452杯目「見えざる敵意」
1月下旬、珍しいことに、ラストオーダーの時間を迎えると、璃子がうちにやってくる。
「お兄ちゃん、今年の大会だけど――」
「言っとくけど、もう大会には出ないぞ。今は大会に出てる場合じゃない」
またしても璃子は僕を大会に誘う。だが璃子は引き下がる気配はない。
2人きりの時はやけに強気だ。他の人がいない分気を使わずに済むのは分かるが、それだけではないことが見て取れる。璃子からは絶対に僕を参加させたいという執念のオーラさえ感じた。
「杉山グループに勝ちたくないの?」
「それとこれとは別だろ」
「別じゃないよ。今回のバリスタ競技会は今までと全然違うの。国内予選はなしで、いきなり本戦から始まるチーム戦。しかもあのバリスタオリンピックと双璧を成すと言われているほど、バリスタとしての総合力を競う世界大会って言われてるの。お兄ちゃんも多分知ってると思うけど」
「バールスターズのことか?」
「ご名答」
片目を閉じながら璃子が言った。
大会の正式名称はワールドバールスターズチームチャンピオンシップ、略称はWBSである。通称バールスターズと呼ばれており、オールスターズにかかっている。2021年から4年に一度、12月に行われているチーム戦の大会である。バリスタ競技会チーム戦の中でも、世界最高峰と謳われ、早くもバリスタオリンピックと双璧を成す大会と認識されている。
ワールドコーヒーイベント主催でもなければ個人戦でもないため、メジャー競技会ではないが、第1回大会がシアトルで開催され、好評を博すと、第2回大会が東京で行われることとなった。僕も以前から知っていた。第1回は僕にも参加の打診があったものの、伊織と千尋の3人で他のチーム戦に参加していたために見送った。後悔はしていないが、璃子に打診されるとは思わなかった。
「バールスターズに出たところで、何が変わるってんだ?」
「この大会は裏の祭典とも呼ばれていて、世界中のコーヒー会社に影響力を及ぼしてるの。この大会はどこのチームが優勝するかどうかで公式に金銭の賭けも行われていて、運営側の人以外は誰でも賭けに参加していいことになってるの。参加するバリスタ自身が自分のチームに賭けてもいいし、八百長を防ぐために全部最新鋭のAIが判定することになっていて、人間のジャッジが存在しない大会なの」
「以前参加したWBTCと一緒か。確かに全部AIが決めるなら公平だな」
「どのチームに賭けるかは大会が開催される1日前までに決められるから、そこに私たちが今までに得た財産を注ぎ込むの。もう分かったでしょ。この大会に出る意味が」
にっこりと小悪魔の笑みを浮かべながら璃子が言った。
僕らが今までに稼いだ膨大な財産を一部残して全賭けし、優勝を決めて莫大な利益を得る。
これならたとえ優勝回数勝負で杉山グループに負けたとしても、得た利益で敵の本部株を買い、杉山グループを買収することができる。優勝すればレートに応じた金額が増加する。優勝候補チームとして賭けられた額が集中するほど倍率が下がるものの、最低でも賭けた金額の20%増しになるのが、この大会の良いところだ。最大で100%増しになるが、チーム葉月珈琲はチーム戦でも負け知らずだし、レートはかなり下がるだろう。前回大会で優勝したチームシアトルにマイケルが復帰する形で参加し、今回も連覇を懸けて参加するというのだから驚きだ。
一度は引退を決めたが、バリスタ競技会への闘争心を捨てきれず、自ら全世界へと勢力を広げつつあるバリスタ教室チェーンを後押しするため、バリスタ競技者として戻ってきたのだ。国籍も人種も問わずチームを組める上に国内予選がないため、バリスタオリンピックより敷居が低く、全世界から1000チーム3000人が参加するとのこと。前回大会の反響からか、あまりにも多い応募数であったためか、実績を重視した書類選考を通過する必要があり、チームメンバー全員が相応の実績でなければ通過できないことが暗黙の了解となっている。
第2回大会の舞台が東京であることに国内がざわついた。だが無理もない話だ。アメリカで開催された後はヨーロッパで開催されるのが通例だが、コーヒー業界はアジアを中心にインフレを起こし、アジアでの開催も不思議ではなくなった。インフレが起こっている場所で開催した方が各国のコーヒー会社も儲かるというもの。12月開催なのは、6月周辺だとメジャー競技会と開催時期が被ってしまうためであり、他のマイナー競技会の多くが他の月に開催時期を変更した事情も重なった。
世界では調理関係の競技をクッキングスポーツ、すなわち『Cスポーツ』と呼んでいる。
開催時期の関係上、冬のバリスタオリンピックとも呼ばれている。多くの大手コーヒー会社や大物投資家がスポンサーであることもあり、上位入賞を果たせば賞金も出る。優勝賞金は1億円。自分のチームに賭けていれば更に利益が出るし、多くの人々がトップバリスタを志す根拠を更に強めた。正真正銘のプロスポーツだ。チーム戦の世界大会にはもう慣れた。
年が明けてから書類選考の応募が始まり、既に参加予定チーム数を超えている。参加者の多くはプロバリスタだ。チーム葉月珈琲も既に璃子が応募を済ませている。
杉山社長もジャパンスペシャルティコーヒー協会の会長として、東京の会場にバールスターズの観戦に訪れる予定であるとのこと。つまり杉山グループもこの大会に注目しているのだ。アマチュアチームの連中は参加しないが、きっとどこかで中継を見ているだろう。過去の僕の競技を参考にしていたが、ほぼコピーと言っていい。問題は以前の僕の競技に近い完成度であることだ。うちのバリスタたちは過去の僕の幻影を相手にしていると言っても過言ではない。
「チーム葉月珈琲として最後の戦いだな。ところで誰と一緒に参加するわけ?」
「皐月ちゃんと弥生ちゃん。実力はお兄ちゃんも知っての通りだし、問題ないでしょ」
「また3人で大会か……璃子、1つ言っておきたいことがある」
「どうかしたの?」
「僕はこの大会が終わったら引退する」
「「「「「ええっ!?」」」」」
周囲が同時に度肝を抜かれ、桃花は脊髄反射の如く、手で口を覆っている。
「別にバリスタの仕事自体を引退するわけじゃねえぞ。バリスタ競技者を引退する」
「もう二度と……大会には出ないのか?」
「ずっと考えてた。僕が何故……バリスタ競技会に、毎年参加してきたのかをな。最初は店を宣伝するためだったけど、いつの間にか、コーヒー業界の地位を上げるために戦っていた。でも今は僕が何もしなくても、世界中からプロバリスタが輩出されて、みんなして大会に参加するようになったし、数多くのバリスタ競技会が世界中で開催されてる。昔は強豪がいる国なんて限られていたけど、今はどこの国にも凄腕のバリスタがいるからな」
皐月は一瞬目を逸らすと、すぐにまた可愛らしいつり目を見せてくれた。
弥生は異変を感じるように目をパチパチと瞬き、皐月を凝視する。
やっとの思いで目標に到達しつつある。大会に対する興味は昔ほどなくなってきている。いや、興味がなくなりつつあるのだ。飽きたわけではないし、体力が衰えたわけでもない。もう十分と言えるくらいに全力を出し尽くしている。そろそろ卒業すべきなのかもしれん。本来大会とは、意欲も才能もある人が参加するべき舞台なのだ。誰もが何故大会に出なくなるのかがよく分かった気がする。
「分かった。そういうことなら私もあず君につき合うぞ。弥生もチーム葉月珈琲に選ばれたんだ。2人で有終の美を飾らせてやろう」
「私は辞退します」
「なっ、何を言ってるんだ!」
「だって2人の足を引っ張ったら悪いもん。私より優秀なバリスタなんていくらでもいるじゃん」
「本気で言ってんの?」
「はい、そうですけど」
「もし本気で言ってるなら、それは過小評価以外の何ものでもないぞ」
弥生の目の色が変わった。目の奥に大きなフラストレーションが見える。
「私はどっちでも構いませんけど、辞退するならお兄ちゃんの承諾を得てからにしてください……」
璃子が納得のいかない顔で最後通告を済ませると、用は済んだと言わんばかりに帰ってしまった。
カランコロンと聞き慣れた音を立てるドアベルを毎日聞くこともなくなるんだろうと、引っ越してからの生活を何となく想像した。のんびりしていて平和ではあるのかもしれない。だがそれでは物足りないと思う自分がいる。この胸から煙が出るようなもやもやは一体何だ?
のんびり暮らすのにも、向き不向きがあるんだろうか。
バールスターズのルールは至ってシンプルだ。
3人1組で戦うチーム戦であり、『スリーアウトルール』が適用される。基本ルールはチームの3人が様々な対戦形式で戦い、対戦毎のスコアを競うこと。スコアが表示されて決着がつく度に中断され、一定の休憩時間が設けられる。勝った場合、勝者が引き続き勝負するか味方に交代するかを選ぶことになる。負けた場合、チームは敗北したバリスタにアウトが記録され、試合に参加できなくなる場合もある。対戦形式によって細かいルールの違いこそあるが、先に相手チームからスリーアウトを取ったチームの勝利となる。大会の考案者は野球好きのアメリカ人であり、大会運営委員長でもある。
相手チーム全員をアウトにする方法もあれば、戦力で劣る誰かを集中的に狙い、1人からスリーアウトを取る方法もあるため、チームメイト全員が強くなければ『アキレス腱』としてマークされるのだ。弥生は戦う前からアキレス腱になることを恐れているが、最も恐れているのは皐月に戦力で負けていることを大勢の人の前で証明されてしまうことだ。僕の連勝記録も懸かっている。国内予選を含めれば30連勝、世界大会本戦のみならば20連勝が懸かっていることにも気づいた上で皐月は協力してくれている。弥生は負けが許されない壮絶な重圧に押し潰されている。この戦いは実力以上に強心臓であることが求められている。僕は連勝記録なんて気にしちゃいないが、皐月と弥生は記録を守ることに恐れさえ抱いている。器の違いを思い知らされた弥生はバックヤードで着替え、葉月珈琲を後にする。
弥生の後を追った。駆け足で地面を踏み鳴らし、信号機の前で追いついた。
水色を基調としたフリルのスカートが目に焼きつくほど可愛らしい。
「あず君……どうしたんですかぁ~?」
「話がある。君の家まで一緒に帰ってもいいかな?」
「構いませんけど、家まで来てどうするつもりなんですぅ~?」
わざとらしい笑みを浮かべる弥生。ここまで生き残ってきた実力者なだけあり、さっきまでのことは気にしていない様子。不自然なくらいに陽気な態度を貫き、からかうように唇を閉じている。
「何もしないって。もっと弥生のことを知りたい」
「えぇ~、ナンパですかぁ~?」
「この程度でナンパになるんだったら、人類の大半はナンパ経験があることになる……君の心境を何も知らないのに、いきなり重要な仕事を押しつけるようなマネをして済まなかった」
「いえ、気にしないでください。他に相応しい人がいるはずですから」
「僕は皐月以外なら弥生しかいないと思ってる。伊織は出産と育児があるし、千尋はうちを裏切っていなくなっちまった。現時点で弥生以外に主力はいないと思ってる。千載一遇のチャンスだ。君が皐月を上回れるチャンスがあるとしたら、この大会を除けば、もうないかもよ。君は成功したくないのか?」
「したいですよ。家族を養うためにプロバリスタになりましたから」
「だったら何で断る?」
「大勢の前で辱めを受けるのは真っ平御免です。ましてや皐月ちゃんの前でだなんて。それに負けてしまったら社内貢献度が下がるじゃないですか」
「別に下がったっていいじゃん。落ちぶれたって、また這い上がればいい」
僕が言うと、今度は押し黙ってしまった。社内貢献度を気にするほど成績が悪いわけじゃない。
コーヒーイベントでファイナリストになるだけでも十分すぎる貢献だ。
それでも足りないと思えるだけで、十分なプロ意識を持っている。
妥協を許さない姿勢、ライバルへの敬意、徹底した自己管理、彼女の生き方はプロそのものだ。結果が伴っていないだけで、原石のでかさだけで言えば、皐月に匹敵する逸材と言える。過去のバリスタ甲子園でも皐月が出てくる前まではいくつかの学生大会で優勝を果たしていた。
しかし、突如現れた新生、皐月に敗北を喫してからは鳴りを潜めている。
コーヒーイベントに出場するようになってからは試行錯誤の日々だが、まだ皐月には及ばなかった。
しばらく歩くと、弥生の家に到着する。収入と反比例するかのように1人で2階のアパート暮らしだ。鉄を打つような音を立てながら階段を上がり、弥生の家に上がらせてもらった。扉のすぐそばには小さなキッチンがあり、畳の中央には丸い木製の茶色いテーブルがポツンと立っている。
「何でこんな家に住んでるのって聞かないんですね」
「思うことはあっても、聞く必要ねえだろ」
「私がこういう家に住んでいるのは、貧困に苦しんでいた頃の屈辱を忘れないようにするためです」
「……弥生、無理にとは言わないけど、君のことを聞かせてくれ」
「――私は愛知県岡崎市の家庭に生まれました。2人の弟と1人の妹がいる6人家族です。でも……そんな幸せな生活も……長くは続きませんでした」
弥生は自らの過去を赤裸々に語り始めた。話を聞いた限り、両親は共働きで、早い内から下の兄弟の面倒を見ていたためか、人を引っ張る性格になった。いや、リーダーシップを執らざるを得なかったのだ。本当の弥生は引っ張られたい小心者。今プロとして活躍しているのは生活のためだけではない。弥生は兄弟たちの憧れであろうとしている。兄弟たちに見放されたくない。故に意地を張っているのだ。
仕事はできるが、必要以上に無理をしているのはそのためか。伊織がスランプに陥っていた時、弥生は演技を装いながらも本気でライバルがいなくなったことを喜んでいるかのような逃げ腰に見えた。年を取るにつれて、本音と建前の違いが徐々に分かるようになった。環境に適応するための種内変異だろうか。故に弥生の仕草が演技ではないことに気づいてしまった。
知らない方が幸せだったことなんてたくさんある。だから無理に勉強しろとは言わない。無理に働けなんて言わない。能力主義の社会なんてうんざりだ。能力がなくても生きていける共生社会の方がずっと暮らしやすい。好き勝手に生きて、悔いなく死ぬのが1番だ。我慢しながら演じてきた。本来の弥生としての姿ではなく、プロバリスタという虚構で塗り固められた自分を。
察する能力のせいで、僕は弥生の闇に感づいてしまったのだ。
「今から10年前のことです。虎沢グループが一家の不祥事で倒産して、重要な取引先を失った企業も連鎖的に倒産したんです。虎沢グループ傘下の企業に就職していた両親も……」
「――その後どうなったの?」
「亡くなりました。失業した後、子供全員を残して」
三角座りをしながら、寂しげに気の抜けた声を発した。
「お父さんは失意からお酒に溺れて、ある日道端で、冷たい体のまま発見されました。お母さんは病気に罹って、手術が必要になりました。でも失業したばかりの私たちに、手術費用なんて、とても払えませんでした。大量失業の影響で生活保護も断られて、結局、手術を受けられないまま、息を引き取りました。私たちは静岡にある親戚の家に引き取られました。でも親戚もすぐ病気で亡くなって、当時中学生だった私に残されたのは、弟と妹、今も家族が住んでいる浜松のアパート、そして――」
「バリスタの才能だろ?」
「……あず君は何でもお見通しですね……正直嫌いです」
弥生が体ごと頭を後ろに背けた。分かってしまった。弥生が言いたいのはこうだ。
僕が虎沢グループに復讐したせいで自分の人生は滅茶苦茶になったと。地元警察が虎沢を無罪放免にし続けていたのは秩序と平和を保つためだった。少数派の人生と引き換えに、形だけの平和が続いていた。誰かの犠牲の上に成り立つ平和なんてあほらしいと考えた僕はパンドラの箱を勢い良く開けてしまった。自分の運命ばかりか、多くの人の人生を変えてしまった。犠牲なくして勝利なし。勝者が責任を背負うべき立場であるならば、僕にも責任の一端はある。なのに僕は……人生を滅茶苦茶にした相手本人に協力を要請しているのだ。弥生の目には、きっと僕の姿は仇のように映っていることだろう。
成功する人間はチャンスを決して逃さない。たとえコラテラルダメージがあろうとも。
弥生には成功者としての資質が備わっている。コーヒーにだって他が見えないくらいに没頭しているほど好きであるにも関わらず、打診を拒否したのだ。実力に引け目を感じるだけでは、世界が注目する新しい大会を拒否する理由としては弱い。もしそんな理由があるとすれば、私怨くらいしかない。
僕と目が合った時、弥生は一瞬だけ目つきが鋭くなる。
かつて僕がいじめっ子に対して向けていた目だ。
「弥生は何で葉月グループに入ったの?」
「……家族がみんなあず君に夢中だからです。葉月グループが発足する前、あず君が葉月珈琲の総力を結集して不祥事の証拠を集めて、虎沢グループを破滅へと追いやった張本人とも知らずに。私は可能な限り家族の期待に応えたかったんです。昔お父さんから聞いた話ですけど、業績が悪化していた虎沢グループは杉山グループに吸収合併されかけましたけど、外国人観光客の増加によるインバウンド効果で、ホテル事業は盛り返しつつありました……御曹司の不祥事さえバレなければ、全てがうまくいっていたんです。なのにあなたは……」
「……」
掠れた声を吐き出すように弥生が言った。違う。実際に復讐を成し遂げたのは他でもない璃子だ。
虎沢グループの不祥事によって、心に深い傷を負った者たちにシンパシーを感じた璃子は虎沢グループを破滅させる具体案を計画し、未来を案じながらも実行に移した。恐らく虎沢グループも取引先も、杉山グループに吸収合併されれば大量リストラが行われ、事業が蹂躙されることが目に見えていたのだろう。僕が背中を押す格好となった。杉山グループが全国区で台頭するようになったのは僕の責任だ。これがきっかけで杉山グループはインバウンド効果も相まって莫大な利益を得たのだ。多くの企業が吸収合併されていき、コーヒー事業にも侵食の手が伸びている。
これが、コーヒーが僕に与えた最後の試練か……。
大いなる力には大いなる責任が伴う。力を得た僕にコーヒーは責任を取れと迫っている。
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