476杯目「忖度はいらぬ」
花月さんは上品に鯖の味噌煮を口に運び、塩辛い味を堪能する。
食堂にいるのは僕らを含めて数人だけだが、どの時間帯にも必ず人がいる。
夜勤の人のために24時間営業をしているが、3段階にシフトを分けている。初めての試みだ。失敗するようなら廃止するつもりでいたが、この時間にも開いていたのが幸いした。かつてのようにギスギスした空気が支配することはなく、理由は他でもない改革の成果だ。
正社員も非正規社員も制服を自由化した。これなら誰が正社員なのかが分からなくなるし、何より格差が分かりにくいのもポイントだ。格差を分かりにくくするなら、制服が最も確実な方法ではあるが、世の中には僕のように制服や背広をダサいと思っている人間もいる。みんなの感覚で言うならば、僕が背広を着るのは、カーニバルの派手な衣装で外に出るのと同じくらい恥ずかしいことだ。無論、制服が好きな人間もいる。ならば自由でいい結論に至った。
少数意見への配慮も、民主主義の大事な務めだ。
「私はこの食堂が好きなんです。他のお店に行くと、必ず女性向けのメニューを勧められますから」
「あー、属性だけで決めつけるやつね」
「そうなんです。私はこう見えて結構食べる方なんです。あまり大きな声では言えませんけど……ここは何を注文しても何も言われません。小盛りにするか大盛りにするかまで聞いてくれます」
「本来はそれが当たり前なんだけどね」
葉月グループと他の日本企業の1番の違い。それは忖度をしないことである。
あまり知られていないが、ほとんどの忖度は有難迷惑なのだ。
忖度が意味を成すのは、相手の意図に沿っている場合のみ。それ以外のパターンは全て大きなお世話になりかねないのだが、指摘すること自体が失礼に当たるとされるためか、人知れず忖度のとばっちりを受けてしまう人は昔からいるのだ。僕が学生の頃、文化祭で人気アニメのグッズが子供に配布されるイベントに強制参加させられた時だった。僕はセーラー服の女子中学生が悪を倒す某アニメのグッズを受け取ろうと思ったが、配布していた人から、君は男の子だからこっちねと言われ、仮面をかぶった男がバイクに乗る某特撮ヒーローのグッズを渡された。
結局、教師からの反発もあり、こういう決まりだからと、受け取ることができなかった。
僕のことを男性という属性だけで好みまで決めつけ、変に先回りしようとする態度が解せなかった。
この国から忖度をなくしたかった。
忖度とは長年つき合い続けて、お互いのことを知り尽くして初めてできるようになるもの。それを初対面の相手に用いようとするのは流石に無理がある。察する文化とは言っても、所詮はただの人間である。エスパーじゃないなら当然分からないことの方が多い。察しているのではなく分かったつもりになっているだけの多数派的価値観の押しつけだ。いらぬ忖度のとばっちりを最も受けているのが少数派の人間だ。葉月グループの究極の目的は、少数派の人々が生き易い尊厳社会の確立だ。
尊厳社会の第一歩として葉月グループは忖度を禁止とした。ヨーロッパでは相手が誰であれ、あなたは何が望みなのかと必ず聞く。1人1人がバラバラで、人種も宗教も思想も全く違う人々の集まりである。当然相手のことを何も聞かずに分かる方が不思議なわけで、分からないから聞くという当たり前のことをしているだけだが、日本の場合はそうはいかない。相手の望みを聞こうともせず属性だけで判断し、この人はこう考えているだろうと決めつける悪習がある。察して相手のために良かれと思って先回りすることを美徳としているがために、型にはめる習慣が染みついてしまっているのだ。
社会の壁なんて言うが、壁を作っているのは社会人である日本人なんだ。
日本人が壁をなくしてさえくれれば、僕みたいな少数派の人間はもっと楽に伸び伸び過ごせるというのに、誰も改善の一手を打ってはくれない。察する文化はあくまでも身内のみに適用されるものであることは馬鹿でも分かる。だからこそ僕は葉月グループを創業した。昔こそコーヒー好きの子供は変わり者として扱われているが、今では当たり前のように受け入れられている。葉月グループの隠れた功績だ。違いを認めず、一様一律に扱おうとする態度は、傲慢以外の何ものでもない。
たとえ幼児が大盛りを注文したとしても、注文通りに出すことをマニュアル化した。
正社員及び役員専用にすることを目的としたアパルトヘイト政策のことも知っていたようで、葉月梓としての僕がバリスタランドの株を手に入れたことで政策を没案にした逸話を他人事のように話すと、花月さんは感銘を受け、一度会ってみたいと好奇心を露わにする。
――もう会ってるんだけどな。あくまでも仮の姿だけど。
「そういえば聞きたいことがあったんだけど、花月さんが歌劇団を始めたきっかけって何?」
「さっきの忖度の話に繋がるんですけど、私が子供の頃はアスリート志望だったんです。あの頃はマラソン日本代表の全盛期でした。でも当時の社会は今ほど寛容ではなく、女性だからというだけの理由で選択肢が狭まる環境も少なくなかったんです。世界に羽ばたいた才能がある一方で、潰された才能はその何百倍もあるだろうと子供ながらに感じました。私がいた学校はかなり保守的で、運動部に入れたのは男子だけだったんです。女子という理由で、演劇部に入ることを余儀なくされました。ミュージカルが趣味だったので、歌劇団のごっこ遊びをしていたら、当時の部長から男役に向いていると言われて、本格的に劇団俳優を目指すことになりました。私は持って生まれた属性だけで、好みから将来まで決めつけられる社会を変えたいと思って、男役として活動しながら、女性の地位向上に心血を注いできました。今では独立した歌劇団を率いるまでになりました。ですがご覧の通り、葉月グループの後ろ盾がなければ、歌劇団を維持することもできません……」
「――立派だと思うよ。でも何でこの場所を選んでくれたのかな?」
「……ここは私たちにとって、絶好の場所ですから」
少しばかりの笑みを浮かべる花月さん。
彼女がここにいる理由が分かった。目的は恐らく潜入捜査だ。
あの反応からずっと怪しいと思っていた。鍛冶議員と槍崎さんとも関係があると思われる。どんなに演技が上手な人だろうと、咄嗟の反応だけは誤魔化しが利かない。
食べ終えると、僕と花月さん以外に人がいなくなる。どうやら夜勤に本気を出し始めたらしい。定期的に人が集まってくるが、一時的に人が来なくなる時間帯もある。皿洗いの水音だけが響く中、席を立ち、トレイを返却口に置くと、花月さんも同様に返却口に置き、すぐに回収された。
「いつもありがとうございます。あっ、あなた雁来さんでしょ。ここんとこあなた評判なんですよ」
中年女性スタッフの1人が嬉しそうに声をかけた。
「そ、そうなんだ……」
脊髄反射で返事をすると、中年女性スタッフは店の奥へと引っ込んだ。
「雁来さんのこと、あのスタッフに教えてもらったんです」
花月さんは雁来木染としての僕を最初から知っていたようだ。
些細なことだが、誤魔化しが利かなくなったのは大きい。
それなりの信用はあるらしい。相手の心境を聞くことばかりを考えていたが、今気が変わった。自分から心境を話さなければ、相手だって心を開いてはくれない。閉じていたのはむしろ僕の方だ。
「花月さん、ちょっといいかな?」
「どうかしたんですか?」
「私は行方不明になった槍崎さんを捜してるの。これだけ捜しても見つからないってことは、多分もう鍛冶議員に始末されたんだろうけど、それでも死体を見つけることができれば鍛冶議員を弾劾できる。プロ契約制度はバリスタの才能を持った子供たちを世界に羽ばたかせるために必要な制度なの。プロ契約制度を廃止されたら、コーヒーが好きな子供たちは保守的な法案のために夢を諦めることになる。みんな新しいことだからと改革に反対するけど、私は旧態依然とした社会を本気で変えたいと思ってる」
下を向いていた花月さんがハッと何かを思い立ったように目線を上にあげた。
花月さんに歩み寄り、視線を合わせると、僕は彼女の両肩に両手を優しく置いた。
「どんなに些細なことでも構わない。槍崎さんのことで何か知っていたら教えて欲しいの」
「……分かりました。雁来さんには全てをお話しします。ついてきてください」
言われるがまま、僕は花月さんの真後ろからついていき、再び劇場用駐車場へと足を運ぶ。
周囲の気配を警戒し、人がいないことを確認しながら、忍者のように音もなく足を動かす。
劇団員たちには午後10時には消灯するように言っており、午後10時から少しの間は自由に身動きが取れることを教えてくれた。定期的に劇場用駐車場を訪れては、目立たない場所にあるキャンピングカーを心配して訪れているという。何やら隠しているものがあるようだ。
白いキャンピングカーの前で足を止める。
「雁来さん、今からあなたにだけ秘密を明かします。このことはくれぐれも内密にお願いします」
「分かった。己に誓うよ」
安心の笑みを浮かべると、花月さんはキャンピングカーの扉の鍵を開けた。
中に案内されると、少しばかり老けた印象の中年男性が腰かけている。肌は見るからに真っ白で、日光を避けながらキャンピングカーに住みついているようだ。清潔にはしているようだが、髪は首まで伸びていて、気力がまるで伝わってこないくらいの弱々しい印象だ。
「おかえり……その子は一体……」
「お父さん、この人は信用できる人だから大丈夫だよ」
「お父さん?」
「紹介します。私の父です」
「槍崎悟志と申します。普段は訳あってここに住んでいる者です」
「えっ……この人が?」
「はい。私の本名は槍崎宙。花月雪星は芸名というより伏せ名です」
「鍛冶議員に狙われないようにするためでしょ?」
「なっ、何故君がそのことを?」
「この人、お父さんのことを捜していたみたいなの。でも鍛冶議員の味方ではないから安心して」
まさか槍崎さんが生きているとは思わなかった。
確認もせず死人扱いしたのは反省点だな。本来ならすぐにでも報告したいところだが、そうも言ってられなくなった。皮肉にも璃子と喧嘩中だったのが幸いしている。人気のない場所にひっそりとキャンピングカーを停めているのは、歌劇団専用のキャンピングカーを用意することで誰にも干渉されない隠れ蓑にできるためだ。他にもいくつかのキャンピングカーがブラフとして置かれ、特定が困難である上に、もしバレたとしても、キャンピングカーであればすぐ逃げられる。清掃員ですら来ないし、監視カメラも設置されていないこの場所は安全地帯というわけだ。
気配を殺し、いつ見つかっても不思議ではないと恐怖に苛まれながら暮らすのはさぞ苦痛だろう。少しでもリラックスできるように、中にはエスプレッソマシンまで置かれている。
今まで耐え続けた反動なのか、槍崎さんは全てを話してくれた。
株式会社槍崎フードサービスは由緒正しい料亭チェーンであった。
時代の波に押され、売り上げは下降の一途を辿り、なりふり構ってなどいられなくなったが、コーヒー業界の台頭もあり、事業は徐々にコーヒー事業へとシフトする予定であったが、料亭チェーンによる既得権益を獲得していた当時の専務、鍛冶議員が猛反対した。この言動を怪しいと思った槍崎さんは鍛冶議員を弾劾しようと証拠を集め、会社の金を不正に使用し、税金を誤魔化していたことが発覚した。
不正発覚の翌日、槍崎さんは被害届を警察に届け出るところを先回りされ、気づけば全身ずぶ濡れでボロボロの状態で川の下流にいた。話を聞く限り、槍崎さんは恐らく鍛冶議員に何らかの方法で気を失い、川に沈められたものと思われる。九死に一生を得た槍崎さんは急いで花月さんに連絡し、花月さんに発見された時には瀕死の状態であった。予てから槍崎フードサービスの事情を知っていた花月さんは鍛冶議員の仕業と感づいて病院側に事情を説明し、入院を隠蔽してもらうと、退院後は劇団用に使われていたキャンピングカーに避難し、立ち入る人が限られている劇場用駐車場で細々と住み着いた。
バレてしまえば命の危険がある以上、鍛冶議員の出世街道を闊歩する様を、指を咥えて見ているしかなかった。警察に届け出ようと考えなかった理由を聞いてみれば、手元にあった証拠は全て揉み消されたという。身動きが取れない状況で弾劾の機会を窺おうと、娘である花月さんが自ら進んで不正の証拠を集めたのだ。バリスタランド創設が決まり、アトラクション施設の1つに劇場が造られることが決定すると、既に芸名で活動していた花月さん自ら専属の歌劇団として名乗りを上げ、住み込みで活動するようになってからは、自由時間となる夜中にバリスタランド内を調べ上げ、いつの間にか園内の道を知り尽くしたという。どうりで迷路のようなこの場所で僕を追い続けることができたわけだ。ましてや劇場用駐車場なら誰かが入ることを常に監視する必要がある。
「私の会社は鍛冶親子の思うがままだ。あんな男が当選すれば、社会は更に腐敗するだろうな」
「だから私がここに来た時、警戒しながら声をかけたわけね」
「キャンピングカーには監視カメラが取りつけてあります。誰かに見つかれば一大事ですから」
「……事情はよく分かった。私は葉月グループの一員として、鍛冶議員の当選を阻止しようと思ってる。何よりコーヒー業界の未来を守りたい。あんたたちは鍛冶議員を逮捕して、元の生活に戻りたい。なら話は簡単。私たちの利害は一致している。協力しましょ」
「それは構いませんけど、何をするつもりなんです?」
「決まってるでしょ。鍛冶議員を弾劾する。槍崎さんが生きているなら不正の証拠は揃えられる。あんたほど用心深い人間なら、どこかに証拠のコピーを隠してるんじゃないの?」
「確かにそうだが、困ったことに……場所を思い出せないんだ」
「父は事件前後の記憶がないんです。1つ確かなのは、緊急搬送された時、父がコーヒーを飲んでいたということです。もっとも、それだけで場所が分かれば苦労はしません」
深いため息を吐く花月さんは頭を抱え、その場に座り込んでしまった。
「……私たちは何も悪いことはしていないのに、何で10年も逃亡生活なんて……」
悲しみが目に浮かび、理不尽を噛みしめる。
見ていただけなのに、こっちまで悲しくなってくる。
――今分かった。これが……璃子が言っていたシンパシーだ。
シンパシーを感じるとは共に苦しむこと。人が何故人のために動くのか、時に打算を超えた判断をするのかが、ようやく分かった気がする。僕とて打算で行動を決めたことはない。公共の利益を最大化することはあっても、私利私欲のためなんかじゃない。
自分のためだけに生きても破滅しかないことは歴史が教えてくれた。
事件の前にコーヒーを飲んでいたということは、気絶させられたのは休憩時間、つまり鍛冶議員に誘われてコーヒーを飲んだということだろうか。確かあの時の槍崎フードサービスはコーヒー業界に移行する最中だったはず。土門社長と業務提携を結んだのも、コーヒー業界に居座ってきた者たちのノウハウを吸収するためだったとしたら、新しいコーヒーを持ってきて和解案を出すことも十分考えられる。
「槍崎さんの会社は葉月グループが必ず取り戻す。それまで辛抱できる?」
「できるとも。10年も隠れて暮らしてきた。今思い描ける中で最大の恩恵だ」
「今はここで待ってて。本来はあんたが鍛冶議員を弾劾するべきだけど、命の危険がある以上、ここは葉月グループに任せてほしいの」
「……分かった。君に私たちの未来を託す」
僕はコクリと頷いた。人目を気にしながらホテルに戻る。
花月さんは追ってこない。槍崎さんのそばにいたいらしい。何故加害者がのうのうと生きて、被害者が我慢をしなければならないのか、こんな社会を作ってきた連中も大概だが、社会の腐敗を放置してきた僕らにも責任の一端はある。何より自分の無力さに腹が立つ。こんな気持ちを持っているニートたちと出会ってきた日々を思い出す。ニートたちの中には、腐敗した社会を作り、放置してきた連中となど一緒に働きたくないと答えた者もいる。そりゃそうだ。仕事ができるかできないか以前に、真面目で誠実な人ほど損を被って評価されない社会なんて、こっちから願い下げと言いたくなる。
急いで田辺さんたちに捜索解除命令を出し、槍崎さんを捜す仕事は終わった。
翌日――。
花月さんとメアドを交換し、雁来木染は名目上葉月グループ本社所属の役員となった。
雁来木染としてメールを送信する時には、念入りの言葉遣い確認が必要だな。
槍崎さんが生きていたのは幸いだった。てっきり鍛冶議員に殺されたものだと思っていたが、それは死を装っていたからで、全くの先入観であったのは槍崎さんの思う壺だろう。殺人未遂ではあるが、恐らくコーヒーに睡眠薬を投入され、眠っている間に川の上流から放り込まれたものと思われる。
上流となる場所はあったが、下流はバリスタランド建設のために埋め立てられしまい、すっかり見えなくなっている。今分かった。鍛冶議員は槍崎さんが死んだものと思い、万が一にも掘り返されないよう、バリスタランド建設によって土地の埋め立てをした。そのために土地を買い漁る必要があったと考えれば説明がつく。たった一度の大きな過ちを隠すために多くの過ちを重ねた。
家に帰ると、僕が手をかけるよりも先に扉が開いた。
ひょっこりと頭を出したのは唯だった。後ろには伊織と皐月が佇んでおり、玄関で迎え入れてくれた。
状況が進展したことを僕の表情からすぐに読み取ると、僕はゆっくりと靴を脱いだ。
「おかえりなさい。子供たちがいるので、急いで3階まで上がってください」
「また変装してたんですね」
「気づいてたのかよ」
「少し前からです。所々あず君にそっくりですし、同時に見た人がいませんでした」
「私も変装していることを明かされた時は驚いた。そうでもしないと本音を聞き出せない身分になったんだと思うと、私も本音で語れない仲のまま、過ごしてきたものと思った」
「皐月には弥生がいるだろ」
「昼食できてますよ。ご飯にしましょう」
唯は笑顔でキッチンに戻ると、すぐに飯の支度をしてくれた。
料理は出来上がっているようで、僕が帰ってくるのを待っていてくれたようだ。伊織にはとっくにバレてしまっていた。皐月には僕の口から伝えたが、伊織は自力で当ててしまったところが実に彼女らしい。食後に槍崎さんの件を伏せ、バリスタランドで大まかに起こったことを話した。食事中は仕事の話をしないルールは伊織が作った。楽しい時を過ごしてほしい僕への配慮であった。
良心的な彼女たちに恵まれた。あともう1人、ここに居座るべき存在がいれば……。
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槍崎悟志(CV:香川照之)




