492杯目「失われた何かを捜して」
11月上旬、バールスターズまで1ヵ月前――。
全部で30種類もある競技を実戦形式で練習する。
対抗馬として穂岐山珈琲の連中を呼ぼうと思ったが、根本たちは参加しないとのこと。今は再び基盤築き上げるので精一杯らしい。穂岐山珈琲は拠点を取り戻した。多くの人材がうちに渡ってしまった以上、全盛期の頃とまではいかないが、彼らも多くのバリスタを輩出していくだろう。
葉月グループに味方していたこともあり、全国に散らばった多くの旧杉山グループ残党及び取引先のグループ企業、俗に言う杉山派の企業から敬遠され、次の有力な取引先が見つけられずにいた。当分は身内同士で仕事を回すことを余儀なくされた。僕が降板するまでに杉山派をどうにかしなければ、葉月グループに未来はない。いくらコーヒー業界が伸びているからとはいえ、足を引っ張られ、基盤となる顧客を持っていかれたら、売り上げが下がり、事業規模を縮小しなければならなくなる。
事業拡大路線を継続する上で、杉山派は邪魔な存在だ。旧杉山グループの主力となる事業の大半は排除することができたが、杉山派を擁護するかのように取引先が割れている状況を放置すれば、またしても包囲網を張られてしまうだろう。いつか僕や璃子が引退した後、保守派たちの包囲網を突破できる経営者を輩出できる保証はない。つまり今潰す必要がある。こんな言い方は良くないが、呑気に大会に出ている場合ではないという焦りと必死に戦い続けている自分がいる。やはり経営者はやりたくない。
皐月と弥生と三位一体の練習をした。
第1回バールスターズ2021シアトル大会チャンピオン、チームマイケルの競技を画面越しに凝視しながら見守っている。どの競技に置いても隙がない。
全ての競技にも共通しているのは、3種類のコーヒーにまつわる競技であることだ。10種類のエスプレッソ競技、10種類のドリップコーヒー、10種類のラテアート競技が合計30種類あり、1対1の競技や2対2の競技があるが、恐ろしいのは3対3の競技が存在することだ。負ければ一気にスリーアウトだし、準決勝以降はこれに負ければ即敗退なのが恐ろしい。個人としての強さからチームワークまでもが問われる完成度の高いバリスタ競技会だ。流石は他のバリスタ競技会への参加経験をこの大会の参加条件にしているだけのことはある。バリスタオリンピックも2011年シアトル大会以降は他のバリスタ競技会での実績が書類選考で必須となっている。
マイケルはこの大会を最後に、バリスタ競技会を引退するらしい。
一度引退したはずのマイケルだが、再び戻ってきたのは何故だ?
ふと、疑問に思った僕だが、思考を遮断するかのようにスマホが振動する。
スマホ画面を見ると、璃子からの呼び出しだ。予定が整ったら葉月珈琲で落ち合うとのこと。
11月中旬、空気が乾燥し始めた頃だった――。
家の門から出た僕は葉月珈琲へと向かう。以前よりも客足が減っているのが確認できた。
杉山派の残党が積極的な葉月グループへのネガティブキャンペーンを開始した。
強引な手段で吸収合併した挙句、大勢の人を失業させた悪徳グループ企業として民衆に訴える作戦のとばっちりを受ける格好となったが、性根の悪さは杉山平蔵にも負けていない。しかも杉山派の筆頭があの里中ときた。千尋と仲が良かったはずなのに……いや、元からそんな気はなかった。
璃子と対面するようにテーブル席に腰かけた。
途中から手が空いた千尋が僕に気づき、指を曲げて誘い出すと、千尋は僕の隣に腰かけた。
かと思えば、すぐに美羽がドアベルをカランコロンと鳴らしながら入ってくる。
「あっ、いた。ごめんねー、仕事してたら遅くなっちゃった」
「気にしないでください。これから話すところだったので」
「それは良かった。あず君、久しぶり。元気してた?」
「まあな。美羽も元気そうで何より」
美羽が璃子の隣に腰かけると、これからの方針について語り合う。
美羽はポニーテールをやめ、ウェーブのかかったロングヘアーの璃子とは対照的に、シニヨンヘアーへとイメチェンしていた。若作りをするのではなく、年相応の格好と立ち振る舞いだが、以前よりも落ち着いた印象で、すっかりと良妻賢母だ。葉月グループ人事部長の仕事は以前よりも多忙を究めた。
それもそのはず、杉山派のネガティブキャンペーンの影響を諸に受けているのは人事部だ。失業者はもちろんのこと、新卒や既卒の次世代バリスタ候補生となる人たちまでもが葉月グループを避けて他の企業に入社してしまっているのだ。杉山派の企業は失業者たちを味方につけ、民衆の正義感を刺激し、幅を利かせているが、以前のような勢いはなく、まともに反撃されれば飛ぶような勢力の弱さだ。
しかし、吸収合併された恨みを晴らすか、倒産させない限り抵抗は続く。彼らは失った既得権益を取り戻そうと必死だ。旧杉山グループ企業を潰したのは、もし杉山派の人間がいれば、内部から潰されてしまう危険性もあったのだ。無論、疑わしい者から真っ先にクビにしたことは言うまでもない。ところがこれで終わらないのが人間の執念というもので、クビになった幹部が集結し、反革命分子として全国で活動しているのだ。ここは一度懲りさせなければ、邪魔をしてくることは間違いない。
過ちを改めない。これを本当の過ちと言うのだ。
「まあそんなわけで、バールスターズの準備自体はできてるんだけどさ、皐月も弥生も昔の僕とは全然違うって言ってたのが気になって……そんなに変わったか?」
「あたしはそこまで変わってないと思うよ。いつものあず君だし……でも昔のあず君だったら、チームのことなんて気にせず、もっと伸び伸び競技してたと思うよ。あたしが現役だった頃なんか、周りが見えないくらい没頭している時のあず君は脅威としか言いようがなかった。でも今のあず君はチームメイトのことばっかり心配してるよね。対戦相手から見れば、これほどやりやすい相手もいないかなーって」
「……璃子はどう思う?」
「お兄ちゃんは成長したと思うよ。以前よりも周りのことを気遣うようになったし、人に教えるのもうまくなったし、私から独立してくれて安心してる……けど……以前のような勢いがないっていうか……振り回されてムカついた時もあったけど、この人はきっと何かやってくれる、この人なら世の中を変えてくれるって、期待させてくれるオーラがあった。なのにさ、今は良くも悪くも丸くなってるというか。バリスタというより、経営者って感じ」
「分かるなぁー、昔のあず君はどんな困難にも真っ向から立ち向かっていく度胸があったけど、コーヒー農園を葉月グループ傘下に入れないあたり、思慮深くなったというか、背伸びしてる上品な大人を演じてる感じがするというか、リスクマネジメントを考えるようになったのは進歩なんじゃない」
「あれは私がお兄ちゃんに提案したの。そんな弱気でどうすんだよって言い返してくるものだと思ってたけど、あっさり受け入れて、今まで統合しなかったの。乗っ取られても大丈夫なように」
目を半開きにさせながらニヤリと笑みを浮かべる璃子。
以前より勢いがなくなった……か。言わんとしていることは分からんでもない。
僕にリーダーシップはない。サラリーマンに向いてないからというだけの理由で、個人事業主から始めたこの仕事だけど、本来なら社員たちを保護しないといけない立場なのに、僕が璃子たちに保護されてしまっている。釈然としないまま、注文したコーヒーをじっくりと味わいながら飲み干した。
コーヒーなら何かを教えてくれる気がした。
コーヒーの手も借りたい。コーヒーにも縋る思いだ。
思い切って競技に没頭する姿の僕はどこへやら。後先のことを考えるなんてらしくねえな。昔の僕は就職レールから外れることに何の抵抗もなかったし、結果的にこの決断は正解だった。先のことなんて何も考えずに突っ走っていたのは、世の中を知らなさすぎたからだ。知りすぎたが故に先が分かるようになってしまった。恐ろしい未来を予測できる者が起こす行動はただ1つ。未来をより良い方向に変えるため、厳しくても今を耐え、機会を掴み取ることだ。人を見れば未来が分かるなんて、ロクなもんじゃねえ。
璃子も美羽も千尋も、僕に呼応するかのように、同じコーヒーを飲み干した。
コーヒーカップを置く音がハッキリ聞こえる。店にあまり人がいない証拠だ。
杉山派を鎮圧しない限り、この状況は続くだろう。
外国人観光客は確保できるだろうが、国内市場を制覇したとは言えない。
むしろこのままでは、杉山派が出店した居酒屋カフェの台頭を恐れて潰しにかかったと言われても返す言葉がない。賭けで勝ったから撤退させたようなもので、直接対決で勝ったわけではない。
スタッフはバリスタ競技会で結果を出したプロバリスタばかりで、多くのコーヒーファンからは確かな尊敬を集めているし、全てのメニューに気を配り、店舗特有の色を出している。理想的ではあるが、僕が作りたかったカフェとはかけ離れている。大企業が出展したカフェとしては満点をあげたいくらいだが、僕が思う理想のカフェかと言われれば疑問符が残る。
葉月グループの成功は、あくまでも僕らにとっての成功だ。
「それにしても、まさかリビングをカフェにしちゃうなんてねー。オシャレだなー」
「私もそこは気になってました。お兄ちゃんがリビングをカフェにしたのは――」
「カフェに対して未練があるからだよね?」
「――かもな」
千尋の問いにうまく答えられなかった。素直に図星とは言えない。今の僕にはカフェがない。何があってもコーヒーを淹れて一息吐く場所がないのだ。
カフェのない日常なんて――そうだ、ないなら新しく作ればいいじゃん!
思い立った僕はハッと目を見開いた。
「お兄ちゃん?」
不思議そうに首を傾げる璃子。
「璃子、僕は閃いたぞ」
「まーたロクでもないことでも思いついた?」
「うちの近くにカフェをオープンする」
「「「えっ……」」」
3人が同時に目を丸くする。
「……あのねー、ただでさえここはカフェの激戦区なのに、何考えてんの?」
「僕に欠けているものが分かった。心のオアシスだ」
「日替わりで恋人と寝る贅沢を味わってるのに?」
唇を尖らせながら璃子が言った。
「それはそれ、これはこれだ。やっぱカフェあっての僕だろ。先月までは倒すべき相手がいたから気づかなかったけど、なんか物足りないと思ってたんだよなー。1日中のんびり過ごすだけじゃ駄目だ」
「うーん、ただでさえ那月ちゃんが来年オープンするメジャー店舗があるのに、メジャー店舗をもう1店舗オープンするとなると、派遣するバリスタの質が下がっちゃうかもねー」
「何言ってんの。僕は個人事業主として、独立した店舗を目指す。そっちはそっちでうまくやってくれ。スタッフは僕が集める」
「僕もあず君のお店で働きたいなー」
「千尋は葉月グループのエースという役目があるだろ。僕は階級とか利益とか、そういうまどろっこしいことを一切考えないで済むような、もっとのんびりしたカフェを構えたい」
「まっ、別にいいけど、今残っている仕事を全部終わらせてからにしてよ」
「あー美味しかったー。近況報告は十分聞けたし、あたし帰るね」
「お疲れ様です。じゃあ私も帰るから、うまくやってよね」
璃子も席から立ち上がり、入れ替わるように新たな客が来た。
千尋は桜子にいつまで座ってるんですかと呼び出され、席を離れてしまった。もはや僕の店ではないことを痛感する。葉月珈琲は旅行会社のパンフレットに載るような世界最高峰のカフェに成長した。だがそれは僕自身が目指すカフェの方向性とは異なるものであり、あくまでも一度は行ってみたい観光スポットとしての名物と化している上に、プロバリスタが目指す舞台にもなっている。
今気づいた。僕が目指しているものじゃない。
成功することを望んだのは、生活にゆとりを生むためだ。あくまでも足掛かりにすぎない。
本当にやりたかったことが見えてきた――。
「あれっ、アズサじゃん。こんな所で会えるなんてラッキー」
「ジェシー、それにマイケルにジェイク。何でここに?」
「知らないのか? バールスターズの舞台は東京だ。参加者はみんな日本に集まってる。私たちは一度、葉月珈琲の味がどんなものかを見に来たんだ」
自然な流れで、チームマイケルの3人が僕のいるテーブル席に腰かけた。
ジェシーは僕の隣に陣取り、人形のように僕の体に抱きついてくる。
柔らかい感触が腕から伝わり、思わず赤面する。正面には短い金髪の好青年、ジェイク・リースが腰かけている。WBCとWCIGSC前回大会で優勝し、皐月に次ぐ二冠達成を果たしている。次世代バリスタオリンピックチャンピオン筆頭候補と呼ばれており、2023年ダブリン大会でも、ワイルドカードによる準決勝進出を果たした猛者だ。
これからこんな化け物たちを相手に戦うことは、皐月も弥生も覚悟の上だ。
「アズサは総帥の仕事に専念してるんだって?」
「まあな。とは言っても、仕事のほとんどはシンガポールにいる本社の役員に任せてるけどな」
「ようやく日本のコーヒー業界で覇権争いを制したと思ったら、まだ手古摺っているようだな」
睨みを利かせるように、威圧感のあるマイケルの目と視線が合う。
逃げるようにすぐ目を逸らした。どうやら見透かされていたようだ。マイケルが始めたワールドコーヒーグループは、世界中のコーヒー業界の情報を網羅している。マイケルはアメリカでプロバリスタを育てる土壌を逸早く築き上げ、他を寄せつけない成長を見せている。資産家の生まれで自身も投資家ということもあり、ワールドコーヒーコーポレーションから多くのアメリカ代表が輩出されている。
尋問に応じるかのように、今までの事情を話した。
「だったらバールスターズで優勝することだな」
「うちが優勝して、何か変わるってのか?」
「バールスターズはただの大会じゃない。チーム戦のバリスタオリンピックとも言われている。結果を出せば今後のコーヒー業界に大きな影響を与えると言われているくらいだ。今ではチーム戦に特化したバリスタを集めてプロチームを作る動きも出ている。俺たちチームマイケルもその一角だ。日本はまだ即席チームばかりみたいだけど、今のままじゃ置いてかれちまうぜ。葉月グループには団結力を併せ持った実力者がいるのに、チーム戦の方には全然出てないだろ」
「……お、おう、そうだな」
「まあ、君は先月までグループの存亡を懸けた戦いをしていたんだから無理はない。邪魔がなければ今頃はチーム戦でも世界を圧倒していたかもしれないな。個人戦も重要だが、今のコーヒー業界のトレンドはチーム戦だ。葉月グループがこの流れに乗れば、日本で足を引っ張っている連中も鳴りを潜めるだろう。そのためにも、早く勝負をつけることだ」
「……考えとく」
愛想笑いを浮かべ、曖昧な返事をしてしまった。
コーヒー業界の動向を考える余裕などなかった。
しばらくはチームマイケルだけの会話が続く。世間話ばかりしているかと思いきや、今後のコーヒー業界のことを真剣に話している。注文したコーヒーの量が減るにつれて話がまとまっていく。
ジェシーがコーヒーカップをソーサーに置くと、再び僕に抱きついた。頭を揺らされながらも、僕はコーヒーのことで頭が一杯だ。こんな感覚、しばらく味わっていなかったような……。
マイケルたちのアドバイスは的を射ていた。
チーム戦がトレンドなら、プロチーム結成も検討するべきだろう。
今分かった。僕は足止めされていた。何もなければチーム戦の流行りにも気づいていたはずだ。個人戦だけなら十分に太刀打ちできるようにはなったが、チーム戦で日本勢として勝っているのは、チーム葉月珈琲のみという事実が全てを物語っている。連勝続きと言えば聞こえはいいが、裏を返せば、日本勢は僕なしで優勝などできないということだ。僕が引退した後のために、プロチームの基盤を作るべきだった。だがそんな余裕もなかった。やはり僕は経営者には不向きだ。事業拡大はできても、どこで見切りをつけるか、どの方向に進むべきかまでを熟考していなかったことを遠回しに指摘されている。
ジェシーとジェイクが千尋に誘われ、カウンター席に移動する。
マイケルは僕をジッと見たまま動こうとはせず、千尋に催促されても後にしてくれと断った。
葉月珈琲を始めとしたメジャー店舗では、有名バリスタが来店した場合、シグネチャードリンクの味見を依頼することがある。僕のマスター時代によくやっていたことが、いつの間にか店の方針として定着していることを千尋は利用した。バリスタにとっては新たな知見を得るチャンスだし、店側にとっては競技会で通用するかどうかのレベルで貴重な意見を貰える。
改善案を聞いて結果を出したバリスタもいる。
「アズサ、君はバリスタとしても人間としても、昔とは比べ物にならないほど成長した」
「そりゃどうも。あんたが誰かを褒めるなんて珍しいな。明日は雪でも降るんじゃないか?」
お茶を濁すように、追加注文したアイスコーヒーのグラスを回した。
「だが成長と引き換えに……失ってしまったものもあるようだ。私は今までにあらゆる個性を持ったバリスタを見てきたが、10年前に比べて、ここまで変わったバリスタは初めてだ。正直に言うが、今の君では私たちにはまず勝てない。失ったものを取り戻さない限りはな」
「……いつから異変に気づいていたの?」
「さっき君がドリップコーヒーを飲んでいた時のことだ。あれだけ大好きなコーヒーを前にして心が全く騒がなかった。10年前に東京で会った時の君は、周囲になんて目もくれず、好奇心の赴くまま、コーヒーを勢い良く飲み干していた。まるで風呂上がりにビールを飲む親父のようにな」
目の色が変わり、自分の中にあったはずの何かが浮かんでくる。
「12月になったら東京に来い。君がもし忘れているというなら思い出させてやる。かつて君が私に教えてくれた大事なことだ。言葉ではなく、競技を通してな」
マイケルはカウンター席に移動し、賑わっていたテーブル席には僕だけが残った。
返す言葉もないまま、僕は存在感を消し、会計を済ませて帰宅する。
――好奇心の赴くままか。
僕は最愛の恋人を趣味としてではなく、競争社会を生き抜くための武器として使ってきた負の歴史があるのだ。コーヒー愛なら誰にだって負けない自信がある。今までの勝利は偶然じゃないと言えるだけの根拠だってある。バールスターズに答えがあるというなら、どこにだって行ってやる!
僕は誰よりもコーヒーに夢中だった。余計なことは考えずに……。
なのに僕は……アロマやフレーバーやアフターテイストのことばかり気にしている。
コーヒーが持つ個性を無視して型にはめている。
今の僕は……旧態依然の了見で、人や物を見てしまっているのだ。
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