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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第18章 包囲網編
435/500

435杯目「当事者意識」

 僕の目の前にいる赤いハイヒールが特徴の女性は杉山景子だった。


 髪は短いショートボブ、丸い眼鏡をかけ、レースのスカートを履いている。


 相も変わらず自己顕示欲の強い服装と思いながら足を止めると、杉山が僕に歩み寄ってくる。警戒心を露わにすることはなく、むしろ同情的な目が段々と大きくなる。左手の薬指に指輪がはめられていない。それに彼女は杉山珈琲の社長を任されているはずだ。もしかして出張か?


「久しぶりですね」

「そうだな。ここにいるってことは、杉山社長に用でもあんのか?」

「まあそんなところです。少しだけあそこのカフェで話しませんか?」


 少しばかり気が沈んだ声が目立つ。杉山が指差した先には1軒のカフェがある。


 黄色いサインポールがクルクルと逆巻くカフェは風情があり、昔からここにあることが窺えた。


「別にいいけど。君の方から誘うなんて珍しいな」

「貴方が私たちの敵であることは変わりません。ですが、確認しておきたいことがあります」

「確認したいことねぇ~。いいぞ、聞いてやるよ」


 一緒にカフェに入ると、スタッフに奥の角にある席まで案内され、対面するように腰かけた。


 コーヒーを2杯注文すると、僕らはようやく気まずい空気に晒されていることに気がついた。


 杉山は手の力が抜けていて、太ももに両手を乗せながら背筋を伸ばしている。躾の厳しい家であることが分かってしまったが、今ここにいる理由だけでも知りたい。


 スタッフがコーヒーをテーブルに置き、少しばかりの量を口に含み、一息吐いた。


「指輪がないみたいだけど」

「……元夫とは離婚しました。父にはまだ内緒にしてますけど」

「杉山社長が後継者候補に選んだ人なんだろ。何か問題でもあったか?」

「元夫は学歴も高くて仕事もできる人ですが、人を見下すところがあって、社員を機械のように扱うんです。いつも無表情で考えが読めないというか、心の繋がりを全く感じられないんです」

「心の繋がりか。杉山社長の娘とは思えない言葉だな」

「お父さんと一緒にしないでください!」


 やや強い口調で言葉を放ちながら威嚇する杉山。


 何かあったのは間違いないが、機械的で人間味のない輩は経営者や政治家に多くいる。


 後継者候補ではあるが、心の繋がりを感じられないほど冷たく、それはもはやクールを通り越してドライな感覚だろうか。大人の世界はドライな関係が好まれる。学生のようにドロドロな関係では仕事が進まないことが多いため、仕事を円滑化させるための合理的な進化を遂げると、結果的に機械のような人格が形成されてしまう場合がある。杉山社長にとっては、娘婿として相応しいと感じているみたいだが、杉山本人はどちらかと言えば、共感性の高い人間を求める傾向があるようだ。仕事上のパートナーであれば、それなりに意気投合ができただろうが、夫婦なら気が合うかどうかが重要で、そこには論理的思考などないし、合理的な考え方も通用しない領域だ。


 間違いない。結婚理由は税制優遇のためだ。杉山社長の後継者候補たちは感情を持った人間としては既に死んでいる。だから仕事はできるけど人望を得られないでいる。グループ企業の後を継ぐなら人望のある人であることは必須事項だ。千尋はノリが軽くて口が悪いところはあるが、何だかんだで良い奴だし、ユーモアがあって、社内でも人望がある。


 伊織に慕われているくらいだし、うちの後継者にしてもいいくらいだ。


 そういえば、杉山社長は千尋に交渉を持ちかけていたな。


 後継者にならないかと尋ねられた千尋は揺れていた。


 何事もないといいが、一瞬でも気の緩みが見えたのが気になる。


「……ごめん、言い過ぎた」

「いえ、こちらこそ、申し訳ありません。父は後継者を探そうと必死なんです」

「それで結婚に応じたのか?」

「逆らう余地なんてありませんでした。父に逆らう人はみんな左遷されましたから」

「絵に描いたような恐怖政治だな」

「それよりも私が心配なのは貴方です。寄りによって父に優勝回数勝負を挑むなんて」

「やっぱり知ってたか」

「一応関係者ですから。私はずっと貴方にずっと忠告しようと思ってました。今日貴方がここに来ることを()()()()の方に教えて頂きました。杉山グループがここまで大きくなったのは、父が他のグループ企業に勝負を持ちかけて、全て勝利してきたからです。身内のことを悪く言いたくはありませんけど、父はあの手この手を使って、勝っている時に戦いを挑むんです。競合してきたグループ企業はみんな淘汰されていきました。吸収合併されたグループ企業は多くが解体されて、社員も半数以上が解雇されています。残った社員も過重労働の末に退職しています。メディアは杉山グループから投資を受けているので、事実を報道すらしません。そんな相手と何故勝負するんですか?」

「――強いて言うなら、近代を終わらせるため……かな」

「は?」


 ジト目を向けながら開いた口が塞がらない杉山。


 真剣に言ってるんだが……本気にはしていないらしい。杉山は血で血を洗う資本主義競争を目の当たりにしてきた。戦いに敗れた経営者の中には、自ら命を絶つ者もいたようで、僕にもそうなってほしくはないと言いたいのが手に取るように分かる。親子ではあるが、全く同じではない。


「君の夫が冷たいのは近代教育の成果だ。飯を食える大人ってのは、周りの人を幸せにできる人だ。でも君のそばにいる人たちはどうだ? 周りの人を幸せにするどころか不幸にしてるよな。今の君だって幸せそうな顔してないし、勉強や運動はできても、人間的な魅力はまるでないんだろ? 杉山社長の下で働いているのが証拠だ。飯を食えない奴ほど、ああいう汚い経営者に従って生きることになる。杉山グループがこれだけでかくなっているのは、ある意味ではこの国の状態を反映しているのかもな。不摂生を働くと癌になる確率が上がるように、今のような肌に合わない不摂生な近代教育を放置していると、そう遠くない将来、内側から滅ぼされるかもな」

「……負けたらどうするつもりなんですか?」

「負けた時に考える。今できることも考えられない奴が、先のことを心配する資格があると思うか?」


 何か大きな確信を持ったように杉山の目の色が変わる。


「君にとっては耳の痛い話かもしれねえけどさ、このまま杉山グループの危険思想に基づいた事業拡大を放置すれば、また悲しむ人が出てくるんだ。君が千尋に対して傲慢な態度だったのは、結婚を破談にしたかったから……だろ?」

「はい……千尋君には悪いことをしました。私、優勝回数勝負を世間に明かします」

「やめとけ。白を切らせたら、あの男の右に出る奴はいない。身内にばらされた時の対策も考えてるだろうし、君にバラしたのも、対策ができているからと考えれば説明がつく。分かってるとは思うけど、葉月グループと杉山グループの戦いは、あくまでも水面下の戦争だ。世間に知られないようにしながら決着をつける必要がある」

「どうして隠そうとするんですか?」

「もし決着をつける前に優勝回数勝負が世間にバレたら、ジャパンスペシャルティコーヒー協会はどっちのバリスタを勝たせても、勝った方を贔屓したって言われるんだぞ。そうなったらコーヒー業界の信用問題にも繋がりかねないし、どっちのグループが勝ったとしても、大きな爪痕を残すことになる。どうしても関係者以外の人が知らない状況下で戦う必要がある。この部分は利害が一致してるからさ、こっちとしても、断る理由がないってことだ」

「――父が貴方を警戒する理由が少し分かりました」

「誉め言葉と受け取っておく。分かったら下手に動くな。いつも通りの立ち振る舞いをしておけ」

「……」


 杉山は唇が強張ったまま、僕から目を離そうとしない。


「悪いことは言いません。今すぐ父に頭を下げて、勝負を中止してください。たったそれだけで、最悪の事態を避けられるんです。もし葉月グループが吸収合併されたら、貴方1人のせいで、皆さんの生活が脅かされることになるんですよ」

「嫌だ。僕が生まれてきたのは、あんな奴に頭を下げるためじゃない。コーヒー業界を救うためだ。杉山グループはコーヒー業界を貯金箱としか思っていない。コーヒーブームが過ぎたら、間違いなくコーヒー事業を捨てて、バリスタランドをショッピングモールに改造するのが目に見えてる。コーヒー業界の発展はプロバリスタの活躍によるところが大きい。なのにバリスタの経費削減のためだけに、プロ契約制度を廃止しようとしてるんだぞ。僕があいつと戦う破目になっているのは、誰1人として暴政を止められなかった杉山グループのせいじゃねえのか? 君にも責任の一端はある。僕は君らに代わって尻拭いをしているだけだ。社長1人制御できねえくせに、よくそんな口が叩けるよな。自分の不手際を誰かのせいにするようじゃ、あんたも……父親と変わりねえよ」


 社会が腐敗したのは、社会の構成員全員の責任だ。


 なのにこの国の連中ときたら、当事者意識がまるでない。


 自分を大人だと思うか? 将来の夢を持っているか? 自分は社会を変えられると思うか?


 経済的先進国数ヵ国の高校生に対して行われたこれらの意識調査アンケートで、最もイエスが少なかったのは日本人だった。自分は社会の一員であるという当事者意識が欠如している証拠と言える。手をかければかけるほど自律を失っていき、自分がうまくいかないことを誰かのせいにするようになる。自分のことさえ他人事と思っている人も少なくない。杉山社長は経営こそ得意だが育成は大の苦手のようだ。6人も娘がいながら、たった1人の後継者も育てられない結果が全てを物語っている。


 人生経験が圧倒的に足りないのだ。これじゃ後継者なんて育たない。ひたすらに経験して自分の感覚を掴んでいく。地道に伸びることでしか人は育たない。自分1人でワンマン経営をして、他の人には経営者として、一切の経験をさせてこなかった。だから杉山グループの役員は、人の動かし方を知らないのだ。性格の不一致ならうちの本部にもあるが、最後は必ず合意して経営を成り立たせている。


「誰かのせいになんて――」

「じゃあ何で、僕に不当な我慢をさせようとする?」

「それは……葉月グループのためを思って」

「1つ良いことを教えてやる。自分のことしか考えてない奴ほど、誰かのためとか、もっともらしい理由をつけて誤魔化そうとする。でも結局は自分のためだ。心配するふりをして相手をコントロールしようとする卑怯者の手口だ。いい加減目を覚ませ。あのクソッタレの言いなりになった結果、君は相性最悪の娘婿を押しつけられ、杉山珈琲社長という慣れない業務まで押しつけられた。業績は乗っ取る前より下がってるみたいだし、アマチュアチームがプロを超える活躍をしなければ、潰れていてもおかしくない。君らが潰そうとしているプロ契約制度は、紛れもなくコーヒー業界を支えている制度だ」

「だったらどうしろと言うんですか?」

「本当にうちのことを思っているなら何もしないでくれ。僕が言いたいのはそれだけだ」

「……」


 杉山は黙ったまま座り尽くすが、僕はそんな彼女を無視して会計を済ませた。


 ただ、さっきの杉山の言葉が引っ掛かる。


 今日僕がここに来ることを知っていた人物は限られている。


 一緒にいた家族と1階で仕事をしていたスタッフ一同を除けば、知っているのは杉山社長と石原のみ。杉山が石原と連絡を取る関係とは思えないし、杉山社長には内緒で来ていることからも、やはり別の人物から情報を得ているものと思われる。知り合いという言葉で特定を避けているくらいだ。誰に教えてもらったかまでは答えてくれそうにないが、こっちの情報が筒抜けなのは頂けない。


 敵ではあるが、警告してくれるのは情けだろうか。


 立場上、あからさまに味方をしてくれることはない。


 杉山グループは恐らく一代限りで終わる。だとすれば尚更葉月グループを吸収合併しようとする理由に説明がつかないが、ある可能性を考慮するならば、急いでいるのも分かる気がする。


 ヴィランの本拠地から撤退すると、タクシーを呼び、岐阜へと帰宅するのであった――。


 8月中旬、那月がパリから戻ってくる。


 ワールドパティスリーカップで見事決勝進出を果たし、最終3位という結果に終わった。


 願わくば優勝を勝ち取りたいと願っていた那月であったが、テキパキと動きながら笑顔で配膳をしていることからも、悔いは全くないことが見て取れる。


 千尋が那月に歩み寄りながら口を開いた。


「ねえねえ、決勝って何作ったの?」

「何も作ってないよ。予選で大きなケーキを作ったでしょ。予選は見た目の審査で、決勝は予選で作ったケーキの味を審査するんだけど、決勝に進んだケーキだけが審査員に食べてもらえるの。パティシエ一本に絞っていれば優勝できたって言われちゃったけど、いくら考えても、あれが当時のあたしの限界だったと思うし、二刀流は正解だったって確信が持てた。次はバリスタとパティシエ、両方の世界大会で優勝を掴んで、夢は1つじゃなくてもいいことを次世代に伝えていく。それがあたしの夢だから」

「――応援しています。那月さんならできますよ」

「もう、伊織ちゃんったら、口がうまくなったね」

「子供扱いしないでください」


 両頬を膨らませながら那月を睨みつける伊織。可愛い。


 那月は堂々と二刀流を継続するようだ。かつてはどちらかに絞るべきと、耳に胼胝ができるほど言われてきた彼女だが、諦めようと思ったことは一度もないし、できることを証明しようと躍起になることしか頭にない。夢の実現を可能にしたのは、当事者意識に基づいた人間力以外の何ものでもなかった。


 ――もう僕がいなくても大丈夫そうだな。


「那月」

「何?」

「よくやった」

「ふふっ、ありがと。あず君のお陰だよ」

「バリスタとパティシエの世界大会両方でファイナリストになったのは、恐らく那月が初めてだ。よってうちからも褒美だ。那月にFA権を与える」

「FA権?」

「フリーエージェント権、どこの店舗にも自由に移籍していい権利で、完全独立する時にも、支援する年数と金額が増える。これを与えられるということは、一人前のバリスタと認められたということだ」

「へぇ~、そうなんだー」


 葉月グループに多大な貢献をした者は手厚い支援を受けられる。


 以前から始めている『フリーエージェント制度』は好評を博し、幾多のバリスタが恩恵に与った。


 大会に出ていなくても、5年所属していれば、マイナーFA権を取得する。好きなマイナー店舗に移籍することができ、完全独立する場合、1年間で1000万円程度の支援を受けられる。10年以上所属するか、大会で結果を出せば、メジャーFA権を取得する。実績の優先度にもよるが、許可が出れば希望した店舗に移籍できる。完全独立する場合、3年間で3000万円程度の支援を受けられる。傘下独立の場合は自由が制限されているものの、設定された上限まで赤字を補填される。5年連続で補填額が上限を記録し続けた場合、分社化して独立するか、撤退するかをマスターが選択する。


 完全独立の際、メジャーFA権の場合はメジャー店舗の地位を認められ、マイナーFA権の場合は実績によってマイナー店舗2軍から5軍までの地位を認められる。半ば業務提携のような形式を取ることで、経費を圧迫することなくカフェを増やすことができ、カフェを起業したい人が集まってくる。マスターに合った形式を選べるようになったことで、世界中に葉月グループの店舗が広がっていくだろう。プロを目指すも良し、独立するも良し、選択肢の広さを意識した。


 成功するかどうかは、完全独立していった彼ら次第だが、十分な支援を受けた上で駄目なら諦めもつくだろう。才能がなかったという発見をすることもまた進歩だ。バリスタとしての実績は店を撤退し、転職してからも大いに役立つのも大きい。葉月グループに所属していたというだけで信用が高く、次の職を得やすいのも利点だ。僕の知っている限りの話ではあるが、うちを独立していった者たちが、その後の人生で飯を食えなかったという話は聞いたことがない。


 やはり生きる力を育てることにフォーカスした再教育システムが活きているのだ。


 FA権の詳細を知ると、那月は手柄を立てたように、両腕の拳を強く握りしめた。


「じゃああたし、珈琲菓子葉月に戻れるんだ」

「言っとくけど、戻るにはマスターの許可が必要だからな」

「えー、優子さん、戻らせてくれるかなー」

「そんなに戻りたいのか?」

「地元から近い場所だし、バリスタランドにも遊びに行きやすいじゃん」

「バリスタとパティシエの二刀流継続のためとは言っても、あそこはパティシエ寄りの店だぞ。バリスタだって修業のためにいるような状況だし、那月がパティシエ寄りのバリスタだったのは珈琲菓子葉月にいたからだぞ。うちに来て丁度良くなったけど、このままここにいたらパティシエの大会の順位が下がる。両方共究めたいってんなら、そろそろ覚悟を決めろ」

「ちょっと、どういうこと!?」


 やや強い口調で那月が言った。僕が那月から離れると、入れ替わるように皐月が近づいた。


「ねえ、あず君は何が言いたいの?」

「分からないのか? どこの店にいても、那月はバリスタかパティシエのどちらかにしかなれない。那月はバリスタとして立派になったけど、ここは一流のバリスタになるための場所ではあっても、一流のパティシエになるための場所ではない。その証拠に那月は何度も店を休んで優子さんの店に行っていただろ。那月があず君のために生きる必要はなくなったんだ」

「……」


 やれやれ、何のために経営学まで教えたと思ってんだか。


 それだけ那月がここに馴染みすぎたってことか。


 2階まで上り、自室に入ると、すぐ後ろから唯が入ってくる。上の子は家のすぐ近くで水着を着用し、燥ぎながら水浴びをして遊んでいる。リビングからは碧の小さな泣き声が聞こえる。1人で遊ぶのが好きらしく、誰かがそばにいなくても寂しがることがない。子供ながらに自立しているようで、将来が楽しみである。子供たちの将来のためにも、優勝回数勝負には絶対勝たなければ。


 プライドなんてどうでもいい。勝つしかないんだ。


「あず君は優しいですね」

「皮肉で言ってんのか?」

「そんなわけないじゃないですかー。相手の言葉を真に受けさせたら右に出る人はいないはずです。それにしても、葉月珈琲は随分と入れ替わりの激しい場所になりましたね」

「一流を究めたバリスタが集まる場所になったからな」

「私には仲間を増やしたいようにも見えますけど」


 唯には全てを見透かされていた。昔できなかったことを今やろうとしている。


 僕は普通の人間になれなかった連中の居場所を増やしたいのだ。

読んでいただきありがとうございます。

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