4杯目「束の間の平和」
絵の具事件や集団リンチといった仕打ちを受けた。
普通の子供なら、この時点で永久不登校確定だろう。だが僕の場合は永久不登校にはならなかった。永久不登校にさえなっていれば、日本人嫌いにはならなかったかもしれないのに――。
うちの親は選択を間違えた。これだけ酷い目に遭ってるというのによく行かせようと思えるものだ。リサには絵の具事件のことも詳細に話した。
「あたしだったら、そんな学校は行きたくないなー」
「僕だってもう行きたくないよ」
「だーめ。3学期になったらちゃんと学校に行くこと!」
「みんなと仲悪いのに行き辛いよ」
「学校に行かないと、駄目人間になるよ」
「じゃあ駄目人間でいい。殺されるよりマシだ」
「ふふっ、あず君らしいね」
リサと話していると、お袋に咎められた。勉強するだけなら家でもできるだろうに。僕らしさって何だろう。この時は気づかなかったが、僕らしさを一言で言えば『信念』だ。納得がいかないことには全力で立ち向かうし、相手に関係なく反論したりもする。そのために僕は日本人から愛されなかった。
あいつらは従順で『協調性』のある人以外は人間扱いしない。
納得のいく生き方がしたい。だから愛してくれとは言わない。
――結局、冬休み明けの3学期から学校へ行かされることに。
むしろ行き続けた方が駄目人間に近づく気がする。あの感覚に慣れたらもう末期だ。インターネットが普及してなかった頃は、人生の全てが学校ありきで成り立っていた側面もあっただろう。時代は確実に変わり始めていた。時代が変わることを想定した仕組みが必要なはず。
少なくとも、僕には時代に合った教育が必要だった。
しかし、学校は必要なことに限って教えてくれない。
この事実が子供たちの生きる力を奪うことに繋がっている。労働者の価値が下がっていく時代に労働者を作っているのだから。不登校が問題なんじゃない。不登校になったら人生が詰む仕組みの方に問題があるのだ。学校ありきの社会では、内向的な人間は爪弾きにされる。
仕組みの設計の方に問題があると何故気づかないのだろうか。
――頭が昭和で止まってんじゃねえのか?
リサと話す一方、璃子はリサの弟、楠木ルイと話していた。
4人兄弟の上から2番目の長男、僕より1歳年下だが、僕よりしっかり者だ。
親戚内ではよくルイと比べられた。
「あず君はルイ君よりもお兄ちゃんなのに子供っぽいね」
これは外見だけを指して言っている言葉じゃない。僕は内面も年より子供っぽいのに対して、ルイは年相応だった。ただそれだけのことだった。この国では内面は年相応が良しとされているのに、何故か外見には永久の若さを求める。そして若さを失った者は老い耄れと呼ばれる。
元々は老いることをそこまで悪い意味で使っていなかったはずだ。昔は大老とか老中とか若年寄とか、もっと大した意味で使われていたはずなのに――。
3学期を迎えると、初登校が恐怖でしかなかった。
初日こそ本屋に行ってやり過ごしたが、親にばれると、しばらくは親と一緒に登校する破目に。
「あず君、昨日本屋にいたでしょ?」
「何で分かったわけ?」
「近所の子が教えてくれたの。商店街で起こったことはすぐうちにも伝わるの」
「またあいつらか」
商店街には僕以外にも何人か子供たちがいた。1番上から1番下まで、多少の年の差はあったけど、それでもみんな対等に接していた。僕は家に引き籠りがちだったため、一緒に遊ぶことはあまりなかった。それにしても、ここまでして僕を学校に行かせたい信念はどこからくるのか。ここまでくるともはや宗教である。無理矢理親に連れられ、学校に行かされた。この時背負っているランドセルには、連絡帳以外は何も入っていない。どうせ宿題をやらないと思って置き勉をしていた。
ある日のことだった――。
日光がカンカン照りで、たまらず家に帰ろうとしたところ、クラスメイトが僕に話しかけてきた。
普段は1人で帰るため、何も話題なんて用意していない。
「葉月って何が好きなの?」
「コーヒーだけど」
「あんな苦いもん好きなの!?」
「僕が飲んでるのは甘いコーヒーだ」
「甘い方? それ飲みに行っていい?」
「……いいけど」
同級生にコーヒーを淹れることに。いつものようにペーパーフィルターにインスタントコーヒーの粉を投入し、ケトルから出る熱湯を注いだ。クラスメイトが興味津々に注目する。
コップに抽出したコーヒーにミルクを入れてカプチーノができる。コップを同級生の目の前にあるテーブルに置くと、クラスメイトはすぐにカプチーノを飲んだ。
「美味いなこれ。でも甘くはないかな」
――えっ、一体どういうことだ? 甘味ならちゃんとあるだろ。
嘘だと思いながらそのカプチーノを飲んだ。ちゃんと牛乳の甘味はあった。
「えっ、これが甘くないの?」
相手の感覚を疑問に思いながら聞いた。
「全然甘くないよ」
「舌大丈夫か?」
「大丈夫に決まってるだろ。コーヒーは苦いから嫌いだ」
「味も分からないくせに、よくそんなことが言えたもんだな」
「はぁ!? コーヒーが飲めるくらいで調子乗んな!」
自分の口元を指差して聞く。すると、クラスメイトは怒ったまま帰ってしまった。
――味覚が心配になったから聞いただけなのに……。
帰ってきた親父に尋ねると、親父は答えた。
「あず君は味覚が鋭いから、コーヒーや牛乳の甘味が分かるけど、普通の人はそこまで分からないぞ」
初めて自分の味覚と他人の味覚が違うことを知った。相手視点で考えるのは凄く苦手だ。コーヒーの奥深さが分からないなんて人生損してる。
いつもの光景に比べたら平和な方だ。僕は進級するまでは、束の間の平和を楽しんでいた。
「ねえ、一緒に帰ろうよ」
下校した後、コーヒーのことばかりを考えて歩いていると、女子たちに声をかけられた。
どうやら僕を女子だと思っているらしい。
「僕、男なんだけど」
女子たちは信じられない表情で僕の目を見ている。1人の女子が口を開いた。
「えっ、本当に男子なの? 可愛い」
どうやら彼女たちのお眼鏡に適ったようだ。女子たちは僕とは違うクラスだった。こんな風に僕はしょっちゅう女と間違われる。初見で僕を男だと見抜けた者は未だにいない。
僕は体の性も自認の性も男で、性的対象は女。なのにここまで男扱いされない人間も珍しいだろう。僕としては男でも女でもなく、葉月梓という1人の人間として扱ってもらいたい。
女子とは当たり障りのない仲であった。緊張しながら教室に入ったが、意外にもほとんど目立つことはなかった。集団リンチをしてきたクラスメイトが集まってくると、何故か僕にペコペコ謝ってくる。
謝るくらいなら最初からしないでほしいものだ。
「許すからもう関わらないでくれ」
冷やかに告げ、クラスメイトと距離を置くことに。だがそれで安心したのも束の間、今度は担任が僕を呼び出してきたのだ。さっきの僕の言葉が気に入らなかったらしい。
「関わらないでほしいってどういうこと?」
「そのまんまの意味だけど」
「それじゃ許してないのと一緒だよ。仲良くしなさい!」
「言ってる意味が分からないんだけど」
「仲良くできないと居残りだよ」
「そういう先生だって僕と仲良くできてないじゃん。あいつらばっかり贔屓にしやがって」
許すことと関わることは別の話だ。過去に酷い目に遭わされてもう許したけど、こいつとは関わりたくないと思う人くらいいて当たり前だ。あの迫害でこいつらとは相性が悪いことが分かった。なのに何故関わらせようとするのか。学校のいじめ問題の原因がここにある。相性が悪い奴がいても、狭い教室で関わることを強制される。仲良くしたくないのに、仲良しを演じないといけない。演技ができない人は迫害の対象になる。仲良しを演じるとは、すなわち空気を読むことである。
日本では空気を読めない人は障害者として扱われる。
大人になっても治らなかったり、大人になってから浮き彫りになったりした場合も、やはり障害者というレッテルを張られる。病気というよりは、社会が多様性に不寛容な自分たちを正当化するために作った言葉とも言えるし、僕に言わせれば、空気を読むことを全員に強要する社会の方が病気だ。
家の都合で必要な時以外は医者に行くことはなかったが、頭の病院に行っていたら、何かしら病名を宣告されていただろう。もちろん、この後も何度かこいつらと関わることになり、僕がみんなと違うことをする度に迫害を受けた。他の子供がしていることって、僕からすればつまらないというか、自分と世間の価値観が一致しないのは結構きつい。
ライオンとシマウマを同じ檻に閉じ込めた場合、当然シマウマが食べられることは子供でも分かる。だから動物園は決してライオンとシマウマを同じ檻には入れない。
学校も親も少しは動物園を見習ったらどうだろうか。社畜に向いた子供だけ学校に行かせ、そうでない子供は家で学習する。それでいいじゃないか。
幸いなことに、3学期は特に事件らしい事件は起きなかった。あの運動会の件で懲りたんだろうか。担任が言うには、あの後うちの親から抗議の電話が来て、会議の末にみんなを叱ることになった。
――いくら何でも対応が遅すぎねえか?
どうも社会ってやつは、僕の我慢強さを試さずにはいられないらしい。
叱るだけで済むならこんな苦労はしない。この後も迫害を受け続けたあたり、全く懲りていないし、流石は将来の金太郎飴を期待されているだけのことはある。クラスメイトの話には溶け込めなかった。僕が小学生の頃は、子供たちの間でビデオゲームやカードゲームが流行っていた。後に僕もこれらのゲームにハマることになるが、この時は眼中にすら入らなかった。
コーヒーや料理のことで頭がいっぱいだった。僕は後にその想像を叶えることになる。子供の頃の夢は願い続ければ大抵は叶うものだと思ってる。じゃあ何故みんなは小さい時の夢を諦めてしまうのか。それは大きくなるにつれて、自分には無理だと思うようになるからだ。
男子はアスリートを目指す人が多いが、大半は途中で自分よりもレベルの高い人を見て挫折し、自分はあそこまではできないと限界を感じる。自分の限界を勝手に決めつけて、それを諦めるための免罪符にしている。夢を持つこと自体がアホらしいと思う。持たなくて済むなら持たなくてもいいし、本来夢とはロマンチストが持つものだ。大した夢が思いつかないならとりあえずの就職、もしくはニートになって引き籠ってもいい。当時はニートという言葉はなかったし、もしあったなら、将来の夢を聞かれた時にはニートと答えていただろう。何を隠そう、僕には働きたい願望がない。
働かずに食っていけるなら、それでいいとさえ思っている。
ある日のこと、給食の時に僕の班に混ざってきた担任から質問を受けた。
「葉月君の将来の夢は?」
「ない。何で夢を持たないといけないの?」
「えっ……だって夢叶えたいとか思わないの?」
「別に持たなくてもいいじゃん」
こんな他愛もない会話が続く。夢なんて持ちたい人が持っていればいいと思っている人と、夢は誰でも持っているのが前提という人が夢の話をしても会話が成立しない。担任は僕の意外な回答にきょとんとしていた。これで一気にまずい空気になり、僕は気づかないまま給食を食べ続ける。
「お前空気読めよ」
何故か隣に座っているクラスメイトに怒られてしまった。何を言われているのか分からなかった。
「空気は読むものじゃなくて、吸って吐くものだぞ」
今度はその同級生がきょとんとし、余計に気まずくなった。今思うと、本当に下手くそな立ち回りだった。人と関わらずに引き籠って好きなことだけしていたい。他人と顔を合わせるのが苦痛だし、引き籠ってコーヒーの研究とかいいんじゃないか?
同時に思っていたことがあった。色んな人に僕が淹れたコーヒーを飲ませたい。何かをさせられるのも苦痛だけど、何もしないのもそれと同じくらい苦痛である。人間特有のめんどくささというやつだ。
比較的平和な3学期が終わると、念願の春休みがやってくる。
僕はいつもの如く、おじいちゃんの家に遊びに行っていた。すると、おばあちゃんはこう言った。
「あず君は学校に行ってない時は生き生きしてるね」
至極当然である。子供にとっては監獄も同然の場所。こういう所でしか落ち着けない。コーヒーという楽しみがなかったら、僕はここまで生きていなかった。学校の外で得た知識の方がずっと僕のためになってる。おじいちゃんもおばあちゃんも璃子も、僕が登校の度に腹痛を起こすことを知っている。
下校する時には腹痛が治っている。ストレスは胃にくるものらしい。カプチーノは好きだが、牛乳だけを飲むことには抵抗がある。給食の時はいつも牛乳なしで過ごしていた。もちろん水筒のお茶は必須である。米にはやっぱりお茶が合うんだよ。量に限りがあるし、給食まであんまり飲めないけど。
「毎日コーヒーを飲んでるのに全然飽きないよね」
「そうだな。1日1杯は飲まないと気が済まないんだ」
「それ中毒じゃないの?」
「好きだからいいんだ」
僕のコーヒーの好きがみんなに知れ渡ったのはお袋の仕業だ。
ある日、近所の人から声をかけられた時だった。
「まだ子供なのに渋いね」
「コーヒーは渋いんじゃなくて甘いんだ」
トンチンカンな会話が続く。僕は相手の言葉を鵜呑みにしてしまうところがある。
「その渋いじゃないから!」
お袋が慌ててツッコミを入れる。
「すみません。うちの子、ちょっと変わっていまして」
僕の代わりに近所の人に申し訳なさそうに頭を下げる。相手の深層心理を読めないこともあり、人間関係でよくやらかす。この1年で分かったことがある。多くの生徒が自分の特徴に劣等感を持っていたことだ。僕は特にこれと言った劣等感は持ったことがない。
そんなものを持っていても、何の意味もないことを知っていた。
身長の話を挙げると、僕はよくチビと言われた。小さい頃から低身長で、今でも155センチのままである。15歳の時からは、外見が全くと言っていいほど変わっていない。低身長を含む自分の特徴が原因で困ったことは全くない。強いて言えば必ず年齢確認をさせられることくらいだが、これは苦痛の内に入らない。未成年に酒を買わせたら業者の責任になる。
劣等感を持っている連中がアホらしく見えた。何故ありのままの自分を愛せないのかが分からず理解に苦しんだ。僕がチビと言われる度に、近くにいた教師が相手に謝罪するように言っていた。
僕はいつも教師にこう言っていた。
「別に謝らなくていい。チビは悪口じゃない」
本人が嫌がっているならともかくとして、チビと言ったことを理由に謝らせるのは、教師自身が低身長に対して差別意識を持っているからに他ならない。僕には差別意識なんてなかった。
無論、言わなくてもいいなら言わないに越したことはないが……。
日本では差別の対象に触れることをタブー視する傾向がある。差別意識があるからこそ、それを悪く思って言った者を謝らせようとするが、教師自身が低身長を悪いと思っていることには、僕以外誰も気づかなかった。何故日本人には劣等感を持つ人が多いのか、それは通信簿で言えば、オール3の人間になろうとするからだ。いや、厳密に言えばなることを強要されてきたからだ。
得意科目は勉強しろと言われないのに、苦手科目は執拗に勉強しろと言われた経験を持つ者は多くいるだろう。日本では苦手な部分と人と違う部分は徹底的に矯正される。これこそがみんなの持つ劣等感の正体だ。そんなことを繰り返していれば、自然な形で弱点と相違点を悪く思うようになる。
高身長と低身長は、どちらも平均身長から遠い位置にあり、悪い相違点と思うようになるからこそ、平均から離れた身長の人は劣等感を持ちやすい。あの教師もまた、この教育システムの被害者である。
この国で劣等感を持たずに済む人間は、僕みたいに世間体を気にしない人間か、平均的な特徴しか持っていない人間だけなのだ。世間体なんて気にしないし、みんなが重要と思っていることを重要に思わないことが多い。僕みたいに世間にも競争にも参加しようとしない人間は、ある意味最も幸せな人間じゃなかろうかと思った日もあるくらいだ。
ある日のこと、僕はクラスメイトに絡まれた。
「お前また0点かよ。頭悪いなー」
「だってテストとかつまんないじゃん」
クラスメイトは全くビクともしない僕の姿勢に腹を立てている。
「お前そんなんじゃ将来やばいぞ!」
「僕は毎日コーヒーさえ飲めればそれでいい」
クラスメイトは大袈裟に煽ってきたが、僕は余裕の表情で返した。クラスメイトは顰めっ面のまま悔しがっていた。まあ、こんなことで勝ったと思うのもアホだと思うが。
一度普通の人のプロフィールを作ったことがある。身長や体重などの数字は平均値を採用し、出身地や血液型なんかは最も人口の多い種類を採用し、普通の人を作り上げていった。すると、驚くほど没個性な人間が出来上がってしまい、逆にこんな奴いないだろうとさえ思ってしまった。
日本の教育が没個性と言われるのは、弱点と相違点をなくすことを何より重視しているからだ。何故そうなっているかと言えば、企業に納める部品を作ろうとしているからである。
言い方は悪いが、学校はしっかり動く部品を作るための社畜養成工場だ。
数ある部品の中から良品だけを企業に内定という形で納め、個性を持った部品は不良品と見なされ、各家庭にお払い箱となる。そうなってしまった部品は捨てられて自然消滅するのを待つか、良品と差別化を図って生きていくしかない。それを考えれば、就労支援施設は曲がった部品を元に戻す廃品工場と言える。結局のところ、国は子供を金稼ぎの道具としか思っていないのだ。
学校が子供にお金の稼ぎ方を教えないのは、全員に就職というレールを敷きたいからだ。お金の稼ぎ方を教えてしまうと、就職よりも稼ぎやすい生き方を選ぶ人が増え、就職する人が減ってしまう。
僕が気づくのに時間はかからなかった。元々就職に向いていないというのもあったが、経営者にとってはさぞ都合の良い社畜養成所なんだろう。明治政府が労働者や兵士としてこき使うために、従順性、体力、読み書きを子供たちに教えていたと気づくまでは明治時代が好きだったが、今は江戸時代が好きな一方で、明治時代は嫌いになるに至った。
諸悪の根源、義務教育を導入し、必要以上に維持し続けた。
何を作ってるのか認識もせずに……ただ完成を急いだ。
義務教育の被害者は僕で最後にしたいところだが、そうはいかないらしい。今後も明治から昭和にかけての発想が脈々と受け継がれていくのだろう。自分の子供にはこんな国の学校には行かせたくない。そう思う人がいるのも少子化の原因だと思うが……。
春休みはあっという間に過ぎていった――。
僕は小2に進級する。勉強の内容はほとんど覚えていなかった。留年のある国であれば、ずっと進級できないまま、何年か経って放校処分だっただろう。
授業はあんなに長く感じるのに、長期休暇はすぐ終わってしまう。
小2は比較的平和だったが、事件からは逃げられなかった。
社会性が壊滅的な主人公なのであまり人と話しません。
あと現実世界準拠の説明多めです。
楠木ルイ(CV:梶裕貴)