487杯目「最終兵器」
――コーヒーイベント4日目――
午前10時、JBCとJLAC決勝が始まった。
生き残った5人のバリスタが鎬を削り、頂点を決める戦いにはプロしかいない。
昔とは異なり、品種もプロセスも多様化し、環境の変化が最も堅調に表れやすい競技会だ。時代の変化や業界のトレンドは、JBCとJLACを見れば分かる。これから流行るコーヒーの最先端だ。ここで行われた競技で使われたコーヒーやラテアートは、しばらくのライムラグの後、一般にも出回ることを繰り返してきた。まさに流行の最先端だ。
連勝しているとはいえ、この日も油断はできない。
最初の競技者から大盛況が止まらない。ここまで生き延びただけあってオーラが全く違う。ここまでレベルが上がった今となっては、本物のプロだけが競技を行う資格を得る舞台だ。決勝の会場は準決勝までより豪華な装飾が施され、さながらバリスタオリンピックのようである。
JBCでの唯は最終8位、凜は最終9位となった。勝負は僕の勝ちだが、ファイナリストには至らなかった。だがよくやってくれた。何よりコピー競技の限界を教えてくれた。やはり競技は自ら考えを巡らせ、研究に裏打ちされた競技でなければまず勝てない。唯はここまでだが、凜には本命のJLACがある。今日は存分に力を発揮してくれるだろう。
優勝に関してなら心配はいらない。
うちには強力な『最終兵器』があるのだから。
「始めます。私たちバリスタの最大の目的は、コーヒーの魅力を世界中に広め、コーヒーを通して世界平和を実現することです。そのために必要なことは、コーヒーの無限大にある品種やプロセスを多くの人に知ってもらうことです。そして自分の拘りと最も一致するフェイバリットコーヒーを見つけることです。次世代のバリスタたちのフェイバリットコーヒーとなるべく、このコーヒーは生まれたと言っても過言ではありません。今回使用するコーヒーは、生産国はパナマ、プロセスはナチュラル・カーボニック・マセレーション、品種は『ハヅキゲイシャシドラ』です。ゲイシャもシドラも、バリスタであれば一度は聞いたことがあると思います。このゲイシャシドラは葉月グループがゲイシャとシドラを何世帯にもわたって掛け合わせることで生まれた、究極のコーヒー豆です。ゲイシャはボディに、シドラはアフターテイストに課題がありましたが、このゲイシャシドラは、それらの弱点を補い合うばかりか、それぞれの長所がより際立って目立つものとなっております」
葉月グループはインヒューズドコーヒーは一切作らず、あくまでも世界最高峰かつ自然由来のコーヒー豆に拘り続けた。全ては杉山グループを倒すためだ。コーヒーの研究自体は地道に緩くやるつもりであったが、そうも言ってられなくなった。コーヒーは種類の割に遺伝的多様性に乏しく、病気に弱いという弱点があった。そこで病原菌に耐性を持ったまま世界最高峰のコーヒー豆を作れないかと、葉月珈琲農園傘下のコーヒー農園全てに号令を出し、競争させた結果、コーヒー豆の集大成とも呼べる品種が次々に生まれた。人工的な添加などせずとも、自然由来でありたいのは僕も同じだ。
うちの原点でもあるブリランテ・フトゥロ農園からたまたま見つかった品種だが、命名権は僕にあったため、特徴を説明してもらってから命名するよう言われ、咄嗟にハヅキゲイシャシドラと言ったが、競技に自分の名前を冠した品種が現れるのは名誉なことだ。しばらくは企業秘密として誰にも公開せず、うちの競技者たちだけに使わせた。これを敵に使われたら、それこそ猛威を振るわれかねない。熾烈な競争が生み出した新たなコーヒーは、やはり僕に味方をしてくれた。
予選も準決勝も余裕で1位通過したコーヒー豆だ。
これを使っているのは響だ。うちの戦力の中では最も練度が高い。コーヒーカクテラーの道を究めた響の矛先はバリスタである。ならば現時点でコーヒー豆に対する好奇心が特に旺盛な響が適任だ。コーヒー豆の品評会でも、恐らく2例目となる満点を取るだろう。うちの全てが懸かっているんだ。絶対に油断はできない。コーヒーも僕の背中を押してくれている。諦めた者に運は訪れない。
最愛の恋人も諦めてはいないようだ。
「ハヅキゲイシャシドラのフレーバーです。ネーブルオレンジ、マーマレードヨーグルト、アフターにはブラッドオレンジを感じます。スイートでクリーミーなテクスチャーです。エスプレッソはスプーンで5回掻き混ぜてからお召し上がりください。ミルクビバレッジでは、ハヅキゲイシャシドラのコーヒーに最も合う、高温殺菌の牛乳を使ったカプチーノをご提供いたします。この牛乳は栄養の豊かな穀物の身を与えられた牛から採れた北海道の牛乳で、今回のコーヒーに最も合っていると感じました。シグネチャードリンクでは、自然由来のアカシアの蜂蜜を煮詰め、オレンジに浸けて作ったシロップを投入することで、ハヅキゲイシャシドラのフレーバーを最大限に高めることができ、より複雑さを増したコーヒーからローヤルオレンジシロップのフレーバーを感じていただけます。より深みのある甘味と酸味です。百花のアロマとも称されるこのコーヒーですが、園長のフリオが言うには、偶然と呼ぶには勿体ないほど、奇跡の発見だったとのことです」
響のプレゼンに観客は声を上げることも忘れ、没頭するように見入っている。
フリオはしばらくの間、パナマ代表バリスタとしてのキャリアを歩んだ後、ブリランテ・フトゥロ農園の園長に就任し、親父譲りの勘を発揮し始めた。バリスタの仕事をこなしている内に、またコーヒー農園でコーヒーノキを育ててみたいと聞いた僕は、迷うことなくフリオを次期園長として誘った。
ファビオが育てたパナマゲイシャは今も健在だ。
あのフレーバーは今も忘れていない。バリスタが進化するように、コーヒーだって進化する。ハヅキゲイシャシドラはファビオのパナマゲイシャを祖先に持っているのだ。
響の競技が終わると、ホッと胸を撫で下ろし、意気揚々とインタビューを受ける。
自信に満ち溢れた響の顔からはインタビュアーでさえ元気が貰えるほどだ。
続いてJLACのブースに移動すると、丁度凜の競技が始まっていた。サポーターチーム筆頭はリサだった。リサたち4兄弟は大輔や優太と共に葉月グループ投稿部を代表して、自らサポーターチームに立候補したのだ。璃子が事情を話したのは間違いない。じゃなきゃ競技でもねえのにこんな表舞台に出てくるなんて考えられねえよ。リサたちもJCTC地方予選に出場したが、既にリサたちが通用するレベルではなくなっていたのか、みんな予選落ちした。
大会レベルの大幅な向上に驚いたリサたちは、強化合宿への参加を希望した。現実主義で僕の起業に反対するような凡人気質で、プロなんて目指したがらなかった大輔までもが、コーヒー好きが高じて、プロバリスタ兼任という形で究めようとしているのだ。優太に至っては妻の美月がラテアーティストであり、同様にラテアーティストを目指していると聞いたが、究めるには相応の時間がかかる。もはやプロスポーツだ。外国でもCスポーツとしてバリスタ競技会が紹介され、徐々に認知度を高めている。
僕はコーヒー業界台頭の恩恵を受けている。
ようやく報われた気がした。先駆者は血を流すが、成功すれば既得権益を得る。
だが未来の僕はそんなしょうもないもの、あっさり手放すだろう。
権力は人を駄目にする。今まさにその最たる例と対決している。権力に物を言えるだけの権威だけ持っていればそれでいい。僕はこれから権威主義をぶっ潰すために権威を使う。何とも滑稽ではあるが、力を終わらせられるのは力のみだ。話し合いだけで解決できるなら戦争なんて起こらない。
だが杉山社長の自信に満ちた顔は何だ? まるでとっくの昔に戦いが終わっているかのような立ち振る舞いだった。ただの演技にしては出来過ぎている。
水無が恐る恐る僕に歩み寄ってくる。
「君の方から会いに来るってことは、決意ができたんだな?」
「はい。本当に弟の手術費用を負担していただけるんですか?」
「あったりめーだろ。昨日も言ったけど、杉山社長は約束を破る気満々だ。アマチュアチームが勝ったところで、一生分の年金なんて当てにしない方がいい。見捨てても訴える金がないことなんて、とっくに見透かされてる。帝国主義は今も僕らの心に生き続けてる。弱さは罪なんだ。やり返せない奴だと分かった瞬間につけ込まれる。だから学習して、知識と技能を身につける必要があるってことだ。なのに親も教師も肝心なことに限って何も教えず、綺麗事の世界だけを見せる教育が正しいことだと思い込んでる。これが如何に罪深いことか、よく分かっただろ?」
「どうして私の親と教師が、綺麗事ばかりを見せてきたって分かるんですか?」
不機嫌そうに軽く腕を組みながら水無が言った。
「分かるよ。杉山社長から叱責を受けた時、委縮して何にも言い返せなかっただろ。みんなしてママにも言われたことないのに~って顔してた。明らかに揉め事の経験不足だ。上の言う通りにしていればそれでいいって思いながら生きてきたのがスケスケなんだよ。世の中には気に入らない奴なんて探せばいくらでもいるし、揉め事ありきで、誰かとぶつかった時の対処法を学んでいなければ苦戦する。それこそが社会の壁の正体だ。君は社会の壁にぶつかったまま立ち尽くしているところを不運にも杉山社長に拾われた。あくまでも……捨て駒としてだけどな」
「棘のある言い方が気に入りませんけど……あなたの言う通りかもしれません。平和に過ごせればそれでいいと思っていたのが、甘かったのかもしれません」
「その気持ちは間違ってない。矛盾してるかもしれねえけど、平和に生きるってのはな、誰にも従わなくてもいいくらいの力を持てるようになって、世俗を離れてやっと成立するものだ。でもこんな大事なことに限って、誰も教えちゃくれない。悲しいよな。だから僕はそんな悲しい人間を減らすために葉月珈琲塾を始めた。どうしたいか言ってみろ。何のためにバリスタをやっているのか、一度考えてみろ」
「……私は……弟の手術費用を稼ぐために……ずっと穂岐山珈琲で働いてきました。正直、手術費用を稼いだ先のことなんて考えてません。弟はあなたに憧れています。手術が成功して歩けるようになったらバリスタを目指すって言うんです。事故にあなたが関わっていることを伝えました。あなたを恨むどころか、自分が歩けない体になってしまったのは、あず君に荷物を届けようと舞い上がって、事故を起こしてしまった代償だと言ったんです」
水無弟は発注先が僕であることを知って喜んでいた。
疲労困憊であったにもかかわらず、僕に届けたい一心で運転してくれていたんだ。
ただの過労による事故じゃなかった。憧れ故に起こってしまった事故だった。あの頃の僕は休日知らずで根を詰めていた。僕が世間の影響を受けていたように、世間もまた僕の影響を受けていたならば、一心不乱に頂点を目指す僕に感化され、水無弟は休息が大事な仕事であることを忘れてしまっていた。
――だったらきっと僕の責任だろう。
「水無、手術費用は僕のポケットマネーで支払う。決定事項だ。異論は認めない」
「ちょっと、何勝手に決めてるんですか」
「どの道手術しないと話が進まねえだろ。あの頃の僕は成功するために必要なことを聞かれる度に、好きなことを見つけて没頭することだと答えていた。でも本当は違う。没頭できるだけの体力があったのは、睡眠をちゃんと取っていたからだ。昔の僕は生活リズムがバラバラだった。規則正しい生活をしていたのは主に大会の時だけで、練習に没頭するあまり、業務を疎かにして、客に怒られたことがあった。僕の弱点は一度没頭し始めたら歯止めが利かないことだ。そしたら唯に夜更かしを禁止されて、大会前は時間管理を徹底的にしてもらうようになってからは仕事でミスをしなくなった。まっ、お陰で家の主導権を全部握られちまったけどな」
「ふふっ、情けないですね。でも、どうしてもと仰るなら、謹んで受け取らせていただきます」
笑みを浮かべながら水無が言った。
意思を確認した僕は、再び競技に目を向けた。
この後どうするかはアマチュアチームの連中次第だ。アマチュアチーム最後の生き残りである村雲は死に物狂いで事に臨んでいる。エヴァやカートはあの場にいなかった。リタイアしているならサポートに回るのが定石だが、既に競技を終えていた連中とは異なり、サポーターチームに混ざっていた形跡はない。どこにいたかは知らないが、一体何を企んでいるんだ?
競技会が進行し、結果発表が近づくにつれて観客動員数も増えてくる。
運営は遂に整理券まで配り始めた。アナたち海外勢には帰る場所がない。財産を整理して、どこかの国で移民として暮らしていく覚悟はとっくにできているはずだ。海外勢の連中を見ていると、どんな社会構造にも必ず割を食う連中がいるのだと感じる。
「もうすぐ結果発表だね」
「璃子、今日で終わるんだよな?」
「終わらないよ。この1週間が終わるまでね」
「どういうことだよ?」
「その内分かる。杉山グループ本部株は50%確保したけど、まだ取引が続いてるとこ。名目上はお兄ちゃんの指示ってことになってるから、株主総会に出席して話を合わせてよね」
「吸収合併する方に全部投票か。でも本部株が過半数を超えないと可決できないんだろ?」
「このまま買収し続ければ、たとえ負けたとしても、コーヒーイベントが終わるまでには、予定通り杉山グループを吸収合併できるはずだよ」
「――だといいけどな」
嘘を吐いた。こんな勝ち方は本意ではない。
予定通りって言うけど、予定通りにならないことの方が多いわけで。
もし杉山社長が僕に似ているなら、恐らくは最後の一手を打っているはずだ。
そのためには全ての勝負を成立させなければならない。
――ん? 成立? ちょっと待てよ。何か引っ掛かる。
僕らはとんでもない見落としをしていたのかもしれない。
慌てて桃色のスマホを起動し、優勝回数勝負の条項を確認する。
第七条、バリスタ競技会に参加する葉月グループと杉山グループのバリスタは、認められた範囲内であれば、好きなコーヒー豆を使ってもいいものとする。
第八条、規定違反のコーヒー豆を使った場合は不正と見なし、順位に関係なく、対象となる競技会は過失が認められた側のグループを無条件敗退とする。
第九条、葉月グループと杉山グループのバリスタの内、両方のバリスタが何らかの事情によって競技会に参加できず、勝負が成立しなかった場合、如何なる理由があろうと引き分けとして扱う。
第十条、引き分けが発生した場合、両方のグループに1勝が追加されるものとする。
第十一条、決着がついた場合、2025年のコーヒーイベント終了時に条約執行を行うものとする。
第十二条、この条約が執行されるまでに、どちらかのグループが何らかの事情によって事業存続不可能となった場合、優勝回数勝負は無効とする。
「――しまった! やられた!」
「えっ……やられたって、何が?」
「あのじじい、優勝回数勝負にとんでもない落とし穴を仕掛けていやがった」
「優勝回数勝負自体は、既に杉山社長が7つの競技会の内の3つをリタイアして、JCRCの分と明日の分は勝ちだから、今日全部勝てばうちの勝ちで成立するんじゃないの?」
「違う。第九条をよく見てみろ。最後に優勝回数勝負の契約を交わした時の追加条項だ。葉月グループと杉山グループのバリスタの内、両方のバリスタが何らかの事情によって競技会に参加できず、勝負が成立しなかった場合、如何なる理由があろうと引き分けとして扱う。先に11勝した方が勝ちになるというルールは、全ての競技会で両方のバリスタが対戦した場合の話だ。第十条にはこうある。引き分けが発生した場合は両方に1勝が追加される。つまりこの勝負、先にリードした方が勝ちってことだ」
「リードした方が勝ちとは言っても、引き分けが発生するわけ――!」
「やっと気づいたか。コーヒーイベント初日からずっとエヴァとカートの姿が見当たらねえんだ。恐らくはリタイアする気でいる。つまりこのまま葉月グループのバリスタまで、何らかの事情で競技会に参加できなかった場合は杉山グループに11勝目が追加されて敗退するってことだ」
「だったらその前に吸収合併すればいいだけでしょ」
余裕の笑みを浮かべながら璃子が言った。
もしやと思った璃子は水色のスマホを片手に協会のホームページを調べた。
JCRCには両方のグループのバリスタが参加している。葉月グループのバリスタが参加している以上、杉山グループ側がリタイアするメリットはない。
「何でJCRCに有田さんが出てるの?」
「理由までは分からないけど、杉山グループのバリスタも有田も参加していて、有田は準決勝敗退になってんだよ。つまりこの勝負は成立している」
「だったらどうして、杉山グループは有田さんのリタイアを宣言したの?」
「有田のリタイア宣言を知っているのは、葉月グループと杉山グループの幹部と当事者のみ。他の連中は知らないんだよ。リタイア宣言も石原からのメールで分かったことだ。璃子が知らないってことは、多分杉山社長も知らないと考えて間違いない」
「第三勢力がいるってこと?」
「今はまだ何とも言えねえな」
調べている内に分かったことがある。
杉山社長は両方のリタイアを狙っている。
JCRCの段階で成功していれば、危うく相手側の不戦勝だった。ここは一度吉樹たちを集めて話を聞いてみた方が良さそうだ。
僕の勘が正しければ、吉樹たちには確かな危機が迫っていたはずだ。僕らが恐れる最悪の事態が。
吉樹にメールを送った。何か変わったことがあったかと聞けば、アマチュアチームにいた石原が交流の証にコーヒーを淹れてくれたとのこと。敵なんだから少しは疑えよと、危機管理のなさをこっそり指摘しておいたが、多分1年も経てば忘れるだろう。準決勝の前に石原が淹れたコーヒーを飲んだが、何ともなかったという。睡眠薬を盛られていても不思議じゃなかった。ここは石原に聞いた方が早いか。
石原にメールを送る。この方が会話もしやすいだろう。
優勝回数勝負の件については知らないようで、葉月グループのバリスタ全員に睡眠薬入りのコーヒーを送りつけるまでは良かったが、誰1人眠らなかったという。鷹見弟にも聞いてみれば、睡眠薬を杉山グループに送っていた。吉樹たちを競技前に眠らせ、全員リタイアさせたところで有田もリタイアする算段であったことが見て取れる。僕が思った以上の汚さだ。
紙一重の戦いは、深淵から覗かれているようで気味が悪い。
読んでいただきありがとうございます。
気に入っていただければ下から評価ボタンを押していただけると嬉しいです。




