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社会不適合者が凄腕のバリスタになっていた件  作者: エスティ
第17章 死闘編
401/500

401杯目「正月サプライズ」

今回から死闘編スタートとなります。

葉月グループの存亡をかけた戦いが今ここに開幕します。

果たしてあず君たちの運命はどうなってしまうのか。

 心なしか、例年よりも静けさが増している年末を過ぎ、2024年が幕を開けた。


 優勝回数勝負を知る者にとって、これから波乱となることは明白であった。


 この勝負はただの競い合いではない。水面下での読み合いを制した方が勝つ。こういった駆け引きは僕よりも璃子の方が得意だ。決戦にまつわる計画は璃子に任せ、僕は僕にしかできないことをやる。人の得手不得手が全く違うのは、異なる役割を持つことで差別化を図るためだ。


 正月を迎えると、親戚の集会が行われた。


 半数は初詣に出かけ、半数は家で料理を作る。うちはくじ引きなどせずとも、初詣班と料理班がいつも半々に別れる。例年通りであれば料理班に回るところだが、今年は猫の手も借りたい。いや、神の手も借りたくて神社を訪れた。毛皮のついた可愛らしい着物を僕らは違和感なく受け入れ、周囲には初詣に訪れた人たちが大勢いるが、傍から見ると実に不思議だ。


 クリスマスの後で神社を訪れるような連中から、僕はずっと変だと言われ続けていたのだ。


「今年から伊織ちゃんのマスターデビューだね」

「はい。美羽さんもたまにはうちに来てほしいです。親戚の集会とか関係なく」

「もちろんたまには行くけど、璃子ちゃんから逸材を掘り起こすように言われてるんだよねー。なんか凄く急いでるような感じがしたけど、そんなに人材不足なのかなー。あんなに焦らなくても、あと10年も経てば、葉月グループは人材の宝庫になってるはずだよ。葉月珈琲塾の生徒って、みんなあず君や伊織ちゃんに憧れて、バリスタを目指すと言って、不登校になってまで来てくれてるし、あの中から何人がバリスタになるのかは分からないけど、昔だったらコーヒーオタクと呼ばれて、ひもじい思いをしていたような子供たちが、うちの戦力として活躍できる土壌ができたのは進歩だと思うよ。他のコーヒー会社と取り合いにならないように、予め囲っておくための塾でもあるんだし、焦る必要はないと思うんだけどなー。璃子ちゃんだってさー、即戦力なんていません、だから育てるんですって言ってたくらいなのに、あの時の璃子ちゃんは璃子ちゃんらしくなかったなー」


 美羽の言うことはもっともだ。顔には出さないけど、璃子もかなり焦ってたんだな。


 トップバリスタを時間をかけてじっくりと熟成させていくことがモットーなうちにとって、即戦力を育てるのはかなりの苦手分野だ。杉山社長は葉月グループが抱える弱点に気づいていた。才能があったとはいえ、伊織が初めてうちに来てからバリスタオリンピック優勝を決めるのに10年もかかっている。


 育てば確実に活躍できるが、一方で成長が遅いうちにとって、短期決戦は不利でしかない。


 璃子が人事部に発破をかけるのも無理はない。僕の失態の尻拭いを人事部が行っている。うちが集めている即戦力はバリスタではない。腕に覚えのあるバリスタトレーナーだ。杉山グループは金を積んで実績あるバリスタを集め、1番の脅威であった伊織の優勝直後に仕掛けてきた。


 僕や璃子の指導だけでは限界がある。少数精鋭も多勢に無勢だ。アマチュアチームも勝てば老後まで暮らせるという意味では実質プロだ。アナスタシアが言うには、競技にかかる経費は全てバリスタ持ちだ。プロに勝てば全て杉山グループが負担するとのこと。そりゃそうだ。無条件でうちを吸収合併できれば、あいつらに一生分の賃金を払っても莫大なお釣りが返ってくる。全ては計算尽くか。


「――あず君どうしたの? そんな怖い顔して」

「いや、何でもない」

「まーた何かあったんだー」

「優子っ!?」


 冷や水を浴びたかの如く、不意の声がする真後ろに振り向いた。


「そーんなに驚くことないじゃーん」


 牡丹が描かれている真っ赤な着物姿の優子が僕の肩に腕を置いた。


 若い頃と全く同じ口調だ。きっとこれが若さなんだろう。


「いたのかよ」

「あたしの故郷だもん。昨日から愛梨ちゃんの家に泊まらせてもらってたの」

「愛梨は元気か?」

「うん。1つ嬉しい知らせがあるんだけど、愛梨ちゃんが今年から自分のお店を持つことになったの」

「――マジで? 良かったじゃん!」

「……なんか嫉妬しちゃう」

「喜んでほしくねえのかよ」

「そうじゃないけど、なんかあたしがヤナセスイーツやってた時よりずっとワクワクしてるー」

「あの時はずっと続くものだと思ってたからな。でも優子が店を閉めるって言った時は悲しかったなー」

「厳密には『アイリショコラ』っていう、葉月グループ傘下のお店として生まれ変わるんだけどね」


 優子は最初から愛梨に店を譲るつもりだったようで、ヤナセスイーツの生まれ変わりとのこと。


 アイリショコラは優子が完全監修を手掛けた店で、所々にヤナセスイーツの名残が漂っている。


 葉月ショコラとはライバルの関係だ。未来を意識した革新的なチョコレートを作り続けている葉月ショコラに対し、アイリショコラは過去を意識した伝統的なチョコレート作りを目的としている。進歩主義の葉月グループに対するアンチテーゼのようにも思えて実に面白い。


 しかも愛梨がその気になれば、すぐにでも完全独立を果たせるという条件付きだ。


 愛梨が自分で経営ができるようになれば、たとえうちがなくなっても生き延びることができる。


「お父さん、僕もいつか立派にコーヒーを淹れたい。会社経営もしたい」


 うちの長男、雅が手を繋いでいる僕に微笑みながら言った。


 7歳を迎えた雅は、早くも自らの興味を掴んでいる。


「へぇ~、もう後継ぎができたんだー」

「あのなー、たとえ息子であっても、簡単には後継ぎにしない。雅、うちの仕事は難しいぞ」

「簡単な仕事ってあるの?」

「あるよ。何ならその場に居座るだけの仕事もある。なるべく楽な方がいいぞ」

「うわ……」


 美羽が目を半開きにさせながら寒気のある声を発した。


「何、どうかしたの?」

「あたしがどれだけ死ぬような思いで働いてきたか……」

「美羽には感謝してるぞ。子供だっているんだからさ、無理はするなよ」

「じゃあ璃子ちゃんに伝えとくね。総帥に無理をするなと言われましたって」

「なんか皮肉がこもってるな」

「ねえ、璃子ちゃんがどうかしたの?」


 優子がきょとんと顔色を変え、顎に手を当てながら美羽に尋ねた。


 璃子が誰かに無理をさせるのは余程のことであると、優子も察したらしい。


 神社の前で全員が同じポーズで祈り、初詣を済ませた。珍しく神頼みをした。人間が何故宗教にハマるのかがよく分かった気がする。目には見えない力に頼らなければならないほど人間は脆い生き物だ。生き方や価値観の基準になったり、心の拠り所になるものがあれば、何にでも縋れる。


 美羽は僕の一行から少しばかりの距離を置き、愚痴るように璃子の近況を話した。


「へぇ~、本部って結構大変なんだねー」

「もしプロがアマに負けるようなことがあれば、プロ契約制度が国内から消滅して、バリスタの世界大会決勝から日本代表がいなくなって、外国人観光客も来なくなるらしいんだけど、本当なのかなー」

「本当だと思うよ。パティシエの世界もね、独立する時に実績と知名度が物を言うの。世界大会で結果を出しているかどうかで、独立後の売り上げが決まると言っても過言ではないし、グループ単位で継続的に利益を出すんだったら、次世代トップバリスタの輩出は必須項目だと思うけど」

「それが……璃子さんが求めているのは、バリスタトレーナーなんです」

「バリスタトレーナー?」

「はい。天才の卵よりも、天才を育てる指導者が必要と言っていました。アマチュアチームなんて、今話題になってるだけで、経費も個人で受け持ちです。放っておいても自然消滅するだけだと思いますけど、璃子ちゃんはアマチュアチームとの対決に躍起になってて、まるで勝たないと次がないような口振りで」

「ふーん、それはあず君と璃子ちゃんに聞いてみれば分かるんじゃないかなー」


 背中を刺すような鋭い視線に思わず体が震えた。


 結局、優勝回数勝負の件を白状させられてしまった。


 僕、璃子、唯、優子、美羽、伊織の6人だけで、2階の僕の部屋に集合する。


「そういうことだったんだー」

「どうりでアマチュアチームばかり意識してたわけね」

「黙っていて申し訳ありません。もし関係者以外の人に知られてしまったら、無条件で葉月グループの敗北になってしまうので、なるべく内密に計画を実行したかったんです」

「とんでもない約束しちゃったねー」

「負けた方が勝った方に全財産を譲るって書いてあるけど、要するに吸収合併だよね?」

「その通り。もし要求が通らなかったとしても、強制的にグループの売却が実行されるってわけだ。今度杉山社長と会合することになった。お互いに最終的な要求を伝えるためにな」

「お分かりかと思いますが、このことは絶対誰にも知られないようにしてください」


 張り詰めた空気を前に全員が重々しく息を呑んだ。


「なんかおかしいと思ったら、そんな事情だったかー」

「「「「「!」」」」」


 誰もいないはずのクローゼットから千尋の声が聞こえ、全員の脳裏に雷が走った。


 着物姿の千尋が悪びれることもなく、のっそりと姿を現した。


「何で千尋がここに?」

「あれっ、説明してなかったっけー。実はうちの親戚がさー、みんな村瀬グループ崩壊の件でバラバラになっちゃって、親戚の集会とかやらなくなっちゃったんだよねー。そこで暇潰しに葉月家のクローゼットに忍び込んであず君を驚かせようっていう企画を伊織ちゃんと一緒に考えたんだけど、あず君がいつクローゼットを空けるのかなって思ってたら、国家機密を聞いちゃったみたいだねー」

「伊織……これはどういうことだ?」


 千尋とは対照的に、伊織の顔が真っ青に染まっていく。


「あず君がそんな約束をしていたなんて、ちょっとがっかりだなー」

「「「「「!」」」」」


 今度は閉まっていたはずの部屋の扉が開き、呆れた顔の柚子が軽く腕を組みながら姿を現した。


「柚子、何でここに?」

「ご飯ができたから呼びに行ってみれば、随分と大層な話だね。事情は全部聞かせてもらったよ」

「……終わった」


 この場に肩を落とし、契約違反が真っ先に脳裏に浮かんだ。


「まっ、私と千尋君に関しては、一応葉月グループの関係者だし、杉山グループにさえばれなければ別に問題ないと思うけど、今後こういう話をする時は、誰もいない場所で話した方がいいかもね」


 柚子が足音もなく、僕の目と鼻の先まで歩み寄る。


「あず君、自分がどれだけみんなに迷惑をかけてるか分かってる? さっきの初詣の時も、最初は美羽さんの愚痴を話半分に聞いていたけど、あんたが決戦の約束さえしなかったら、美羽さんだって過重労働をせずに済んでたんだよ。もし美羽さんが倒れたらどうするつもりだったわけ!? 少しはみんなのことも考えてよ! 葉月グループはあず君だけのグループじゃないんだよ!」


 柚子が珍しく喉の奥から声を発した。


「柚子、お兄ちゃんにも軽率なところはあるけど、美羽さんの件は私が悪いの」

「いや……柚子の言う通りだ。この件の責任は全部僕にある……すまん、僕が意地を張ったばっかりに」


 柚子だけでなく、みんなに向かって頭を下げた。


「それで? 優勝回数勝負はどうなってるの?」


 杉山社長と交わした契約書のコピーを千尋と柚子にも見せた。


「去年の分で3勝4敗。もし皐月がいなかったら、1勝6敗の大ピンチになってるところだった」

「やっぱり皐月ちゃんに助けられたかー。実は皐月ちゃんを誘ったのはあたしなの」

「美羽さんだったんですか?」

「うん。皐月ちゃん、本当は葉月グループと名門高校のどっちかで迷ってたの。あたしが説得して、やっとの思いでうちを選んでもらったんだけど、皐月ちゃんに頼りきるわけにもいかないよね」

「コーヒーイベント前に、バリスタたちの個人情報を漁ってたら、皐月には優秀なバリスタトレーナーがバックにいたことが判明した。そいつを見つけ出すことができれば、他のバリスタもかなりのレベルアップが見込めるってわけだ。誰かは知らないけど」


 うちの人事がちゃんと仕事をしてくれていたお陰だな。


 次世代を担う逸材を物の見事に探し当ててくれていた。


 柚子と伊織は1階まで下りて調理を手伝いに回った。唯が扉を閉めてくれていたことが幸いし、柚子が声を荒げても1階までは聞こえなかった。秘密がすぐにばれてしまうところはどうにかしないとな。


 自室の椅子に腰かけ、落ち着きを取り戻した。今の僕にプライベートはない。


「本人に直接聞いたらどうなの?」

「そんなことをすれば、何の目的でバリスタトレーナーを探しているのかと感づかれちまうだろ。皐月は些細な言動から、相手の狙いを見抜くだけの勘の鋭さがある。コーヒーイベントの時も、ジャッジの興味を見切った上で競技を行ってたんだ。あの時はバリスタ競技会が別の競技に見えた」

「あず君がそこまで言うなら、あたしの人を見る目は間違いなかったってことだね」

「もっとも、皐月ちゃんの実力がずば抜けていたのは、スカウトの誰もが知っていたことだけどね」

「ぐさっ!」


 弓矢が胸に刺さったかのように美羽がのけ反った。


 バリスタ甲子園の人気は高校生のみに留まらず、創成期から小学生部門と中学生部門が創設されたが、当時は甲子園と言えば高校生のイメージが強く、高校生部門のみが大々的に取り上げられ、小学生部門と中学生部門は隅に追いやられるように小さな会場で行われていたが、今では次世代を担うバリスタの卵が集結する場として、コーヒー会社スカウトが注目する一大イベントとなっている。


 皐月があの場にいた全てのスカウトの目に留まったのは確かだが、そんな激しい競争の中で唯一説得できたのが美羽であったことからも、ようやく普通の人から脱したことが見て取れる。存亡を懸けた戦いを知った璃子から、年末年始に関係なく人事の仕事を急かされ、正月だというのに酷く疲れている。


 スマホを肌身離さず持っているが、他の人とは意味が違う。常に誰かの連絡を待っているかのようで、誰かが振動したスマホに反応すると、自分もスマホの入ったポケットに手を伸ばしていた。強化合宿に参加しているバリスタ以外であっても、葉月グループ所属のバリスタであれば勝負への参加権はある。


「まあそういうことだ。美羽、今日はもう休め」

「グループの存亡が懸かってるんでしょ。事情を知ったからには、休むわけにいかないよ」

「美羽さん、今週はゆっくりしてください。あの時の私は焦っていました。どうにかして優勝回数勝負に勝たないといけないと思って、1番頼れる人だからと、ずっと負担をかけてました。申し訳ありません」

「いいのいいの。あたしは葉月グループ人事部長だし、世界中からバリスタの卵を見つけ出す義務があるんだから。グループの仕事を通してあず君に貢献すること。これがあたしの天職だし、誇りも持ってる。でも璃子ちゃんが言うなら、今日くらいはゆっくりさせてもらうね。あたしに偉業は成せないけど、自分にもできることがあるんだってことをあず君に教えてもらったから」


 美羽は僕の部屋を見渡すと、さっきまでの慌ただしかった様子とは異なり、無駄のないしなやかな動きで1階まで下りていった。穂岐山珈琲を離れてからの美羽は変わった。


 以前は普通の人だと思っていたけど、必死に普通の人を演じていたんだ。


 そのことに気づけなかった自分が情けなくなってくる。


 僕も案外、コーヒーが好きなだけの普通の人かもしれない。


「璃子ちゃんも焦る時あるんだー」

「そりゃありますよ。人間ですから」

「あたしも愛弟子の1人が酷い目に遭わされてるし、そういうことなら協力するよ。自分の手を汚さずに悪事を働いてきた人だもん。一泡吹かせてやらないとね」

「杉山社長のこと知ってるんですか?」

「一応ね。あくまでも噂だけど、与党の政治家たちとズブズブなんだって。しかも片っ端から自分の手駒を与党の議員にしてるし、鍛冶議員も杉山社長の駒だし、このまま日本を牛耳ろうとしてたりして」

「どんな政策を考えているのかが気になりますね」

「一応鍛冶議員の公約を見てみたけど、ロクな政策がないね。福井県知事になっちゃったけど、どんなことになるのやら。こればかりは僕でも読み切れないよ」


 鍛冶議員は県内の企業にプロスポーツ以外のプロ契約の締結を禁止する条例を出している。


 理由はプロ契約と称して裏金を流出させることを防止するためだ。世界各地でプロ契約制度が本格化した2021年以降、契約金と称して裏金を渡す事件が国内で摘発されたのだ。この件で民衆を味方につけたばかりか、自らタブーを持ち出すことで、クリーンなイメージを根付かせている。


 子供のゲーム時間を1日1時間に制限するような馬鹿げた条例が通ってしまうくらいだ。新しいというだけで反発するような国民を味方につけるのは、赤子の手を捻るようなもの。100年後に過去の珍法律図鑑が発売されるようなことがあれば、それに名を連ねるのは間違いないだろう。


 だがこの条例は過去の悪法図鑑に載せていいレベルだ。


 しかもそれだけではない。他の都道府県でも同じ条例を出す議員が現れたのだ。2025年までに全ての都道府県でプロ契約制度の禁止する条例を導入し、やがてプロスポーツ以外のプロ契約制度を法律で禁止にする動きが出ているとのこと。2025年は丁度葉月グループと杉山グループの決着がつく年だ。


 葉月グループが吸収合併されれば、国内のコーヒー会社はプロ契約制度を断念せざるを得なくなる。


 こんな壮大な計画が水面下で進んでいたとは……奴らは本気でプロ契約制度を潰す気だ。


 バリスタの未来は――あんな汚ねえ連中に閉ざされちまうのか?


「もしプロ契約制度を禁止する法律が成立したら、僕はこの国を捨てる」

「同感だね。でもそう簡単にはさせないよね?」

「当たり前だろ。黙って上の言うことに従う教育が、こんなところにまで悪影響を及ぼしてるんだ。絶対に阻止してやる。プロとアマの対決は絶対に負けられない」

「じゃああず君がカジモール計画に潜り込んだら、分かったことを一通り報告してもらうからよろしく」


 優子が階段を下りると、彼女の後に続くように、璃子と千尋も背中を見せて部屋を去っていく。


「あず君、私にできることがあったら、何でも言ってくださいね」


 両腕を握りながら励ますように伊織が言った。


「ああ、頼りにしてるぞ」


 不安を覆い隠すように、笑顔のまま伊織が立ち去った。


「……皐月ちゃんにはこのことを話さなくてもいいんですか?」

「言わなくていい。競技者たちに事情を説明したらプレッシャーを与えることになる。千尋はそんなタマじゃないけど、ただでさえ璃子に発破かけられてんだ。それくらいの配慮はしてもいいと思うぞ」

「それはそうですけど、皐月ちゃん、何だか不満そうな顔でしたよ」

「何かあったら僕が責任を取る。この戦い、必ず勝つぞ」

「あず君が言うと、本当に勝ってしまいそうですね」


 微笑みながら僕の着物に胸を押しつける唯。


 柔らかさが肌にビンビン伝わってくる。こんな時にそんなことされたら興奮するって。不思議と緊張が解けてくる。さっきまでずっとピリピリしすぎていたことにようやく気づいた。


 みんな頑張ってる。僕だって身を切る想いで事に臨まないと。たとえ優勝回数勝負に勝てたとしても、プロ契約制度を廃止に追い込まれる危機が迫っている。バリスタにとってはここが正念場だ。


 唯は僕の手を引くと、共にみんなが待つ1階へと向かうのであった。

読んでいただきありがとうございます。

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