443杯目「自暴自棄」
――コーヒーイベント3日目――
JBrCは桃花、美咲、鷹見が参加した。
桃花は最終6位、美咲は最終18位で準決勝敗退となり、鷹見が決勝進出を果たした。この時点で葉月グループの生き残りはいないため、黒星確定となった。
JCIGSCは千尋、莉奈、ダニエルが参加した。
3人共決勝進出を果たし、決着は明日へと持ち越しとなったが、他にも杉山珈琲のバリスタが決勝進出を果たしていた。優勝回数勝負の規定では何人参加しても構わない。いくつかの競技会は葉月グループと杉山グループのバリスタだけで決勝を戦う熾烈な争いだった。
葉月グループからは14人、杉山グループからは26人も参加している。金に物を言わせるように全国中から有望なバリスタを雇い、アマチュアチームの一員として引き入れていた。8人だけかと思ったが、あくまでも戦力の一部でしかなかった。勝負が終われば捨てられるとも知らずに、健気にも参加している連中が不憫でならない。バリスタオリンピック経験者もいた。驚くべきことに、南東エリアや他のエリアに所属するバリスタまでもが、経費を負担する代わりに、コーヒーイベントの間は杉山珈琲所属という条件で参加していた。参加登録時点で葉月グループか杉山グループのどちらかに所属していれば、ルール上は問題ないが、勝つためにここまでやるとは執念深い。
勝てる戦いしかしない杉山社長の秘策は一時的な戦力補強だ。人数が多ければ多いほど勝率は上がる。誰か1人でも勝ち残れさえすればそれでいい。そんな抜け道を使ってくるとは思わなかった。
――コーヒーイベント4日目――
JBrCは鷹見が気の抜けた競技で最終5位となった。しかも決勝は全員が杉山グループのバリスタである。優勝候補とされていた桃花を警戒したのか、参加した人数が多かった。JCIGSCはダニエルが優勝を果たし、千尋は3位、莉奈は5位に終わった。
ダニエルはニュージーランド国籍、当然だが日本代表としての出場資格はなく、世界大会には出場できないが、メジャー競技会の国内予選であれば、バリスタオリンピック出場の際の査定に入るため、無駄にはならない。ただ、本戦出場が目的なら素直にニュージーランドの国内予選に出ろよと言いたくもなる。準優勝したバリスタが代わりに世界大会に出場することとなるが、流石にファイナリスト全員が出場辞退をするのは状況的にまずい。準優勝者した杉山珈琲のバリスタは、大会が終われば他のコーヒー会社所属に戻るし、辞退する心配はない。ちなみにファイナリスト全員が辞退した場合、国家及び地域代表という枠組み自体が消滅する規定だ。下手をすれば日本代表が来年の世界大会のみ消滅する。
これで1勝3敗。ここまできて押されてるじゃねえか……。
内に秘めていた危機感を隠せなくなったのか、パソコンから目が離せない。
画面越しに応援することしかできないなんて、本当に不憫だ。
――コーヒーイベント5日目――
JCTCは皐月、弥生、陽向、カートが参加する。
準決勝から始まり、20人の参加者が4人1組となって戦い、スコア上位5人が決勝進出となる。皐月は全問正解し、決勝に名を連ねた。弥生と陽向も決勝進出を果たすがカートは準決勝敗退となった。勝負はついておらず、前回大会ファイナリストが杉山珈琲の一員として決勝に残った。
決勝では皐月が全問正解を果たすも、杉山珈琲のバリスタに敗れてしまい、準優勝に終わる。弥生は最終3位、陽向は最終4位に終わった。金銭と引き換えに、一時的な杉山珈琲所属となることで、シード権を獲得している前回大会ファイナリストたちを味方につけていた。一部のバリスタには断られたみたいだが、それでも過半数が靡いているということは、経費負担が要因として大きいと考えて間違いない。わざわざ会社を辞めずとも、幽霊社員として参加登録する時だけ所属するだけで、杉山グループ側で参加する扱いだ。アルバイトなら手続きも楽だし、ここまでの細工自体は難しくない。
民意がプロ契約制度反対に傾いている状況だからこそできた。
一時的な所属の関係上、プロ契約制度を結んでいないバリスタのみの採用となる。プロ契約制度を利用しているバリスタは、プロ契約制度禁止条例が徐々に広まりつつある影響により、参加者の半数程度となっていた。条例はバリスタの経費削減だけでなく、うちを不利にするためだ。
コーヒーイベントは有望株のバリスタを取り合う陣取りゲームと化していた。杉山社長はこの状況を成立させるため、協会の会長に就任したことがよく分かった。会長就任のためには大手コーヒー会社をグループ傘下に置く必要があるわけだが、穂岐山珈琲が乗っ取りのターゲットとして選ばれた。当時社長だった鍛冶議員に資金援助をしながら乗っ取らせ、経営が立ち行かないふりをして、杉山グループに引き渡す形を取った。1年目だけは正々堂々と勝負して、2年目に畳み掛けるか。
――クソッ! やられた! 相手の方が何枚も上手じゃねえかっ!
JCCは千尋、弥生、エヴァが参加する。
エスプレッソ部門、ラテアート部門、カッピング部門、ブリュワーズ部門、ロースター部門を脱落形式で順番にこなしながら人数を絞っていく。僕が参加した頃とはルールが変わっている。参加のハードルが低いことや、脱落のスピードが速いためか、予選参加人数は毎年1000人に上り、キャンセル待ちの人がズラリと並ぶ有様だ。ここにいる20人はシード権保持者と予選を勝ち抜いてきた猛者。JCCは2021年からはコーヒーイベントに参加する人数が20人まで削減されているため、20人から16人、16人から12人、12人から8人、8人から4人に絞り、脱落した4人でルーレット形式のくじ引きを行い、当たった者がワイルドカードで5人目のファイナリストとなる。
決勝進出がワイルドカードで決まる形式は、バリスタ競技会史上初である。
結局、千尋は5位、弥生は準優勝、エヴァが優勝という形で幕を閉じた。日本代表の有資格者でトップになった弥生は世界大会を辞退し、3位となった杉山珈琲所属のバリスタが日本代表代行となった。
最後にJCRCの結果発表が行われた。
吉樹は最終4位、香織は最終5位となり、有田は準優勝となったため、これも敗北した。
終わってみれば1勝6敗、JBC以外は全てストレート負け。
通算優勝回数は4勝10敗となり、葉月グループ敗北に早くもリーチが掛かってしまった。
パソコンの前で肩を落とし、跪きながら頭を床に向ける。しばらくは無言で何も言えなかった。葉月グループと杉山グループの差を思い知らされる格好となった。日本有数のグループ企業の本気を見た。怖気が走り、その場に蹲ったまま動けない。脱力感に苛まれながらもどうにかベッドに移動し、気が抜けたように横たわり、口を閉じながら天井を見上げた。全身が立ち上がることを拒否している。ここまで屈辱的な敗北を味わったのは生まれて初めてだ。来年は1敗でもすれば即敗北だ。
最悪なことに、璃子が懸念していた懸念は見事なまでに的中していた。
恐る恐る扉を開ける音が聞こえる。唯と伊織が足音もなく入ってくる。
「あず君……」
「……落ち込んでも仕方ないですよ。まだ来年のコーヒーイベントがあるじゃないですか」
「そうですよ。まだ勝負は分かりません――」
「無理だ。唯、伊織、僕は来年ハワイに行く」
「えっ、どうしてハワイなんですか?」
「オアフ島に僕の別荘がある話をしただろ。来年別荘を改築して、葉月珈琲ホノルル本店としてオープンする予定だ。敗色濃厚の場合は葉月グループから独立した店舗として今後の活動拠点にする。新しいグループ企業の始まりだ」
僕は予てから『オーガストグループ』創設を計画していた。
言うなれば葉月グループの亡命政権である。
このことは葉月グループの役員たちとも既に話し合っている。オアフ島ホノルルを拠点とし、太平洋を中心に事業拡大を図り、今ある全てのコーヒー農園を管轄している『株式会社葉月珈琲農園』の所有権をオーガストグループに移す。日本には大都市にのみ出店するが、某世界的インターネット小売業と同様、各国に一切の税金が流れないよう細工を施す。できればこんな決断はしたくなかった。
最終手段としての『オーガスト計画』実行まで、一刻の猶予もなかった。
唯と伊織にオーガスト計画の全貌を説明する。
「まあそういうことだ。今の内に考えておけ」
「あの、何を言ってるのか全然分かりません。唯さん、あず君は何が言いたいんですか?」
「平たく言えば、日本も葉月グループも見限るというです」
「そんな……ここに残ってる人たちはどうなるんですか?」
「杉山グループの傘下に置かれる。大勢の人間がリストラされるだろうな。世界に通用するトップバリスタ育成のプロ契約制度も、飯を食える大人を育てる再教育システムも全部パーだ。でもコーヒー農園だけは何が何でも守り抜くつもりだ。分社化しておけば、吸収合併されたところで、何の問題もない」
吸収合併されるのは、葉月グループ本社と傘下企業のみ。
契約の関係上、分社化も傘下離脱も認められていないが、コーヒー農園は例外である。
コーヒー農園を所有している葉月珈琲農園は優勝回数勝負以前から葉月グループ傘下の企業ではなく、あくまでも僕が形だけの社長を務めている独立した企業である。璃子の提案により、吸収合併対策としてロイヤリティを納めるためだけの業務提携を結ぶ形で独立していたが、皮肉にもこの対策がなければ全てが終わっていたのだ。念には念を入れるところが璃子らしい。いざとなれば葉月珈琲農園を軸にグループを再建すればいいのだ。何度だってやり直せる。
来年にはこの国とおさらばすると思うと、途轍もないくらいの虚しさが胸に突き刺さる。
「つまりコーヒー農園は無事で済むんですね」
「最初はやばいって思ってたけど、ずっと前に璃子が吸収合併対策の話をしていたことを思い出してな、調べてみたら、葉月グループがやばくなった時の備えとして、世界中のコーヒー農園を葉月グループ傘下から一度外して、コーヒー農園を所有するための企業をハワイに設立した。何かあった時、いつでもこの国から脱出できるようにな」
「……どうして逃げるんですか?」
やや怒り気味の口調で冷めきった声を発する伊織。いつもと変わらない唯とは対照的だ。
「この国は保守派と心中する選択をした。僕まで巻き込まれたくはないし、伊織も知ってると思うけど、杉山グループに吸収合併されたら、今まで築き上げてきた事業が台無しになる。杉山グループは今の教育システムの影響を強く受けてるし、多くの学校と癒着してるからな。葉月グループを支えてきた革新的なアイデアも、再教育プランも、全部解体されるのは目に見えてる。コーヒーイベントはどっちが相手を乗っ取るかを、今の若者たちが決める代理戦争だ。でも結果は惨敗の逆リーチ。こっから逆転するなんて、奇跡でも起きない限り無理だ」
「だったらまた奇跡を起こせばいいじゃないですか! あず君らしくないですよ! 私が知っているあず君は、一度始めた勝負を途中で投げ出すようなことはしません! 頑なにコーヒーを信じ続けて、何度も奇跡を起こしてきたじゃないですか! なのにどうして諦めるんですか!?」
いつにない剣幕で可愛らしい顔を近づけてくる伊織。
「しょうがねえだろ。この国の総意が選んだ道だ。恨むなら杉山グループが栄えるような社会を事実上黙認してきた日本国民を恨むんだな。僕は来年ハワイに行くけど、2人はどうする?」
「私はあず君にお供します。できればここにいたいですけど……」
「私は残ります」
「「!」」
意外にも伊織は反発した。今はとても抱かせてくれそうにないことが見て取れる。
「どうしても逃げたいのでしたら、ハワイでもどこへでも勝手に行ってください。たとえ日本にいる葉月グループの人間が……私だけになったとしても……最後まで戦い続けます」
「……そうか、好きにしろ」
「何でそんな無責任な言い方しかできないんですか?」
「この状況から勝つには、来年の7種類のメジャー競技会を全勝する必要があるんだぞ。勝てるだけの根拠もなしに戦い続ける方がずっと無責任だ」
「あず君は個人で一度も負けたことないじゃないですか。必勝法を見つけることができれば勝てます」
「そんな方法があるんだったら、こっちが教えてほしいくらいだ」
「見損ないました。あず君がここまで意気地なしだったなんて……」
涙声を滲ませ、乱暴に扉を開けた。1階に下りていった伊織が心配になるが、今のマスターは伊織だ。
マスターは自律ができなければならない。カフェのマスターとして働くこと自体がある種の修業だ。
だが今回ばかりは伊織も無念のようで、内心では自分でも無謀なことを言っている自覚はあるように思える。じゃなきゃもっと向かってきてもいいはずだ。気持ちは分からんでもないがな。
「本当にいいんですか?」
「仕方ねえだろ。ここまで大掛かりな総力戦なんて初めてだし、僕が挑発に乗ったばっかりに……こんなことになったんだ。伊織が怒るのも無理ねえよ」
「このままだと、出ていってしまいそうで心配です」
「伊織に限ってそれはない。ここに残るって言ってただろ」
伊織は勝負以前に、葉月珈琲に愛着を持っている。
愛着とは離れたくない気持ちだ。伊織にとって葉月珈琲は故郷も同じ。
簡単に見捨てられるようなものじゃない。住めば都とは言うが、それはただの慣れでしかなく、馴染めるかどうかはまた別の話だ。僕だってここにいたい。なのに何であんなこと言ったんだろ。自分でも不思議だ。紛れもなく僕の責任なのに……逃げようとしているなんて言われたら……自分が無責任な奴に思えてくるじゃねえか。今の僕は……総帥の器とは言えない。
一度璃子の所に行ってみるか。何か秘策があるかもしれない。
家を出て葉月ショコラまで赴くと、すぐに板チョコを模した扉が見えた。
扉を開けようとした時、扉の方が先に開いた。
「あっ、お兄ちゃん」
カバンを持った璃子が目の前に現れた。
「よっ、遊びに来たぞ」
「てっきり落ち込んでいるものだと思ったけど、案外ケロッとしてるね」
「そんなタフなもんじゃねえよ。来年のことだけどさ、家族でハワイに移り住むことにした」
「――それ本気で言ってる?」
「嘘を言うために来る意味ねえだろ」
「せっかく相手が油断しきってくれてるのに、何でお兄ちゃんだけ逃げるかなー。確かにうちは乗っ取られた時のために、最重要拠点である葉月珈琲農園だけはあえてうちの傘下から外してるけど、それはあくまでも本当に駄目だった時の最終手段。グループが乗っ取られても、また仲間を集めて立て直せばいいじゃん。お兄ちゃん言ってたでしょ、死ぬ以外は掠り傷だって」
余裕のウインクをしてみせる璃子。
怒っているものだと思っていたけど、むしろ心配ないって顔だ。璃子は先の先まで見据えている。
いつしか僕は自信を失いつつあった。ここまで人の悪意に触れ続けたのは学生の時以来だ。
しかし、比べ物にならない。同調圧力に反発する僕を普通の人にしようとしていた無自覚な悪意とは違うのだ。本気で僕を陥れようとしている……本物の悪意である。
「私が知ってるお兄ちゃんは、こんなところで跪くようなタマじゃないよ。ハワイでのんびり暮らしたいなら、決着がついてから考えてもいいんじゃない。それに、まだこの国の未来を諦めてない若い子たちだってたくさんいるんだから、今ここで諦めたら、日本の将来のために真剣に戦ってる人たちに失礼だよ。じゃっ、私買い物あるから」
「……」
黙りながら立ち尽くす僕を尻目に、璃子が葉月商店街の方向へと去っていく。
――若い子たちって……そうか、もう僕らは若手じゃないのか。
今にして思えば、これからのし上がっていく若者たちのサポートが充実していないことが、葉月グループを発足させた理由の1つだったな。なのに僕は……自分で作り続けてきた道を自分で途切れさせようとしていた。僕が諦めたら、この国に生まれてきた子供たちは、一生にわたって保守派の老人たちに苦しめられ、日本に生まれたことを悔いるだろう。優秀な人材は海外に流出し、国際社会からも取り残されちまう。諦めちゃ駄目だ。駄目なら優秀な若者たちを日本から引っこ抜いて、自分たちがしてきたことの報いを受けてもらうだけだ。強盗が徘徊する国になったところで、あいつらが選んだ道だ。
堂々と胸を張って国を出ていくには、まだ決断が早すぎる。
帰宅すると、真っ先に伊織と目が合った。
「……」
「伊織、さっきはごめん」
「いえ、私も言い過ぎました。すみませんでした」
「どうしたんだ?」
「ちょっとした言い争いだ。旅行についてこないって言うからさ、また僕の不在が原因でココアばっかり作られたら、たまったもんじゃねえからな」
「あず君だって私がいない時、カプチーノばっかり作っていたと聞きましたけど」
「唯の奴、あれほど黙っとけって言ったのに」
「――ふふっ、やっぱりあず君は……しょうがない人です」
手を口に当てながら笑う伊織。やっぱ可愛い。
この日の夜、僕は伊織と深く繋がった。内心では伊織もハワイに行こうかで迷っていたとのこと。
やきもきとした気持ちを振り回され続けた伊織はより一層激しく僕を求め、全身に汗をかきながら息切れしても気にならないほど夢中だ。ここまで妖艶な姿の伊織を僕は知らなかった。
――それにしても、璃子のあの余裕、まるでこうなることが分かっていたかのようだ。
逆リーチでプロ契約制度の危機でもあるというのに、何故あんなにも冷静でいられるんだ?
杉山社長も土門社長もいい気になっているが、すっかり油断しきっている。これ以上何もしてこないと言わんばかりだ。まだ何か策があるようにも思えるし、伊織のようにただ強がっているわけではないことが窺える。勝てるかどうかは今後の方針を聞いてみれば分かるだろう。強化合宿は続けるようで、小夜子たちも流石に危機感が生じたようだ。今後は更にバリスタを増やし、強化合宿の内容も見直す。負けられない戦いは既に始まっている。いずれにしてもこの勝負……来年のコーヒーイベントで決着がつく。僕が負けを恐れたのは、失うものがたくさんあるからと気づいた。無敵の人とは対極に位置する存在も実はかなり辛かったりする。力を持つ者は力を失うことを何より恐れるのだと知った。
総帥になって初めて分かった。リーダーなんて二度とやりたくない。
決着がついたら降板させてもらいたい。
これが、コーヒーが僕に与えた試練なら、きっと僕は問われている。
本気でこの国を変えたいかどうかを。
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