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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第2章 自営業編
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41杯目「雨の日の虚勢」

 春休みに来店した小夜子たちと話している時だった。


 美羽からは親父と穂岐山社長のことを聞いた。


 驚くべきことに、親父は同窓会で僕の就職先を探しており、藁にも縋る思いで同級生に就職の枠が余っていないかどうかを聞いて回っていた。何という恥知らずと思ったが、再就職できなかった親父と僕を重ねていたのは確かだ。就職の道を閉ざされるのは、親父にとっては恐ろしいことらしい。


「もはや宗教だな。労働教ってとこか」

「でも同窓会でそんなことが聞けるって、物凄い勇気あると思うよ」

「親父は行動力はあるけど、とんでもない方向に行ってしまうことがあるんだよなー」

「それ、あず君が言えたことかな?」

「……」


 掴んだブーメランを投げ返すように美咲が言った。


 言われてみれば、僕も行動力ばっかの人間で、計画性なんてどこにもなかった。後から無理矢理辻褄を合わせているだけで、気がつけば店ができていた。


「確かにそうかも。あず君も15歳で自分の店持ってるし、とんでもない方向に努力してるかもね」

「えっ!? あず君って15歳で起業したの?」

「あっ! これ言ってよかったのかな?」


 小夜子が冷や汗をかきながら手遅れの確認をする。


「美羽は事情知ってるし、別に構わない」


 キッチンにいる僕はペーパードリップでコーヒーを淹れながらあしらうように返した。


 頼むから集中させてほしいなー。


「あず君、カプチーノお願いしまーす」


 いつものように唯が入ってくる。


 美羽にとっては初対面。唯はまだ小学生ということもあり、美羽は唯の入店に違和感を持っていた。


「あの……今学校だよね?」

「私、今不登校なんです」

「あっ、そうなの。もしかして常連?」

「はい。阿栗唯といいます。唯って呼んでください」

「あたしは穂岐山美羽。美羽でいいよ」


 うちの店にはコーヒーを通して店に来た客同士を引きつけ合う力があるようだ。


 他のカフェでも客同士の交流はよくあるのだろうか。


 ヴェネツィアにいた時も、色んなカフェを回った結果、常連同士が仲良く話している光景がそこにはあった。僕が目指していたのは、こういうのんびりとした会話の空間なのかもしれない。


「美羽さんもここの常連なんですか?」

「そう名乗りたいけど、あたしは普段東京に住んでるの。だからたまーにしか来れないんだよねー」

「そうなんですね。私だったら近くに引っ越しますけど」

「そんなに好きなんだ」

「はい。私はこのお店も……あず君の動画も好きなんです」


 唯は自分の境遇や、僕の動画を見たことで勇気づけられたことを美羽に話す。


 うちの店って外国人観光客限定のはずなのに、日本人率高すぎじゃねえか?


 これは看板に偽りありかもなー。もしこのことを指摘されたら、身内だから問題ないと言い訳するしかないかー。美羽には少し慣れたけどあんまり関わりたくはない。東京住まいなのが幸いだ。こういうサバサバしてる女って、昔から苦手なんだよなー。


「確かにそんなことも書かれてたねー」

「はい。あず君のピアノ動画で特に気に入っているのがケセラセラという曲で、学校や会社に居場所がなくても、人生きっと何とかなるから、もっと気楽に生きろって、あず君が主コメに英語で書いていたんです。私はその言葉に心を打たれて、外に出ようと思ったんです」

「!」


 ――えっ、僕の1番好きな曲を……ピンポイントで当ててきたっていうのか?


 この時点で100曲以上も投稿していたが、最初に投稿したピアノ動画を気に入ってもらえるとは。


「唯ちゃんが好きなのって、動画じゃなくて――」

「はい、カプチーノできたぞ。熱い内に飲んでくれ」

「うわー、凄いです。完璧なハートのチューリップですねー」

「ふーん、うまいじゃない」


 今度は紗綾と香織が入ってくる。小夜子は美咲と同じ高校であり、紗綾は香織と同じ高校だ。うちに来る時はいつもこれらのコンビがセットでやってくる。1人での入店には抵抗があるらしい。


 店ぐらい1人で入れるだろ。僕はむしろ1人の方が入りやすいのだが。


「あっ、小夜子に美咲に唯ちゃんまでいるじゃーん! ひっさしぶりだねー!」


 香織が意気揚々と挨拶をする。葉月珈琲は挨拶禁止なのだが、このメンツの中では唯と美羽以外は英語が読めない。うちの店日本にありながら日本人が来ることを想定していない。


 メニューは全部英語だが、英語の読み書きはできるようだ。


「あたしたちは春休みだけど、あず君はいつ来ても働いてるよね?」

「はい。うちの兄はいつも働きづめで、いつ倒れるか心配なんですよね」


 紗綾の疑問に璃子が淡々と答えた。働きづめではあるけど、そういう状況に追いやったのはこの競争社会だ。文句なら社会に言ってくれ。美羽は紗綾と香織とも自己紹介をし合ったかと思えば、美羽は彼女たちとあっという間に打ち解けてしまった。これがコミュ力お化けというやつか。あぁ……恐ろしい。


「ねえねえ、あず君に恋人がいるのは知ってる?」

「「「「「……えええええーーーーー!?」」」」」


 みんなが一斉に驚き、その驚嘆が店中に響き渡る。


 もはや公害だ。近くにいた璃子も美羽も両耳を両手で押さえていた。


「どっ、どうしたのっ!?」

「こ、こっ、こっ、恋人?」


 紗綾が涙目で悲しそうな表情をしながら僕の顔を見た。


 泣かすようなことは何もしてないんだが。


「あの、それ多分コーヒーのことだと思います」


 璃子が誤解を解こうと、最愛の恋人の正体を明かす。璃子は僕がどれほどのコーヒー好きであるかをよく知っている。いつもそばにいるだけあるな。


「えっ、コーヒーが恋人って、どういうこと?」

「お兄ちゃんは人に興味を持とうとしないので、少なくとも人間の恋人ではないと思いますし、下手すれば一生できないと思います」


 フォローになってねえよ。弁護しようとしてくれたのは嬉しいけど、なんかめっちゃ酷いことを言われた気がする。僕はそれでもいいが、人に言われるのは男として複雑だ。


「あー、そうだったんだー。あのポエムはコーヒーのことだったんだね」

「ポエム? えっ、あず君ってポエム書くんだー。可愛い」


 ――どうしよう。僕の趣味がどんどんばれていく。


「ねえ、ポエム見せてよ」

「駄目だ。あれは僕だけの秘密だ。あっ、そうだ。ラテアートの練習するから、淹れたカプチーノを全部飲んでくれないか?」

「あっ、誤魔化した」

「で? 飲むの? 飲まないの?」

「それって、タダってこと?」

「もちろん。インスタントコーヒーだし、売り物じゃないから全部タダ。この前も唯たちに飲んでもらったからな。廃棄するのも勿体ねえし」


 話題を逸らすために言うと、唯は青褪めたように気まずい表情になる――この前コーヒーを飲みすぎて腹がタプタプになっていたことを思い出しているに違いない。


「私は遠慮しときます……」


 唯が弱々しい声でただのコーヒーを遠慮する。余ったコーヒーは僕か璃子が飲むことになり、飲みきれない場合は廃棄処分となるが、一度でもスペシャルティコーヒーの味を知ってしまったら、とても気軽にインスタントコーヒーを飲もうとは思わなくなる。できることなら他人に飲んでほしい。


「あず君は何のためにラテアートの練習をしてるの?」


 小夜子が疑問を呈してくる。そういやみんなバリスタの大会のことを知らないんだったな。もっとバリスタ競技会の知名度が上がらないと、また聞かれることになりそうだ。


「バリスタの世界大会に出るため」

「バリスタの世界大会?」

「あれです。お兄ちゃんは去年出たバリスタの世界大会で優勝したんです」


 璃子が展示している僕の優勝トロフィーを指差して答えた。


 小夜子たちは璃子が指差した方向を一斉に見る。


「「「「えええええーーーーー!」」」」


 小夜子たちは驚嘆し、唖然とする。唯と美羽は知っていたのか驚かなかった。


「す、凄いっ! 世界チャンピオンだったんだ! あたしたち、こんなに凄い人のコーヒーをいつもがぶ飲みしてたんだ……」

「とは言ってもな、これはバリスタの世界大会の中でもマイナー競技会だからさ、まだ本当の意味での世界一じゃねえんだよ」

「じゃあ、またバリスタの世界大会に出るためにラテアートの練習をしてるってこと?」

「そゆこと」


 小夜子たちが驚いた顔のまま僕を見続ける。


「私、手伝おうかな。あず君の応援がしたいし」

「じゃあ私も」

「あたしも」

「あっ、あたしも手伝う」

「……じゃあ私もやります」

「しょうがないなー、じゃああたしも手伝うよ」


 大会のためにラテアートの練習をしていることを告げると、みんな一斉に飲み役を志願する。僕が優勝した時に、裏の立役者として自慢する魂胆だろうか。


 ていうか女子の共感力やばすぎじゃねえか?


 さっきまで遠慮がちだった唯をもやる気にさせてしまうとは恐れ入った。


 インスタントコーヒーを淹れる場合は業務用のエスプレッソマシンではなく、すぐそばに置いてある家庭用のエスプレッソマシンで淹れる。業務用はスペシャルティコーヒー専用だ。璃子にも言い聞かせてあるから間違える心配はない。普段はサイドメニュー担当であるため、エスプレッソマシンに触れることはあまりないが、璃子にもラテアートを教えても良さそうだ。


 家庭用のエスプレッソマシンを使い、エスプレッソをコーヒーカップに淹れている間、璃子はミルクピッチャーに牛乳を投入し、スチームノズルを差し込んで牛乳を温める。スチームミルクが出来上がると、ミルクピッチャーを僕に渡す。ちゃんと温まっていないと良質なラテアートはできない。璃子には徹底した指導を施している。一応エスプレッソマシンの使い方も指導しているが、まだ僕のような一貫性のある動きはできていない。まだ始めたばかりなのだ。


「あの、白鳥や白馬以外の動物ってできますか?」

「うーん……やってみる」

「じゃあ鹿とかコアラとかお願いします」

「はぁー、ちょっと待ってろ。図鑑持ってくる」


 唯の無茶振りに渋々応じ、動物図鑑を見ながら色んな動物にチャレンジした。過半数は失敗に終わったが、無事に要求通りのラテアートができると、唯たちは思わず息を飲んだ。


 次々とラテアートが描かれたカプチーノを唯たちが眺めた後に飲み干していく。それぞれ3杯くらい飲んだところで恒例のトイレラッシュが始まり、一斉に並び始める。コーヒー自体に利尿作用があり、しかも水分を摂取しているダブルパンチのせいだ。


 コーヒーを一斉に提供すると、時々こんな状態になる。


 練習は十分できたし、今日はこの辺で勘弁してやるか。


 それにしても、美羽から親父が僕の就職先を探すために、恥を忍んで同窓会に参加したことを美羽から聞いた時はゾッとした。これも悪魔の洗脳の弊害と言えよう。一度こうなってしまうと、就職以外の生き方が頭の中からなくなってしまう。必然的に就職が全てになる。親父はバイトが休みの時は、正規雇用の広告と睨めっこをしている。これはもはや就職レール以外の生き方を全く教えてこなかった社会側の責任ではなかろうか。多分、親父以外にもこういう人は山のようにいるはずだ。


 美羽はこの話を聞いて、自分の家が恵まれていることに気づいたらしい。実に皮肉な話だ。


 唯たちが帰ると、僕と美羽の2人きりになる。


「あのさ、もうラストオーダーの時間なんだけど、帰ってくんない?」

「うん。でも今度いつ会えるか分からないから、少しだけ話そうよ」

「これから動画制作しないといけないんだけど」

「すぐに終わるから。ねっ」


 美羽が言うと、僕にウインクをしてくる。やっぱこいつ苦手だ。僕は璃子と一緒に店仕舞いをしながら美羽の話を黙認する罰ゲームを受けることに。


「あず君ってお店にいる時は凄く楽しそうだけど、実家にいる時は空気と一体化してたよね?」

「そうでもしないと、日本人の奴らに話しかけられるだろ」

「で? あの中の誰が好きなの?」


 美羽が興味津々な顔で、僕を見つめながら聞いてくる。


「誰が好きとかはねえよ。可もなく不可もなく、全員平均くらいの好感度だな。仮に好きな人がいたとしても、僕には店以外でつき合ってる時間はない」

「じゃあさ、あたしとつき合ってみない?」


 ――は? 何言ってるんだ? 僕の話を聞いてなかったのか? 


「……仮交際ってこと?」

「うん、それでいいよ」

「分かった。たまにしか時間取れねえけどな」

「えっ? いいの? やったー」


 美羽は何故か大喜びする。一体どうしたんだ?


「そんなに喜ぶことか?」

「そりゃそうだよ。あず君の将来の夢って何?」


 美羽は僕が何をしたいかを詮索してきた。


「世界一のバリスタ……かな」

「それは何のため?」

「店を宣伝して、親から完全に独立するためだ。就職なんて死んでも嫌だからな」

「……今度良いものを見せるから、一度東京においで」

「えぇ~、東京? 僕、ああいう人が多いとこは好きじゃないんだけど」

「絶対納得するから。今度の7月末の3日前から予定空けといてね」


 美羽が言うと、葉月珈琲を後にする。うちの店は先払いであり、美羽はお代を払っていた。


 この時の美羽の会計は平均的な金額を超えていた。うちで長く居座って昼食まで食べれば当然そこまではいく。うちの高級豆が高いというのもあるが……。


 あいつの家って、ホントに金持ちなんだな。人との接し方に余裕さえ感じる。美羽は僕にお礼のメールを残すと、タクシーで東京へと帰宅する。


 僕は身内に加え、よく会う人とはメアドの交換をしている。要求はいつも相手からだ。


 月日は流れ、4月がやってくる――。


 日曜日になると、無事に商品の仕入れを済ませた。外は雨がザーザーと降っている。こんな日は金華珈琲にでも行こうかと思ってしまう。飲食店共通の悩みとして、雨の日は客が減少する。店によっては1日に1人も来ない店もある。飲食店の人たちにとって、雨は(わざわい)でしかないのだ。


 しかし、僕にとっては恵みの雨だ。客が来ないということは、店内で動画を作り放題だし、休業日である日曜日も、他のカフェに人がいない分行きやすい。僕の1番好きな天気だ。


「璃子、留守番頼む」

「うん、分かった。行ってらっしゃい」


 僕は傘を差しながら道を歩く。商店街の中に入ると傘を閉じた。テントのような天井があるお陰で傘を差さなくて済む。商店街にはほとんど人が歩いていなかった。昔は雨の日でも関係なく人通りがあったのだが、こうもあからさまに少ないと、岐阜市の衰退を認めざるを得なくなる。すぐ目の前に金華珈琲がある。ガラス越しに中を覗くと、中には客が誰もいなかった。


 いるのはマスターと親父の2人だけだ。


 事情を知っている人だけの時は近況報告ができる。


「いらっしゃい。あず君久しぶりだねー」

「おっ、あず君か。そういや今日は雨の日曜か」

「えっ? 和人さん、来るの分かってたの?」

「ああ、あず君がここに来るのは、いつも雨の日曜だ。去年からずっとそうだった」

「行動パターン読んでるねー。流石は親子だ」

「こいつは人混みが嫌いだからな。雨の日に来た理由はそのためだろ?」

「そうだけど……悪いか?」

「悪いなんて言ってねえだろ」

「せっかく近況報告しに来たってのに、あったまくんなー」

「へぇ~、それは是非聞いてみたいねー」


 マスターが興味津々に僕の話を聞く姿勢になる。親父も少しはこの姿勢を見習ってほしいものだ。


 気を取り直して、席に腰かけてからエスプレッソを注文する。


 去年の6月、WDC(ダブリューディーシー)のためにヴェネツィアへと赴いていたこと、()()()()()()に目をつけられたことを報告した。


「そうだったんだねー。優勝おめでとう。あず君だったら、いつか必ずやらかしてくれるとは思っていたけど、ついにやっちゃったねー」

「まるで犯罪者に対する言い草だな」

「ハハッ、そんなことないよ。褒めてるんだよ」

「こいつには冗談が通じないからな。俺はもう知ってたけど、他にも客がいたから全然言えなかった」

「あー、なるほどねー。そういえば、何でみんなには言わないの?」

「んー、そうだなー。マスターになら話してもいいかな」


 自分の店を持つまでの事情をマスターに話す。


 案外あっさり納得してくれたが、同時に驚いた様子も見せていた。


「まさか親戚に黙って店を営んでいたとは驚いた。でもあず君なら全く違和感ないね。じゃあ親戚たちはみんなあず君が高校に行ってると思ってるんだ」

「そゆこと。だから親戚の集会のたんびに話題を合わせるのが大変だ。最近は学生だった時の感覚を忘れつつあるし、どうしようかと思ったな」

「親戚の集会を欠席するわけにはいかないの?」

「うちの親戚はかなり親密だし、下手に欠席すると怪しまれる」


 うちの親戚は噂が大好きだ。その場にいない人の話題とか平気で出すし、迂闊な欠席はばれる確率を上げてしまう。この場合は戦略的居座りが正解だろう。


「親戚とのつき合いも大変なんだねー」

「結婚なんかしたら、親戚とのつき合いも倍に増える。なのにみんな家のことばっかり考えてる」

「まあ昔の世代はそんなもんだよ。終身雇用が崩壊する前は、特に女性たちにとって、結婚=安定みたいなところがあったからねー」

「ところで、店の方はどうなんだ?」

「順調だ。大会で優勝してからは、イタリア人客が来るようになった」


 とは言っても、来るようになったのは一時的で、今は1日あたり数人程度だ。


 客が途切れないのは幸いだが、このままでは倒産確実だ。うちの親がそんな甘えを許すはずもなく、もし正直な報告をすれば、間違いなく就職を勧めてくるだろう。


「事情はよく分かったよ。どうりで和人さんがあず君の就職先をみんなに聞いていたわけだ。あんまり人のこと言えないけど、自営業はいつ潰れても何ら不思議じゃないからねー。でもあず君の店は順調そうだからさ、当分は心配しなくてもいいんじゃないかな?」


 マスターが親父を説得する。現時点で肝心なことは何1つ言っていないのだが、嘘を吐くよりも罪深いのは、僕が就職してしまうことである。


「……しょうがねえな。マスターがそう言うなら、当分は様子を見ることにする。でもな、もし倒産なんてしたら、お前には穂岐山珈琲に就職してもらうからな」

「分かってる。でもその日が来ることは永久にない」

「そんなに就職が嫌なのか?」

「会社なんて懲役刑みたいなもんだろ。穂岐山社長の会社に入ったら、恐らくやりたいこともできないだろうし、趣味の合わない連中とつき合うことになるだろうし、だっさいスーツを着せられて、岐阜市には支店がないから、東京に移住させられるだろうよ」


 僕が会社に就職するデメリットを挙げていくが、親父は怯まなかった。


「穂岐山はあず君に十分な給料を出すって言ってたぞ。年収500万円は下らないって言ってた。お前は年収500万もいってるのか?」

「そこまではいってないけど、親父よりは稼いでる」


 親父の弱点を突くようにちょっと意地悪な返しをしてやった。


 まるでナイフで刺されたかのような表情に変わる。


「お前なー。はあ~、やれやれ、何でそこまで起業に拘るんだか」


 親父が後ろを向いて席を立つ。


「親父が就職で失敗したからだな」

「お前、そんな言い方ねえだろ」

「まあまあ、2人共落ち着いて」

「僕はいつも落ち着いてるぞ」


 マスターがキッチンの奥の方へ逃げた親父を追いかける。


 ちょっと言い過ぎたかな。だがここだけは絶対に譲っちゃ駄目だ。就職は断固拒否する。僕を一生つまらない人生に引き摺り込もうとする就職レールとの戦いを制するためにも、店を成功させないと。


「あず君は僕や和人さんよりもずっとうまいし、多分、ああいうところは周吾さんに似たんだよ」

「かもな。先代もかなり頑固だった。一度大手チェーンのカフェに誘われた時も、赤字なのに吸収合併を断固拒否したくらいだからな」

「でもそのお陰で、今の金華珈琲があるんだよ。もっとあず君を信用してあげたら?」

「へいへい。黙って見届けろ……か」


 しばらくマスターと親父と話すと、金華珈琲を後にする。まさかおじいちゃんの店が一度吸収合併されかけていたなんて知らなかった。しかもそれから数十年後、その大手チェーンのカフェはバブル崩壊と共に倒産し、吸収されたカフェの多くが共倒れになった……おじいちゃんは本当に悪運が強い。


 まるで打ち歩詰めを見切っての角不成(かくならず)だ。


 流石にそこまでの見通しはできなかっただろうが、結果的には名采配だった。


 常連以外に人が来ない葉月珈琲で粘り続け、どうにか4月を乗り切るのだった。

気づけばもう12月を回ってました。

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