392杯目「決戦の契約書」
葉月グループと杉山グループが交わした契約書の内容は以下の通り。
第一条、葉月グループと杉山グループは優勝回数勝負を行い、勝った側の望みに従うものとする。
第二条、バリスタオリンピック優勝者は優勝回数勝負に参加しないものとする。
第三条、優勝回数勝負は2023年から2025年までの3年間、9月のコーヒーイベントで行われる7種類のバリスタ競技会のみを勝負の対象とする。7種類のバリスタ競技会とは、JBC、JLAC、JBrC、JCTC、JCIGSC、JCRC、JCCの7種類。
第四条、この優勝回数勝負は内密とし、関係者以外の者に契約内容が知れ渡ってしまった場合、またはどちらかのグループによる相手グループへの妨害工作が発覚した場合、勝負が困難となった場合は勝負自体が無効となり、過失が認められたグループの敗北とする。
第五条、3年間に行われる、合計21回のバリスタ競技会で、11勝したグループを優勢勝ちとする。どちらのグループのバリスタも優勝できなかったバリスタ競技会については、他の個人及び企業を除く、最も順位の高いバリスタが所属しているグループを優勢勝ちとする。
第六条、負けた側が勝った側の望みに従わない場合、負けたグループは法的拘束力に則り、勝ったグループに全財産を支払い、全ての企業を解体するか、相手グループに引き渡すものとする。
つまり、僕と伊織はバリスタ競技会に参加するなということか。これくらいのハンデは欲しいと言わんばかりだが、杉山グループをコーヒー業界から排除するチャンス。鍛冶社長も手放しにはしておけない。
「楽しみにしているよ。君がコーヒー業界から去ることをね」
「何故僕に喧嘩を売る?」
「今のコーヒー業界は君たちトップバリスタのお陰で利益が集まる貯金箱のようなものだ。私がコーヒー業界で稼ぐには、君のように社会の利益を最優先に考える輩は邪魔な存在なんでね。もう分かっているはずだ。君の役割は終わった。そろそろ退いてもらいたい。君には一度私の計画を邪魔されているが、村瀬グループはどうせ終わる雑魚グループだった。中部地方の支配権を固めるチャンスだったが、まあいい」
「カジモール計画を遂行するよう、鍛冶社長に命令を下したのはあんただろ?」
「ご名答。君の洞察力には脱帽だ。何故分かった?」
「最初こそカジモール計画は鍛冶社長による計画だと思ったけど、わざわざ近隣住民を押し退けてまでやるようなことじゃないし、鍛冶社長が立案した計画ならもっと早く実行していたはずだ。あの溝鼠は行動力だけは一人前だ。カジモール計画に参加する企業との関係を調べさせてもらった。杉山グループにとって重要な取引先の企業ばかりだった。あんたは中部地方の国道沿いに、収入源となる巨大なショッピングモールを建てたかったが、自分でやったら角が立つ。そこで取引先を利用した。鍛冶社長を選挙で勝たせてやるとか言って、鍛冶社長名義で計画を実行に移させたんだろ? 鍛冶社長は取引先を杉山グループに依存している。そのことを知っていたあんたが、あの溝鼠を手懐けることくらい造作もない」
「ふふふふふっ! そこまで見抜かれていたか」
不敵な笑みを浮かべる杉山社長が僕に向かって歩み寄り、ほんのりと煙草臭が鼻を突いてくる。
「そこまでして収入源を確保しようとしている理由は何だ?」
「……まあいい、教えてやろう。北陸道には人が密集している。インターネットのお陰でわざわざ大都市に住む理由がなくなった今、人口の多い大都市を離れて、地方に移り住む若者が続出するようになった。カジモール計画はその動向に合わせた計画だ。北陸道には根本君の故郷もある。地元から選考会を連覇するバリスタが出てきたんだ。それに続こうと、バリスタを目指す者も次々と現れる」
「よく言うよ。何度も根本を妨害したくせに」
「君は私が根本君を脱落させた理由が分かっていないようだ」
「僕はてっきり、早く帰国させようとしたものとばかり思ってた」
「根本君を失格にした理由は他でもない。穂岐山社長がバリスタオリンピック参加者を帰国させ、訴訟を取り下げる代わりに、穂岐山珈琲の名前を保持した上で、育成部の分社化を認めた。私はコーヒー会社の優秀な社員が手に入ればそれでいい。穂岐山社長は根本君の競技よりも、会社の存続を選んだ」
こいつ……何て性格の悪い野郎だ。
苦渋の決断を相手に委ね、どっちを選んでも吸収合併できるって寸法か。
しかも名目上は穂岐山社長が根本を失格にしたことになっているし、自ら手は出したくないか。だったらその手を力尽くで引き摺り出してやるまでだ。
「穂岐山珈琲のことはこの際どうでもいい。だがあんたは僕に喧嘩を売った。バリスタオリンピックに水を差した件だけでも、十分戦う理由になる」
「根本君を失格にしなければ、君の2人目の恋人が優勝できなかったんじゃないかな?」
「心配しなくても、あいつなら次回大会で優勝できたと確信してる。その時期が早まったというだけだ」
「もう終わった話だ。お陰で葉月グループの株も上がったじゃないか」
「根本は選考会に出る資格がなかった。協会の会員から聞いた。書類選考で問われるのは、前回大会が終わった年から数えて4年間の大会実績。根本はその間実績を残せなかった。そこで松野が選考会を降りることで、空きが出た場合の推薦枠で根本が選考会に参加できた。あいつは妨害工作がなくても、どの道出られなかったわけだ。松野は鍛冶社長の妨害工作だと思ってるけど、根本が書類選考に落ちたのは誰かの妨害じゃない。あんたはバリスタオリンピックでの妨害工作を通して、意図せず歴史を修正した」
「何が言いたい?」
「コーヒーが僕にあんたを退治するよう命じたってことだ。バリスタにとってコーヒーは神様だ。神からの天命には僕とて逆らえない」
「まっ、君が何を考えようとも、あと3年で決着がつく。残り少ない時間をじっくり楽しめ」
杉山社長が小さな声で笑いながら去っていく。
それにしても、あの自信はどこから湧いてくるんだ?
プロ契約制度もなしに挑もうという姿勢は立派だが、そう簡単に勝てるほど甘くはない。奴らはアマチュアチームを組んで大会に臨んでいる。葉月グループからも数十人の参加者がいるが、いずれもプロ契約を結んでいる将来有望なバリスタだ。元穂岐山珈琲所属だったバリスタもいる。
穂岐山珈琲育成部は収入が減ってしまい、多くの社員を杉山珈琲に置いてきてしまった。石原のように裏切った者もいるし、引っ越しが嫌で退職した者もいる。杉山珈琲は失業したバリスタばかりか、外国からも優秀なバリスタを次々と引き抜いていたのだ。日本代表は日本国籍を持っていなければなれないが、ただバリスタ競技会に参加するだけであれば、外国人も可能である。
つまり、僕らは国内予選の段階から世界を相手に戦うことになったわけだ。
――大会2日目――
この日は那月と弥生が参加しているJLAC決勝、皐月が参加しているJBC決勝だ。次の日にはJBrC準決勝、JCTC準決勝と決勝が行われる。大会最終日には協会が主催していないマイナー競技会が行われる。
後で一部の身内には契約書の件を伝えるが、他の連中には黙っておこう。優子は那月のサポーターに加えて鍛冶社長の悪事を洗い出すつもりだろうから、仕事に集中させてやりたい。
プロバリスタたちには、この決戦に全てが懸かっている。
皐月たちは次のバリスタオリンピックまでの間、継続的に大会に出続けるつもりだが、ここは3年ほど報酬の額を上げた方が良さそうだ。負ければ次がないばかりか、コーヒー事業を解体しなければならなくなる。投資を惜しむ気はないが、杉山珈琲もそれは同じであるようだ。
「あんたが葉月社長か?」
2人の男が僕らに向かって闊歩すると、1人の長身で黒いチョッキを着た男が声をかけてくる。
もう1人はかなりずぼらな格好で、丸い眼鏡を指でクイッと上にあげ、僕らを見下ろすように細い目で眺めているかと思えば、皐月たちを舐めるように観察する。
「そうだけど……」
「俺は村雲政宗。こっちは鷹見輝元。俺たちは杉山珈琲で結成されたばかりのアマチュアチームだ。杉山珈琲は本来あるべきバリスタの姿を取り戻すべく、プロ契約制度がなくてもバリスタ競技会で勝てることを証明する。覚悟しておけ」
高らかに宣言するように村雲が言った。どうやらこいつらがアマチュアチームの連中らしい。
聞けばこいつらは、杉山珈琲社員の中でも最優秀バリスタとされ、外国人込みの混成チームのようだ。
チームリーダーの村雲は僕らを挑発するように対立を煽り、自らはJBCに参加する予定で、鷹見はJLACに参加するようだ。こいつらは皐月たちのように複数の大会に出るのではなく、それぞれが最も得意とする大会に1人ずつ参加する。
ということは、アマチュアチームのメンバーは少なくとも7人いる計算になる。
流石にバリスタオリンピックを制覇する自信はないようで、あくまでも国内予選のみで決着をつけることを望んでいるあたり、ここがプロとアマの実力を拮抗させる限界であると考えているようだ。
「まっ、そういうわけだから、俺たちに勝とうなんて思わないことだな」
鷹見が鼻にかけるように言った。大方杉山社長に宣戦布告するよう言われたのだろう。
「勝負しろと言うなら、受けて立ちましょう。私たちは逃げも隠れもしません」
僕の真後ろにいた皐月が前に出ると、凛々しい声をたくましく響かせながら言った。
「……立花、何でお前が葉月グループにいるんだ?」
「どこにいようと私の勝手です。鷹見さんこそ、どうしてアマチュアチームにいるんですか?」
「俺は杉山グループの社員として雇われたんだよ。杉山社長の意向で有望なバリスタを社員として、正規雇用で採用するって聞いたから、急いで大分の店を辞めて上京したんだよ」
「知り合いか?」
「鷹見さんは中学時代の先輩だ。大分のカフェで働いていた人で、鷹見さんの弟が私の同級生だ」
「なるほど」
「穂岐山珈琲を蹴ってまで葉月グループなんかに入るなんて、お前も落ちたもんだな。そいつはコーヒー業界のためとか言いながら、儲けることばかりを考えてるような奴だぞ」
「仮にそうだとして、儲けることの何が悪いのかが分かりません。あなた方が杉山社長に何を言われたかは知りませんけど、敵対するなら容赦はしません」
鋭い眼光を飛ばしながら皐月が言った。
つり目ということも手伝ってか、いつもより目つきが悪く見える。
皐月が僕の手を引っ張ると、自らの控え室まで連れていく。何故皐月の先輩がいるのかは知らないが、ここで出会うということは、恐らくバリスタ仲間だ。先輩相手でも一歩も引かないあたり、かなり肝が据わっているが、これが九州女子というものなのか?
「どうやら杉山社長は、葉月グループを潰すためにアマチュアチームを結成したらしい。プロ契約を結んでいないバリスタを世界中から集めて対抗する気だ」
「いいんじゃねえの。丁度対抗馬ができたんだ。それでこそぶっ潰し甲斐があるってもんよ」
「――いつでも前向きだな。おっと、私もそろそろ競技時間だ。見ていてくれ。私の競技を」
「もちろん」
皐月も感づいたようだ。あんなあからさまな挑発を受けたのは久しぶりだ。
まるで学生時代に戻ったような感覚だが、今回は味方がいる。とても頼りになる味方が――。
午後2時、JBC決勝に残った5人の中で最後の競技者となった皐月がステージ中央に立った。バリスタオリンピックとは異なり、ステージ設計をしなくてもいいのが楽だが、配置だけは本人が決めなければならない。自由なスタイルで臨めるのは、皐月にとって有利かもしれない。
皐月が右手を掲げ、時間を計る運営スタッフの顔を見る。
「始めます。私はコーヒーの全てを知り尽くそうと、幼い頃よりバリスタオリンピックの影響からコーヒーの研究を始め、物心がついた頃にはコーヒーの虜でした。今回のテーマは進化です。コーヒーの進化は新しい品種の開発だけでなく、新しい抽出器具やグラインダーの開発によるところが大きいのです。今回使うコーヒーは、エチオピアゲイシャ、XOプロセスのコーヒーです。このコーヒーが持つレモンのフレーバーが、最新式グラインダーでより美味しくなるところをご覧ください」
説明と作業を同時にこなし、早速コーヒー豆を最新式グラインダーに投入し、粉をポルタフィルターに入れてからエスプレッソマシンに素早く運ぶと、エスプレッソを淹れている間に、センサリージャッジの近くに置かれたコップに水を注いだ。待ち時間をここまで有効に使うとは。
伊織が最適解を出す天才なら、皐月は作業を最適化する天才だ。
エスプレッソ、ミルクビバレッジ、シグネチャードリンクのフレーバーやタクタイルを説明し、パンフレットのページを開かせた。そこには使っているグラインダーの断面図がある。
「グラインダーを介さずにコーヒーを飲むことはできません。抽出器具がなくてもコーヒーを飲むことはできますが、グラインドをしないでコーヒーを飲む方法はありません。そのためグラインダーはコーヒーという液体を飲むためには絶対に通らなければならない道なのです。ではグラインダーの役割とは何か、それはコーヒー豆が持っているポテンシャルをどこまで崩さず、100%出し切れるかです。これこそがグラインダーの発揮できる要素であると感じます。この最新式グラインダーは1枚目の刃に大きなコーヒー豆を粗く砕く性能があります。そこから砕かれたものが、今度は下の刃に落ちて更に細かく一定の粒度で挽かれてから出てきます。これが『ダブルグラインド構造』です」
会場中の関心を集めながら、工場見学の案内役のように、内部の構造を楽しく解説する皐月。
ヘッドジャッジが一瞬スコアシートの記入を忘れるほど熱が入っている。
同じバリスタとして、是非とも知っておきたいと目が言っている。
「グラインダーは1つの刃で、全ての工程を完了しなければならないため、色々なストレスがあります。ダブルグラインドという、ざっくりとした1枚目の刃で挽き、2枚目の刃で細かく一定の粒度で挽くことによって、豆へのストレスも非常に少なく、粒度も一定に揃い、非常に高い精度で実現できます。進化を遂げた最新式グラインダーのダブルグラインド構造の重要なポイントです。既存の刃とは違ったパフォーマンスを発揮するのです。既存のフラット刃はアロマを引き出すのに長けていますが、クリーンなフィニッシュに関して言えば、時々土っぽさを感じることがあります。コニカル刃は甘味や口当たりは良いのですが、アロマが感じられない傾向にありますが最新式はこれらの長所を併せ持っています」
豆へのストレスが少なければ、よりクリーンな味わいになるが、これが長年の課題とされていた。
僕とて性能に優れたグラインダーを手に入れるのは苦労した。バリスタ競技会でグラインダーが主役のプレゼンが行われたのは、恐らく初めてだろう。
「香りはとてもピュアでハッキリしていると思いますが、一方でコーヒーの甘さと透明感も表現されています。今までになかったイノベーションでコーヒー1杯のカップを美味しくしていく、そんな要素があるのではないかと感じています。私が最も驚いたのは、歯の形状によって味が全く変わってしまう点です。製作者はミリ単位で改良を重ね、見た目は変わりないように見えても、出てくるコーヒーは違うのです。何を評価して私たちは美味しいと思うのか、これは消費者側の擦り合わせです。そして刃の形状とコーヒーの種類が生産者側の擦り合わせで、実際に出てくる液体を刃と擦り合わせて作っていく作業は本当に大変です。しかしながら、これが正解だとは思えていません。まだまだグラインダーを進化させていくという意味でも、自分たちの中で開発の答えは出ていないというのが正直なところです」
1枚目の刃で粗く挽かれ、2枚目で一定の粒度で挽かれる。
このダブルグラインド構造の間に『チャフ分離』と呼ばれる機能が存在する。
コーヒー豆の中にはシルバースキンと呼ばれる、味にとって必要のない要素が出てくるが、従来のグラインダーには、シルバースキンを取り出す工程は一切なかった。だがこの機能により、シルバースキンを全部吸い取り、味に関係のない要素はコーヒーから取り除くことが可能となった。バリスタの実力がより反映されやすくなったわけだが、まだ一部でしか発売されていない。皐月があんなものをどうやって持ってきたのかは知らないが、やはり立花グループの後押しだろうか。
「ダブルグラインドにより、コーヒーのフレーバーがより強調され、本来の味わいとなります。今まで当たり前のように使ってきたグラインダーや抽出器具には、もしかしたら、コーヒーの可能性を完全には引き出せていない可能性があることが分かると思います。私たちはまだ、コーヒーが持つ本来の味わいを知らないのかもしれません。いかにしてコーヒーの可能性に行きつくのか、それができるかどうかは、コーヒーに携わる全ての人に懸かっていると思います。終わります」
圧巻とも言える皐月の競技は、誰もがあっという間に感じるほどの完成度だ。
杉山珈琲の連中も、皐月を前にしてプロの風格を見た。この意識の高さには恐怖すら覚えた。
しかしながら、アマチュアチームの連中らしき者たちは、面白そうに口角を上げる余裕すらある。
プロとアマの違いが紙一重のように思える。目に見える違いだけで言えば、時給を貰うか、成果報酬を貰うかという違いだが、それは安定を捨てる覚悟があるかどうかの違いでもある。社員として安定した稼ぎを持ちながら戦うのがアマチュアなら、人生を懸けて全てをぶつけるのがプロだ。
そして――。
「今年のジャパンバリスタチャンピオンシップ優勝は……株式会社葉月珈琲、葉月創製岐阜市本店、立花皐月バリスタです。おめでとうございます!」
会場中から拍手が喝采する。皐月の隣には準優勝に輝いた村雲がいる。競技内容はどこか穂岐山珈琲の競技によく似ていて、世界チャンピオンの模したプレゼンだが、それでも準優勝するのは、やはり完成度が高いのだ。ただ模倣するだけでなく、自分のオリジナリティーを混ぜ、より完成度を上げている。
間違いない。彼らは改良の天才なのだ。自分の競技を作っていく力はないが、それを補うように、誰かの競技を模倣し、欠陥を埋める力がある。これ自体に希少性はなく、磨けば大抵の人が習得できる。模倣であれ何であれ、正解があれば強くなれるのがこの国の連中だ。
恐らく僕らの敵は、アマチュアチームではなく、従来の教育かもしれない。
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村雲政宗(CV:鳥海浩輔)
鷹見輝元(CV:野島健児)




