ聞いて無難にやり過ごしてるような、うだつの上がらないサラリーマンになりたい奴にとっては、さぞうってつけの場所かもしれねえけどさ、そうでない子供にとっちゃ、ただの生き地獄だ。子供の頃に受けた教育の影響は、人格や生き方にずっと残り続けるんだぞ。社会情勢に合わない教育を施すのって、一生抜け出せない麻薬を与えるのと同じだと思うんだよなぁ~。ましてや学校に馴染めない奴を通学させ続けるなんて、虐待もいいとこだなぁ~」

「……ふ、不登校にしろって言いたいわけ?」

「僕が親ならそうするってだけ。でもあいつの教育方針は、吉樹と美羽が話し合って決めろ。正しいと思った道を進めばいい。でもその結果生じた責任はちゃんと取れよ」


 3階の自室へと続く階段を上がっていく。美羽は自らの方針に初めて疑問を持った。


 あれほど手をかけるなと言ったのにこれだよ。


 さっきだって子供の代わりに謝ってるし、このままじゃ将来が心配だ。


 子供がニートになっても一生面倒を見るべきだ。それは教育の成果なのだから。謝罪代行は大人の勝手だが、本来は子供同士で対話をして解決しなければならないことだ。下手に大人が介入し、平和を維持しようとする態度は管理主義そのものであり、トップダウンによる統制は民主主義に真っ向から反する行いだが、ここまでを理解できる日本人は少ない。対立したり問題が発生したりするのは当たり前だ。なのに対立や問題の発生そのものを拒むのが、この国の厄介な体質だ。民主主義だって、自らの手で勝ち取ったものではなく、与えられただけであるからこそ身につかないのだ。


 この国は自己責任と言いながら管理主義を押しつける矛盾した状況にある。


 自ら考え、解決する機会を奪い取り、当事者意識を失わせ、子供から恨まれる根源を大人たち自身が作り出してしまっている。こんな社会を変えるには、やはり教育システムから変えていく必要がある。ブラック企業に従順な人間を作ってきた。杉山派の連中は教育の成果そのものだ。


 残党狩りを千尋に任せてはいるが、もう僕を縛るものはない。


 今は家族と時間を共にしたい。来年からは杉山派の殲滅に僕も加勢する。


 美羽の頭を悩ませている問題は子育てだけではない。葉月グループ国内スカウト人事部長としての仕事を邪魔するかのように杉山派のネガティブキャンペーンがつきまとい、葉月グループの商品が売れなくなるばかりか有望株のバリスタを他のグループに持っていかれてしまった。お陰で美羽は干される格好だ。忙しかった先月までとは裏腹に、いくらスカウトしても、次世代を担うバリスタが集まらないのだ。葉月珈琲塾から輩出する方法しかないとなれば、不登校児からしかバリスタを輩出できない問題が発生する。経営者の仕事をしていてよく分かった。基礎的な仕事、要領の良さが求められる仕事、緻密なコミュニケーションを必要とする仕事は大卒の方が優秀だ。不登校児の中卒ばかりでは限界を迎える。


 企業には様々な人材が必要だ。大卒バリスタを採れない状況が続けば、やがてじり貧になる。


 旧杉山グループだって、元々は優秀な人材が流出するようになってから基盤が緩み、老衰とも受け取れるガタが出始めた。多くは要領の良い大卒が出ていったことが原因だ。


 仕事は1人でもできるが、事業は1人じゃできない。


「親父、ちょっといいかな?」


 雅が冷静沈着なまま、やや深刻そうに声のトーンを落として話しかけてくる。


「いいぞ。何かあったか?」


 僕の部屋のベッドに腰かけ、目の前に雅が立つ。何やら思うところがあるようだ。


「聞いたよ。親父がこれからやろうとしてること」

「やろうとしてることって何だよ?」

「……杉山派の企業を全部買収して、財産は全部没収して、最後は会社ごと潰す気なんでしょ? そんなことしたら、みんな失業して食べていけなくなっちゃうんじゃないの? 旧杉山グループだって、葉月グループが吸収合併した後、ほとんど潰しちゃったでしょ? そのせいで失業者がいっぱい出てきて、友達の親も親戚もみんな失業しちゃったんだよ。葉月グループが潤っているのは、杉山グループから奪い取った財産のお陰なんでしょ? こんなの酷すぎるよ……何でそんなことするのっ!?」


 声を荒げながら涙を流す雅。肩を震わせながら周囲の惨状を訴える。


 うちの長男なだけあってしっかり者だが、どこか平和主義で、かつての僕を思わせる。


 普段は意地っ張りで冷静沈着。小心者で戦うことを良しとしない。平たく言えば未熟者。だが自分がいかに未熟であるかをよく分かっている。心優しいが、まとめ上手で面倒見がいい。確固たる自分を持ちながらも他人に配慮ができるところは唯に似ている。もしかしたら、僕以上の経営者になるかもな。


 他の家なら子供だからと小馬鹿にし、肝心なことは何も話さず、誤魔化そうとするだろう。だがそれは子供が成長する機会を奪っているとも言える。大人になってから大人の事情や社会の構造を知るのでは遅すぎるのだ。僕の後を継ぎたいと言ったくらいだ。


 雅にもこの世の真実を教える時が来たのかもしれん。


 黙ったまま立ち上がり、雅のそばへと歩み寄る。


「杉山派はうちを潰した後、コーヒー業界で不正を働きながら、荒稼ぎするつもりでいる。あいつらは失った既得権益を取り戻したいんだ。プロ契約制度を廃止して、バリスタを安く買い叩こうとする計画も諦めてない。あいつらのコーヒー会社にはプロバリスタがいない。労働に見合わない安月給だ。今はまだ独立したばかりで規模が小さいけど、放っておけばやがて脅威になる。ただでさえあいつらのネガティブキャンペーンのせいで、うちの経営にまで支障をきたしてるんだ。あんな……この国を衰退させてきた連中が復興するようなことがあれば、昔の……今よりもっと生き辛かった世の中に逆戻りだ。老人共の茶番を終わらせない限り、生まれつき貧しいというだけで、能力が低いからというだけで、出世の機会を得られないばかりか、平穏な生活すらできないような、見るに堪えない社会がずっと続くんだ」

「……分かってる……分かってるよ……けど……」


 大粒の涙が頬を伝い、覚悟の決まらない虚しさが雅の口を塞いだ。


 雅が再び語り始める。葉月珈琲塾に通う日々を送り、葉月商店街の近所に住む子供たちの親は、旧杉山グループ傘下の企業に所属していた。しかし、大粛清以降、近所の子供たちの生活は一変した。失業の影響なのか、商店街にも姿を現さなくなり、生活保護を受給する一家が続出したばかりか、餓死者や空腹を苦にした自殺者までもが増加の一途を辿った。物質的には豊かと言われたこの日本でだ。


 食費を削らざるを得なくなり、栄養状態の悪い子供が大勢いるとのこと。


 見るに見かねた雅は他の兄弟と協力し、動画投稿の仕事で稼いだ私財を投じ、ボランティア活動をし始めたのだ。NPO法人に積極的な支援を行い、自身も食材を各家庭に届けている。どうりで最近帰りが遅いわけだ。僕は子供たちの心情に気づけないほど、感覚が麻痺してしまったんだろうか。


 まだ9歳だというのに、立派な息子に育ったもんだ。


 しかし、今の内に悪の芽を潰しておかなければ、そう遠くない将来、雅が杉山派と戦う破目になる。


 心優しい息子では潰されてしまうだろう。奴らを潰すなら、復興に手を拱いている今しかない。取引先にも協力を仰ぎ、今度はこっちから包囲網を敷いている。コーヒー業界の覇権を狙う他のグループ企業に対しても見せしめになる。奴らは葉月グループに歯向かう抑止力として貢献するだろう。


「雅、お前の言いたいことは分かった。貧しい家庭への支援には葉月グループも協力する。でもな、コーヒー業界を悪用しようとする連中が残っていたら、将来もっと多くの人が苦しむことになる。あえて失業率を高くしたのはベーシックインカムの導入を政府に急かすためだ。この国は労働者がいらなくなってきているにもかかわらず、働いて稼がないといけない構造だけが残ってるんだ。年金受給者も然りだ。無職であることが駄目なんじゃない。働かないと食えない仕組みが駄目なんだ。なのに生活保護の捕捉率はたったの2割。残りの8割は足元を見られて、より安い仕事で過重労働を強いられてる。うちが目指している社会はな、働いている人が正当に評価されて、意欲のない人が働かなくて済む尊厳社会だ。異なる人間同士が住み分けできて、誰1人置いてけぼりにしない社会だ。今の日本は行き過ぎた完璧主義に染まっているせいで、社会の御眼鏡に適わない大勢の人間が苦しんでる。ちょっとやそっとの規模じゃねえ。これから増えてくるぞ。こんな殺伐とした世の中を終わらせるためにも、まずはコーヒー業界を盤石なものにする必要がある。戦いが長引けば、多くの犠牲が出る。最小限の犠牲で済ませるにはこうするしかない」


 雅にはよく言い聞かせた。だが誰かに似たのか、人の言ったことをすぐ真に受ける性格ではない。


 コーヒーで世界を救うなんて、夢物語だと誰もが笑うだろう。だが僕はコーヒーで多くの人間が幸せに過ごしながら交流する光景を何度も目の当たりにしてきた。


 談笑に包まれたカフェが増えていけば、つまらないことで争うことだってなくなる。僕はその証明を何度も見た。最愛の恋人は、いつだって正しかった。


 そうでなければ――今の僕はなかった。


 納得はしないだろう。最悪恨まれることも覚悟している。


 戦いの責めは全て僕が背負う。子供や孫の世代が、安心して暮らせるように。


 落ち込み気味の雅を追い詰めるかの如く、今度は千尋が上機嫌に3階の自室へと入ってくる。


「あず君、杉山派の連中だけど、こっちの()()()を呑んでくれたよ」

「よくやった。早ければ来年にも決着がつくだろうな」

「決着って、どういうこと?」

「ネガティブキャンペーンをした分の懲罰的慰謝料を本部株で払ってくれるっていう約束だよ。既に契約も済ませておいたよ。でもあっさり譲歩してくれたね」

「有能な役員と社員は根こそぎ引っこ抜いておいたからな」

「懲罰的慰謝料?」

「厳密に言うと、杉山派グループの本部株を3割譲渡する代わりに包囲網を解除するっていう約束。もっとも、こっちは約束を守る気なんてないけどね」

「えっ?」


 死刑宣告でもされたかのように、口が開いたまま俯く雅。


「本部株を譲渡してもらった後は、残りの本部株を力尽くで全部奪い取る。吸収合併したら、全財産を没収して、旧杉山グループの企業を今度こそ全滅させるんだよ。この前言わなかったっけ?」

「千尋が言ったのかよ」

「……そんな、また大勢の人を失業させるつもりなの? 失業者が増えたら、また餓死する人とか貧困に苦しむ人がたくさん出てくるんだよ。何をしようとしているか分かってるの!? 約束まで破って、弱った相手を攻め込むなんて卑怯だよ! 親父は世界平和のために経営者になったんじゃないの!?」

「雅君、()()()()()()()のは経営の基本だよ」


 雅の表情に怖気が走る。最悪の事態を予感したらしい。


「やめろぉ! ……こんなの経営じゃない!」


 雅が僕の両肩に掴み掛かり、顔を真っ赤にしながら声を張り上げた。


「……これが経営だ……この世で最も愚かで……醜い……悪魔の所業だ」


 両肩を掴んでいる腕の握力が、穴の空いた風船のように弱まっていく。


「ううっ……あああああぁぁぁぁぁ~!」


 雅が床に跪きながら泣き叫ぶ。異常を察知した唯が急いで階段を上がってくると、すぐに雅を宥めながら部屋から連れ出し、木造の螺旋階段を下りていく。


 千尋は悪びれることもなく、目で見送っている。


 泣き叫ぶ声が小さくなっていく。千尋が静かに扉を閉めると、ベッドに腰かける僕を振り返った。


 嬉しそうに歯を見せ、乙女のような顔で歩み寄り、隣に腰かけると、ベッドが少しばかり揺れた。


「2人きりだね」

「だからって何も起きねえぞ」

「ねえ、新しいカフェを出店するって本当なの?」

「情報が早いな……あんなに煽ることなかったんじゃねえのか?」

「何言ってんの。あれくらいで折れるようならグループ企業の後継ぎなんて到底無理だよ。社会に出たら楽しいことばかりじゃない。辛いこともあるし、今の内に慣れておいた方が雅君のためだよ」

「全てはあの子次第か」


 千尋が言いたいこともよく分かる。今や葉月グループ育成部長となった。


 次世代幹部候補生を育てるのも重要な仕事だ。保守派の連中に妨害されることなく、時代に合った経営を思う存分推し進められる環境にいる。旧村瀬グループではできなかったことをうちでやってもらうとは言ったが、最初の育成相手が雅とは。しかもやることが鬼だ。


 もっとも、大人になってから地獄を見る方がずっと辛いことは火を見るより明らかだ。


「あず君、1つお願いがあるんだけどさ、あず君の新しいカフェができたら、僕も一緒にやりたい」

「千尋には葉月珈琲があるだろ」

「葉月グループ傘下でないことくらい承知の上だよ。それに葉月珈琲のマスターは、あず君に後を任された伊織ちゃんじゃないと。僕はどの道大会の時以外は役員の仕事に専念しないといけないからね」

「――まあでも、杉山派グループを鎮圧できたら、その時は考えてやるよ」

「ホントにっ! 約束だよ! ……仕事の時くらい、あず君のそばにいたいからさ」


 千尋が顔を赤らめながら言った。隣から距離を詰め、僕の肩に頭を乗せた。


 メジャー店舗で活躍するよりも、僕と同じ職場にいる方がずっと幸せのようだ。


 新しいカフェは、競争とか売り上げとか、そんなまどろっこしい概念に左右されることのない、ゆとりがあって心豊かで、誰もが楽しめる空間にしたい。力を求めるあまり、多くを犠牲にしてきた。利益を上げるためじゃなく、コーヒーを楽しむ気持ちを前面に押し出したカフェの経営こそ、僕が本当にやりたかったことだ。株の配当だけで暮らせるようになってからが、本当の意味で人生を問われるのだ。


 可処分所得の心配がなくなった後の世界とは、死ぬまでの可処分時間を充実させる余暇である。


「遂に隠さなくなったな」

「最初っからサイン出してたんだけどなー。葉月珈琲に誘われた時は……嬉しかった。誰に対してもいつもの自分を貫いて、自由にコーヒーを楽しむ時間が持てて、人づき合いまで自由なあず君に憧れてた」

「明日香のことはいいのか?」

「それはそれ、これはこれ。恋愛と結婚は分けてるからさ」


 如何にも天才らしい物事の割り切り方だと感心する。千尋にとっては、数少ない心安らぐ時間と思い、しばらくは肩に重みを感じたまま、ゆっくりと流れているクリスマスの時間は、刻一刻と過ぎていった。


 雅とはすぐ仲直りしたが、やはり僕の経営方針には納得していない様子である。


 葉月グループ最大の難関であった2025年は、僕らの辛勝に終わったのであった――。

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